枝豆の匂いがしたから 【小説】
地面に倒れてなお空をめざすユリ、
耳の裏に響く蝉のこえ、
青いキャンバスに重なった雲の油絵。
静かにうなる扇風機、
不規則に揺れる洗濯機。
枝豆のにおい
「今日はそうめんかな」
湯気の立つ、円柱型の銅鍋を見つめる。
夏の終わり、もしくは晩夏の初め。
聴き慣れない平成のポップスが遠くで流れてる。
数ヶ月前に会ったきれいな女の子のことを思い出した。
華奢なんていう豪華な文字では足りないほど、細くて、か弱くて、それでいて狡猾そうなひと。
記憶のうわずみをすくい取って持ち去るような、そんな女の子。
その日は、特に晴れていたわけでもなかったと思う。
傘はさしていなかったから、雨天でもない。
朝だったか、夕方だったかも定かではない。
きっとそんな一日を彩る記憶は消されてしまったんだろう。僕とその子だけ、さみしい道を歩いていたことは憶えている。
彼女は自分のことを「 」と呼んで、うははっ と確かに笑った。
なんの話をした?
始終黙ってどこかに向かって歩いていたわけではないと思う。
確かなのは、住宅街の一角でラジオを流しながら庭仕事をしていた人がいたときのこと。その子が、僕を上目遣いで見上げて言ったこと。
「人を食べてる音?」
どうだろうね、と曖昧な返事をした。会話において語彙力や社交性のない僕の、最大限努力した結果。
怖いなとかそういう感情は特に湧かなかった。その子に返す言葉が僕のボキャブラリーに見当たらなくて、ふふっと笑われたけれど。
あぁそうだ、空が青かった。
飛行機雲が空にまっすぐ架かって、ずっと遠くまで続いていた。
僕の隣で歩いていた彼女が空を指さして、「空が割れてるー」と言った。雲だよと言えばよかったのか、僕はなんて返したかな。
隔てる線に見えるけど、切れてなんかいないんだよ。
いやでも、本当は、空は毎日切り刻まれてるのかもしれない。僕らの知らないところで、傷ついているのかもしれない。
彼女だけがそれをわかっているのかも、知れなかった。
ふと気づくと、枝豆を茹でるための砂時計が砂を落とし終わっていた。立ち上がって、コンロの火を止める。
茹で過ぎただろうから、そのままザルにあげて常温で冷ます。
それから、そうめんを茹でるための水を火にかけた。
塩味をまとった枝豆のにおい、
煮立つ水のにおい。
やりきれない過去のにおい。
「やっぱりうどんにしよう」
いつの間にか雨が降っていた。
曇天でもないから、きっとすぐ止むだろう。
雨に降られながら、プランターのしその葉をいくつか摘んだ。
障子紙とか新聞紙、コピー誌、画用紙、雑誌の切り抜きと数枚の写真。
水差し、水のバケツと大量の絵筆、絵の具と油の瓶が並ぶ。
三台のイーゼルに、二枚のキャンバスを立てかけてある。
散らばった思想と、壁に飛び散っている乾いた絵の具の跡。
空を描いている。
偽物みたいなとある空を。
彼女が指さした空を割る飛行機雲と、夏の写真の空。
狭い空に塗り重ねられて、窮屈そうで掴めそうな雲の絵が一枚。それに、
広い空を悠々と横切って、壮大で遠く高く映える雲の絵が一枚。きっと、
僕は片方の絵を捨てるだろう。
失恋、諦念…
何が僕の筆を動かすのだろうか。
ふっと、開け放った窓からの雨の匂いが、僕を射抜いて吹き荒れた。
雨上がりの優しい匂い。
あぁそうだ、空は青い。
純白の絵の具をたっぷり筆に浸らせて、燃えあがるような、空を描こう。