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怒らないことに挑戦してみる

すーぐ怒っちゃうんですよ。私🥹
で、怒らないでみることに度々挑戦するんです。
怒らない、というよりは、怒りが生じた時にすぐに気づくようにしてみる、怒りそのものになってしまわないように気をつけてみる、が正しいかもしれません。

これを始めたのは、仏教を学び始めてから、ですが、最近では毎日のように挑戦しているんです。でもたいてい負けこしです。で結局そのことを忘れて生活してるんです。でもまた思い出して何度もめげずに挑戦するんです。
そして今も挑戦中で、これは主には子どもに対して、時々夫に対して、実践してるんです。お姑さんに対して、ここは本当に乗り越えちゃったなあと自負してます。
1番乗り越えたな、と思えるポイントは、お姑さんに期待しなくなった、ことです。
これは、結果、心がそうなった、ということなので、期待しないでいようとして期待しないでいる、ということはできないんです。

私たちって、無自覚にいつも人や社会などに、期待しています。無自覚です。ですから、じぶんが期待しているということにまず気づいていないんですね。
夫や子どもですと、わりと自分でもどんな期待があるかって、はっきりとしてるのですが、他人や社会になると、無自覚に期待していることに気づかないでいることが多い気がします。

で、実践していてどうか?

怒りが生じることはもちろんあります。
もうこれは小さな小さな怒り(違和感ぐらいのもの)を入れればキリがないくらい毎日毎時間のように生じてはいるのです。ほぼいつも一緒にいる家族に対するものです。家族以外の人に大きな怒りが生じることって本当に稀です。

ムッとしたりイラッとしたりすることはしょっちゅう。でしたね。今はわりと落ち着いてる気もします。今はです😂
それを発見すると、「私」「この私」がいたりしますね。

相手に対して希望、期待があるんです。
家族に対する期待って他人に対する期待より多いんですよね。

そのようにしないでほしい。
そうなってほしくない。

こうしてほしい。
こうなってほしい。

これって何なのかと見てみると、「思い通りにしたい」と、いうことです。

私、とは、自己中心的な考え方、と言い表せると思います。これが煩悩、ということだと思います。

そしてそれが生じた時に、気づきを合わせると、それが「私」だと掴んでいた手が離される、そんな感覚があったりします。

私達はいつでも自分の思い通りにしたいと生きているんだと気づかされるんです。
思い通りにならない、というのも観察していると気づかされます。

怒らないでいよう、怒りを表出する前に気づこうとしているだけなのに、それは仏道修行そのものだとも気づかされます。

気づき、sati

がなければできないんです。

忍耐堪忍

がなければできないんです。

慈しみ

がなければできないんです。

これができてもできなくても、成功しても失敗しても、つまり怒らなかったとしても、怒ったとしても、とても面白いんです🥹😂

怒る、怒りというメカニズムが発見できるし、怒らないでいることができる条件がだんだんわかってくる。反対に怒らざるを得ない条件もわかってくる。

たぶんそれが面白いんだと思います。

いつも家族は修行対象で、実験台です。
いつもごめんね、ありがとう!

怒りが生じにくい時の条件
心身の状態が良い時、心に余裕のある時、忙しくしてない時。
これはほぼこれですよって言っていいくらいこれです。
だから自分のメンテナンスが1番大事なんです。だから自分の修行が1番必要なんだなと改めて思います。

そして欲にかまけていたり、ボーっと放逸に生きていると、、ばっと怒りが出ちゃいますね。
お姑さんに対する怒りの攻略時は、怒りが出るのがもう毎日毎回でしたので、ルーチンができてました。

その都度その怒りに気づきます(忍耐)
お姑さんに怒りを見せないようにします(女優)
その怒りがおさまらない時は、紙に思いっきり書いたりして、よくそれを観ます(観察)
お姑さんに対しては怒りがかなり強かったので、けっこう大変ではありました。

それを忍耐強くやっていくと、理解されてくることがあるんですね。

相手に期待していることが見えてきたり。
相手から認められたい
相手にこうなって欲しい
すると相手が変わらないことも見えてきて、期待することが少なくなっていく。
相手はこういう人なんだなと理解されてくるんです。

今、子どもに対して難しいと感じるところは、子どもにはある程度教育的に関わる必要があると思っているからかもしれません。
夫に対して難しいのは、立場が横だから自分と同じようにやってほしいと期待が大きくなるのかなあ、とも思います。
そして何より自分と同じ人間として自分に対して厳しいと家族にも厳しくなりがちなんだなと思いました。
自分に優しくする、これは甘やかすのではなく、自分自身を認めてあげたり励ましたり応援したりするということです。

心に固く決める

あとはこれです。
できない時はできません。そういう時は無理しません。自分を責めません。と、そう決めます。ここでもやはりそう決めるんですね。
私達は出家の僧侶ではないのですから。
ですが、
できる時はわかります。できそうな時はあるんです。そういう時は決して怒りません。と、そう決めるんです。
怒らない、ということをできる時にやってみるんです。
いつもは怒っちゃう時に、怒らないでいてみる。そしてそれを観察するんです。

法友さんから聞いたアチャンチャーの言葉

体を曲げることができないのに、どうして心を曲げることができるだろうか

この言葉は、確か西洋の方がなぜ仏様やお坊様に向かって礼(このことを体を曲げると表現しています)をするのか、というような質問に応えられた言葉です。(正確な言葉ではないかも知れません)
私たちは心を訓練しているのですが、身体も使って訓練していくんですね。そして、とにかく素直にやってみる。これができるかどうかで随分と結果が違う気がしてます。

期待に気をつけること
慈しみを心がけること

(慈しみは怒りと反対の心)
怒りが生じる因をなるべく少なくしていくことが怒りを生じさせないコツですね!
どんなことがあっても怒らないでいるゲームです。
めっちゃ面白いですよ!すぐに負けるんで🥹😂
少しずつ勝つ方法を学んでいくんですね。だから心を忙しくすることも少なくしようと思います。思うんですけど、世間にいたらある程度は仕方ないんですけどね。。

でもやっぱり、怒りを生じさせないぞ、と思い通りにはできません😂
縁起の法則に従って、怒りは生じているだけなんです。

生じさせないような因を整えていきつつ、怒りが生じたらその怒りに気づくようにしてみる。
これが私のできること、です。
気づきが生じやすいような因も整えていくんですね。これはまさに修行そのものと思います。

そして、ばいたらようさんの今日のnote

慈しみです。
慈しみとは相手を理解すること。
これにつきますね。
今、私がほとんどお姑さんに怒りが生じなくなったのは(時々は生じますが)、母を理解できるようになったことが大きいと感じます。

生きとし生けるものが幸せでありますように

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