『満州、少国民の戦記』復刻――藤原作弥さんインタビュー
週刊エコノミスト 2024年11月26日号
ノンフィクション作家 藤原作弥
時事通信社解説委員長、日本銀行副総裁など多彩な経歴を持つ藤原作弥さんの1984年刊行のノンフィクションが『満州、少国民の戦記 総集編』として復刻再販された。「平和への思いを伝えることは自分の使命です」
(聞き手=井上志津・ライター)
「『僕だけ生きてごめんなさい』が今も続く」
── ノンフィクション『満州、少国民の戦記 総集編』(愛育出版)が今年7月に復刻再販されました。新潮社から1984年に出版された『満州、少国民の戦記』が今回、「総集編」として復刻された経緯を教えてください。
藤原 ロシアによるウクライナ侵攻が2022年2月に始まり、日本の若者の間で80年前の戦争への関心が高まっているとのことで、愛育出版からお話をいただきました。『満州、少国民の戦記』は私が8、9歳の時の体験をもとにした記録ですが、初版刊行からこれまでの間に行われた岩見隆夫氏(政治評論家)、なかにし礼氏(作家)ら引き揚げ当事者によるシンポジウムの原稿や、講演、現在の論考なども加えて「総集編」とすれば、日本が作った傀儡(かいらい)国家「満州国」を改めて知る一つの資料になるのではないかと考えました。
── 藤原さんは安東でタバコ売りをして過ごしたとか。なぜタバコ売りをしたのですか。
藤原 少しでもお金を稼いで家計を助けるためでした。闇市でタバコを売りながら、8歳から9歳にかけての私が見たのは、旧約聖書の創世記に出てくる退廃的な町「ソドムとゴモラ」のような悪徳の世界でした。強盗、殺人、婦女暴行……。恐怖の交じった好奇心で、私は毎日それを見ていたものです。長じてドラマでセックスシーンや殺人シーンを見た時、何とも思いませんでした。
鴨緑江のほとりで銃殺刑を見たこともありました。八路軍(中国共産党軍)が敵対する国民党軍の兵士を処刑していたのです。10人ほどの兵士がバババッと撃たれていくのを見ていた私は、終わり近くなって気絶しました。
「葛根廟事件」を知った衝撃
── 日本人も処刑されたそうですね。
藤原 安東市公署で幹部職員を務めていた人や経済人たちが八路軍の人民裁判にかけられ、処刑されました。このため、私たちを興安街から安東へ率いた軍官学校の幹部や市公署の職員らは捕まらないように地下に潜りました。私の父は古本屋を経営しながら、地下診療所を開いたり、密造酒を作ったりして潜伏者や日本人の取りまとめをしていました。安東で別の書店を経営していた、後に俳優になる芦田伸介さんも訪ねてきていたそうです。
── 日銀記者クラブに詰めていた時に葛根廟事件について知ったのですね。
藤原 国民学校の同級生が日銀仙台支店に勤めていて、偶然、私の名前を見つけて電話をくれたのです。東京で再会し、彼からこの事件のことを聞くまで、不覚にも私は何も知りませんでした。同窓生の大半が非業の死を遂げていたと聞かされた時の衝撃は、今もうまく言い表すことができません。私は父が軍官学校の関係者だったため情報が早く入り、一足先に脱出できたのです。卑近な感想ですが、僕だけ生きてごめんなさいという気持ちでした。それがきっかけで当時を知っている人を訪ね歩いて「満州、少国民の戦記」を完成させ、残留孤児問題などのボランティアも始めましたが、罪悪感は今も消えません。
「日本は列強に追いつき追い越せと軍事大国化し、戦争に負けると今度はマネーゲームに突っ走り再び破綻した」
── 満州国はなぜ作られたと思いますか。
藤原 日本はペリーに開国を迫られて以来、自分で自分の国のプランを立てず、国家としてのアイデンティティーをわきまえないまま、列強に追いつき追い越せと軍事大国に突き進みました。満州国の建設はその結果だと思います。しかし、日本は戦争に負けると、軍事大国が良くないなら今度は経済だとマネーゲームに突っ走り、再び破綻をきたしました。今度こそ日本は軍事大国でも経済大国でもない、文化を重視したグランドデザインを描く必要があると私は考えています。
経済記者から日銀副総裁に
『満州、少国民の戦記』刊行後、藤原さんは87年、戦前から戦中にかけて満州で女優・歌手として活躍した李香蘭(山口淑子氏)の自伝『李香蘭 私の半生』も執筆。07年にはテレビドラマ化されるなど話題となった。時事通信社解説委員長を務めていた98年、日本銀行副総裁に就任。日銀はバブル景気崩壊後、金融機関の破綻が相次ぎ、接待汚職事件も発覚したことで正副総裁が辞任を余儀なくされていた。ジャーナリスト出身の副総裁誕生は世間を驚かせた。
―― 副総裁の打診はどんなふうに?
藤原 私自身も正副総裁の後任人事を取材している最中、自宅に官房副長官から電話があり、「副総裁をお願いしたい」と言われました。もちろん即座にお断りしました。でも、橋本龍太郎首相(当時)から2度、直接電話が来て……。私はその前に金融制度調査会(当時は蔵相の諮問機関)の委員を務め、新聞記者の立場から日銀法改正の改革案をいくつか出していたんです。
政府の意向に左右されないよう日銀に独立性を与えるべきだとか、それまで正副総裁1人ずつだったのを総裁1人、副総裁2人にし、副総裁の1人は金融理論や学術的な知識や経験を持つ人、もう1人は外から新風を入れるべきだといった内容です。橋本首相に「あなたが改革案を実施してください」と説得され、確かに言ったのは自分なので責任を取ろうと、家族の反対を押し切って引き受けました。
―― 副総裁を務めた98年から03年は、アジア通貨危機や日本の金融危機、速水優総裁下でのゼロ金利解除など激動の時代でした。藤原さんにとってはどんな5年間でしたか。
藤原 私が務めた5年間は新日銀法の精神を一番発揮できていた時期だったと思います。どこから文句を言われても言うべきことは主張し、民主的で生き生きとしていました。
―― 副総裁として心がけたことは。
藤原 それまで政府の言うなりになっていた日銀の政策運営を民主的にする役割を自分が買って出ようということです。さまざまな改革をやりました。具体的には、女性職員の制服の廃止、役員食堂の廃止、文書のフォームが文語体だったのを平易な言葉に直す……。5年の間に不採算支店の廃止や、保養所、ゴルフ会員権の売却もしました。約6000人だった職員数は1割削減し、メガバンク並みの給与水準も段階的に下げました。
「放浪して観察して表現」
―― 日銀は現在、植田和男総裁下で物価安定や為替の安定に苦慮しているようにみえます。当時のGDP(国内総生産)世界2位だった日本は、ドイツやインドに抜かれて5位転落も視野に入ります。
藤原 昔の金融政策は、こういう場合はこうするといったおおよその方程式がありましたが、今は世界が複雑になって、経済のメカニズムだけで計算できない時代なので難しいです。GDPもその数字が持つ意味が、大きければいいことなのか、小さい方がむしろいいのか、指標にならなくなってきたと思います。
植田総裁は私の在任中、東大教授から日銀の新政策委員として就任し、年齢は一番若かったけれどさまざまな具体的提案をしていた人。時には政策当局の中に入り、時には学問を通じて理論的に考えてきた人ですから、他の人に比べれば今の中央銀行を運営する資格を備えています。新日銀法の精神がまた戻るのではないかということも期待しています。
―― 藤原さんは引き揚げ体験者、経済記者、中央銀行幹部、ノンフィクション作家など多彩な経歴を歩んできましたが、自身の本分をどう捉えていますか。
藤原 職業名で言うと、どれもぴったりしないんですよね。放浪して、観察して、それを表現してきたという感じでしょうか。
―― 経済記者としてテーマにしてきたことはありますか。
藤原 問題提起をする時に対案を出す記者であることです。だから金融制度調査会の委員をしていた時、日銀法改正の改革案を出し、やぶへびになってしまいました。
―― 今後やりたいことは?
藤原 特にないかな。80歳を過ぎて大腸がん、肝臓がん、舌がんと三つもがんにかかりましたが、今はおかげさまで元気です。強いて言えば、ようやく総集編を刊行できたものの、誤字が多いので、次の版で直したいです。
―― 昨秋からはイスラエルによるガザ攻撃も始まり、現在も各地で戦争はやみません。藤原さんが8、9歳で見た悪徳の世界を今見ている子どもたちに、何と言いたいですか。
藤原 私は生き延びて、長じて、「ああ、あれはああいうことだったのか」と振り返ることができましたが、今、それぞれの国で、子どもたちがそう思えるまで生き延びられるのか、それを考えると言葉がありません。その気持ちは、少し前まで一緒に過ごしていたクラスメートがソ連軍に虐殺されたことに対する罪悪感と同じものです。「僕だけ生きてごめんなさい」という思いは今も続いています。