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養生する

皆様、日頃から養生はされていますか?

パーリ語女子会(仮称)という月一回の仏教座談会のようなzoom女子会がありまして、そこでの昨年の流行語大賞は、私的には「養生」でした笑
養生という言葉は、アチャン・ニャーナラトー師という上座仏教の日本人僧侶の方が仰られた言葉なのですが、メンバーそれぞれの「養生」という言葉の理解と味わいがあり、、
この度は、私自身の味わいを少し書いてみようかなあと思った次第です。

養生とは

1.
衛生をまもり健康の増進に心がけること。また、病気をなおすように努めること。
 「医者の不―」
2.
建築工事などで、破損防止の手当。
 「コンクリートの―」

まあ主には1、の方の意味だと思います。

わりと養生って難しいんですよね。
病気にならないように予防したり健康を増進したり心がけていても、風邪ひきますし、病気になりますしね。
若い頃はそれでも体力も免疫力もありますから、少々無理をしても平気だったり、少し休めば回復も早かったりしますが。。それも健康な方の話ですね。
病気の方の養生は、病気が緩和するように、治るように身体と心を休める、が主だと思います。
その他にも養生って、休める、という以外にも少しずつストレスを与えて心身の機能を鍛えていく、というリハビリのような機能もありそうです。

世間的な養生

やはり積極的に休むことなんじゃないかなと思います。
現代では多くの方が精神的なストレスを感じながら、緊張や忙しさの方に傾いた生活を送っておられるように感じますので、
仕事や家事で忙しくしない日を作ること、
リラックスした時間、ゆっくりした時間を過ごすこと、
あれこれと思考しなくてよい時間を過ごすこと、これだと思います。
ですから、より積極的に休む方向が養生となるかなあと。
でもあまりに、このリラックスばかりで緊張感のない生活ばかり送っていくと、放逸になりやすい、というデメリットも生じそうです。
ですから、規則正しい生活、適度な仕事と適度な休養、が大事なんですね。
まさに健康的な生活をすることが養生と言えそうです。
当たり前のことを言ってる気もします。。

仏法的な養生

??そんな風に言うかどうかはわかりませんが、
心が身体と共にいること、
気づきのあること、
慈しみのあること、
坐禅や瞑想していること、
などと表現できそうな気がします。

よく坐禅も、ただ座る、とか、何もしないをする、とかって聞いたことがあるのですが、この何かをしないことや、起こってくることに反応しないこと、受け入れていくこと、この受け身な感じの心の態度、これがまさに養生なのではと、そんなふうに感じるのです。

心が身体と共にいてあげること

私はこれが一番養生っぽいなあと感じます。

養生することで、どんな変化があるのか

これは皆様お一人お一人が、その変化を感じていただきたいところなのですが、
私自身は、自然の元に戻ろうとするような、本来のあるがままの?うーむ🤔言葉で表現するのが難しいのですが、、

エネルギーがみなぎってくる

この身体と心にふさわしいエネルギーが満たされる。
そんな風にも感じますね。
人それぞれの感じ方でしょう、とも思います。
例えば、井戸に水が溜まってくる感じです。水を使いすぎたら、また水がたまるまで待つ感じです。

なぜエネルギーが満たされるのかといえば、エネルギーを消費しないから、というのが理由の一つだとは思います。
基本的に六根(眼耳鼻舌身意)を使うことはエネルギーを消費しますね。そう感じます。
だから普通に生活してると疲れるんです。

養生しつつ生活すると、疲れが溜まりにくいですね。
でも養生もほどほどがいいと思うんですよ。ある程度は消費していかないと循環しないですし、エネルギー使わないのはもったいないです。そのちょうどいい消費の仕方って人それぞれなんですね。同じじゃない。
ここは人それぞれです。
今は私も含め、多くの方々が消費に傾いているように思いますね。

定期的に養生してみる

なかなかできないんですけど、定期的に養生してみるといいんだと思います。
心と身体の休養を取るんです。静かな時間、リラックスした時間を時々取るんです。
年に一回は少し長い休暇を頂く。
月に一度は数日ゆっくりした日を過ごす。
週に一日は仕事も家事もしない自由で快適な時間を過ごす。
1日に一回は数十分ゆっくりリラックスする時間を作る。
1時間に一回は数分深呼吸と共に自分と過ごす時間を作る。
例えばですけど私だとこんな風に。
できるだけやってみようかなあと思います。
養生のスケジューリングです。
養生っていうか、瞑想?
瞑想という言葉は、私にはしっくりこないんです。
仏教の瞑想は、今はマインドフルネスと言われたり、日本だと坐禅と言ったりもすると思いますが、私にはどちらもしっくりこず。
実はお釈迦様も瞑想という言葉は使われていなくて、パーリ語でも現在の瞑想にあたる言葉はない(?)ようです。
近いのはsati、appamāda、satipatthānaとかVipassanāかな。
私としては観察すること。

私もこんな風には今はできてないんです。子育てってね、子どものペース、家族がいたら家族のペースですしね。
仕事も忙しい時は特にそんな風にはいかないものなので、、
私が今やっている実践は、日常生活でその都度その都度、satiを思い出すこと。
身体が動く時は心が身体と共にいるようにしてみること。
そして思考に気をつけること。
思考をすぐ信じないこと。
思考を私だと思わないこと。
日常生活が忙しいと、思考が生じること生じること。次々と生じますから、心ってひとときも休まってないと感じます。
それに全く気づかずに今まで生きてきた時間が長く、思考を信じて思考が私だと勘違いして苦しみながら生きてきたんだとわかった今でも、その思考ぐせがなかなか抜けないんですね。
それも受け入れつつ、ただ養生に勤しむがよしです🙏😊
勤しむんかい🫢

とりあえず今日1日、養生してみようと思います。
最近はまってるフレーズです。とりあえず今日一日。


生きとし生けるものが幸せでありますように

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