パーごめ180キロブルー
このあいだ「パーフェクトブルー」と「まーごめ180キロ」を続けて観る日がありました。
どちらも素晴らしい映画だったのでそれぞれについて語っても良いのですが、どちらもすでに結構語られてるので、今回は2作を観て浮かび上がったことを書きます。これは2作続けて観た自分にしかできないことなので。
「パーフェクトブルー」と「まーごめ180キロ」。全然違う映画のように見えますが、意外にも「芸能人が主役」という共通点があります。一方は女優でもう一方は芸人だけど。
そして「自分とはなにか?」についても考えさせられて、それはどちらも「自分は自分で決められない。自分は他者によって決定される」ということが浮かび上がりました。
パーフェクトブルーの主人公、霧越未麻は最初はアイドルだったのですが、事務所やテレビ局の意向で女優になり、ひいてはレイプシーンを撮られるようになり、元アイドルで未麻のマネージャーのルミは自分をアイドル時代の未麻に重ねるようになり、やがて凶行に走ります。
未麻は女優になってかつてのアイドルの自分の幻影に苛まされますが、未麻は事務所やテレビ局の意向を押し切ってアイドルに戻れたのでしょうか?
無理だと思います。なぜなら「未麻とは誰か」が決まってしまったからです。
また、ミマも自分のことをアイドルだと思い込んでいますが、他者から見ればその姿はただの一般人で、果てにはもう精神疾患者でした。
「自分の人生は自分で切り開くべきだ」なんてのは人生論のクリシェオブクリシェですが、私はたぶんそんなことない気がしてます。
もちろん、自分が誰かを思う分には自由ですが、「世界」における「自分」は「他者が映す『自分』の像の集まり」なのかなと思います。
翻ってまーごめ180キロの主人公、大鶴肥満の人生もその「他者」が非常に大きなウェイトを占めています。
まず、彼がお笑いを始めたのはmixiで知り合った子がお笑いサークルに入ったからで、粕谷明弘(本名)が大鶴肥満になったのも彼の先輩が「大鶴義丹に似てるよ!」と言ったからで、お笑いを今も続けているのは相方の檜原の「お前を王にしたいんや」という言葉に応えるため、そして学生時代にいじめてきたやつらへ復讐するためです。
そして彼の代名詞、「まーごめ」も大鶴義丹がマルシアと結婚して不倫して「まーちゃんごめんね」と発言したからです。
ここまでの大鶴肥満の人生で彼が能動的に掴んだ要素というのはほぼなく、他者の影響を強く受けていることがわかります。
「まーごめ180キロ」を観るとよくわかるのですが、大鶴肥満は想像以上に普通の人です。180キロもあるうえ芸人ですが、普通の人である我々とほとんど変わりがないのです。つまりこの作品は「普通の人のドキュメンタリー」といっても良いのです。
普通の人のドキュメンタリーを見ることで自分の人生を振り返ることができ、自分も肥満のように他人の影響を強く受ける存在だと気付かされるのです。
作品の終わりには肥満が「人間というのは鏡なんだ。お前が俺を見て蛇だと思ったら、お前が蛇なんだ」と言いますが、本当にその通りだと思います。
「自分は自分で決められない」「自分の像は他者が決めた像の集まり」という考えは、「自分の人生は自分で切り開くことができる」という世間一般の考え方とは逆で暗い考え方に見えるかもしれません。
ですがむしろそうではありません。「自分は他社からの影響が強い」と考えることで自分の人生をある程度他人のせいにすることが可能になります。
「自分の人生自分で切り開くべき」だとすべてのマイナスな境遇に置かれた責任を全部一人で背負わなきゃいけなくなる訳ですから、随分ラクになります。
それと、他者に良いように思われていれば、後から有利になるということも言えます。「世界」における「自分」の像は他者が構築する「自分」の像の集まりに過ぎないので。
全く関係のない映画から無理やり共通点を見つけ出して語る遊び、いかがでしたか?
次は「アリスとウィックのまぼろしコンセクエンス」でお会いしましょう。
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