戦国!室町時代・国巡り(18)遠江編
【0】はじめに
遠江国:石高25万5000石
榛原郡、城東郡、佐野郡、周智郡、磐田郡、山名郡、
豊田郡、長上郡、敷知郡、麁玉郡、引佐郡、浜名郡
(2)年表
1459年 中遠一揆
1494年 今川氏遠江に侵攻を開始
1501年 斯波義寛の2人の弟・寛元、義雄らが遠江に出陣
1511年 斯波義達自ら遠江に出陣
1515年 斯波義達が今川勢に大敗
1536年 花倉の乱
1537年 河東の乱(~1545年)
1560年 桶狭間の戦い
遠州錯乱
(3)守護職
1336年-1338年 - 今川範国
1339年-1343年 - 仁木義長
1346年 - 千葉貞胤
1351年 - 仁木義長
1352年 - 今川範氏
1352年-1365年 - 今川範国
1379年-1384年 - 今川範国
1384年-1388年 - 今川貞世
1388年-1399年 - 今川仲秋
1395年-1399年 - 今川貞世(共同統治)
1400年-1401年 - 今川泰範
1405年-1407年 - 斯波義重
1407年-1413年 - 今川泰範
1419年-1433年 - 斯波義淳
1433年-1436年 - 斯波義郷
1436年-1452年 - 斯波義健
1452年-1460年 - 斯波義敏
1460年-1461年 - 斯波氏
1461年-1466年 - 斯波義廉
1466年 - 斯波義敏
1466年-1470年 - 斯波義廉
1491年-1501年 - 斯波義良
1508年-1526年 - 今川氏親
1526年-1536年 - 今川氏輝
1536年-1560年 - 今川義元
1560年-1569年 - 今川氏真
【1】今川氏
今川貞世(了俊)は、宗家当主・今川国の子であり、兄・範氏とその子・氏家が亡くなった後は、宗家の家督を継ぐことを望まれたが固辞した。
貞世は九州探題という要職に就くが、失脚し遠江・駿河国の半国守護となった。しかし、甥の今川泰範に遠江・駿河守護職を奪われる。巻き返しを望む貞世は応永の乱に関与したため、その懲罰として、今川の性を称することが禁じられ、貞世の家系は「堀越」の名字を称した。貞世の孫である貞相の代で許され、今川の名字を再び称するようになった。
第5代範将は当時の遠江守護であった斯波氏と対立し、中遠一揆と呼ばれる反乱を起こしたが鎮圧され、その中で戦死した。
1475年、第6代貞延は駿河今川氏当主の今川義忠と共に挙兵し斯波氏と戦ったが、中途で戦死した。
貞延の長男・一秀は瀬名郷を与えられて瀬名姓を、次男・貞基は堀越郷に因んで堀越姓を名乗った。
(2)遠江今川氏(堀越氏)
今川貞世(了俊)(-1420?)
今川仲秋(?-?)遠江今川氏2代当主。侍所頭人、遠江・尾張守護。
今川貞臣(?-?)遠江今川氏3代当主。貞世の子。
今川貞相(?-?)遠江今川氏4代当主。貞臣の子。
今川範将(?-1464)遠江今川氏5代当主。
今川貞延(?-1474)遠江今川氏6代当主。
瀬名弌秀()
堀越貞基(-1537)貞延の子
堀越氏延(-1563)貞基の子
今川貞世(了俊)
(-1420?)
今川範国の子。法号:了俊・
正室:土岐頼雄の娘。
貞臣、名和貞継、言世、尾崎貞兼、満範、娘(吉良俊氏室)
養子に仲秋。
観応の擾乱においては、父と共に尊氏側に属する。
1355年、細川清氏と共に東寺合戦で戦う。
1370年頃に、管領の細川頼之から渋川義行の後任の九州探題に推薦され、正式に任命された。
1374年7月、水島に出兵。
1375年、水島での会戦に備えて勢力結集をはかり、九州三人衆と呼ばれる豊後の大友親世、筑前の少弐冬資、大隅の島津氏久らの来援を呼びかけた。三人衆のうち唯一九州探題と対立していた少弐冬資は着陣を拒んだが、島津氏久の仲介で来陣した。
水島の陣において了俊は宴の最中に冬資を謀殺した(水島の変)。
水島の変により氏久は離反して帰国、了俊の九州経営に抵抗するようになった。また、大友親世も探題に対して嫌疑を抱き、了俊への支援を止めてしまう。
九州の有力大名の離反によって一転して窮地に陥った了俊は、同盟関係にあった大内氏に協力を要請する。これに対して大内弘世は難色を示したが、子の義弘は了俊を支持し、九州に援軍を派遣した。また、大内氏と婚姻関係のあった大友親世も消極的ではあったが北朝方に帰順した。
1377年には菊池武朝・阿蘇惟武ら南朝勢力と肥前蜷打で激突。北朝方の大勝に終わり、南朝方の有力武将を多数討ち取った(肥前蜷打の戦い)。
1391年に八代城の名和顕興と征西大将軍・良成親王を降伏させる。
1392年の南北朝合一を機に武朝と和睦し、九州南朝勢力を帰順させて九州平定を果たした。
しかし、南北朝合一後も氏久の息子元久と対立。1394年に四男の尾崎貞兼を南九州に派遣したが、翌年に九州探題を解任されたため、島津氏討伐は失敗に終わった。後任の九州探題として渋川満頼が任命された。
後任の探題職を望んでいた大内義弘は大友氏や了俊に対して連合を持ちかけるが、了俊はこれを拒絶し、守護職として駿河の統治に専心した。
1399年、義弘が堺で挙兵し、応永の乱が勃発。
甥の泰範が、了俊が大内と通じていると義満に讒言したため、了俊と仲秋の守護職(駿河・遠江)を奪い取られた。
失意の了俊は鎌倉公方足利満兼に乱に呼応するように呼びかけたとされ、義満によって乱の関与を疑われた。
1400年には関東管領上杉憲定に対して了俊追討令が出された。しかし、了俊は憲定や泰範の嘆願や弁明、今川一族の助命嘆願の結果許され、了俊は堀越郷を喝命所として与えられ、以後「今川」の名字を名乗ることを禁じられ、「堀越」の名字を称するようになった。
1402年には上洛して赦免された。
晩年は『難太平記』の執筆など著作活動を行なった。
今川仲秋
(?-?)
今川範国の子。国泰→頼泰→仲秋。法号:仲高。
子に貞秋、氏秋、直秋、国秋。
遠江今川氏2代当主。
次兄・了俊の子・貞臣の後見役として貞臣を養育する。
1368年、了俊の後任として侍所頭人兼山城守護に就任。
1371年、九州探題に就任した兄に従い長門から九州肥前に下向。
1386年頃に帰京。
1388年、遠江守護に任命される。
1393年、尾張守護に任命される。
1395年の義満の出家にならい出家、同年に九州探題を解任された兄と遠江を半国守護として共同統治。
1400年、泰範に遠江守護の地位を奪われる。
今川貞臣(堀越貞臣)
(?-?)いまがわ さだおみ
貞世(了俊)の嫡男。幼名:孫松丸、初名:義範。官位:伊予守、左京大夫。
子に貞相、角和貞行。
遠江今川氏3代当主。
1370年、父が九州探題に任命されると貞臣も出陣。
1371年7月には田原氏能を従えて豊後高崎山城に入城、
1372年正月まで菊池武政と戦った。
1390年に肥後宇土城を攻略して宇土を掌中におさめるなど、多くの合戦で武勲を立てた。
1399年頃には、遠江へ戻る。
今川貞相
(?-?)いまがわさだすけ
貞臣の子。官位:伊予守、治部大輔。
子に範将。
遠江今川氏4代当主。
遠江今川氏は貞世の代で応永の乱の懲罰で今川姓を称することを禁じられており、堀越の名字を称していたが、貞相の代で復姓が許可されている。
曳馬城を築城。
今川範将
(?-1464)
貞相の子。官位:伊予守。後に陸奥守、治部少輔。
子に貞延、娘(足利義政側室)。
今川氏に代わって遠江守護職を得た斯波氏と対立。
1441年、甲斐氏が守護所に立て籠もるなどし、抗争に発展。
挙兵の中心であった今川貞秋は斯波持種に敗れ、駿府で自害させられた。
1459年、中遠一揆。範将は国人を糾合し、斯波氏に対して反乱を起こす。
戦況は膠着化、そのさなかの1464年に範将が没する。
所領であった遠江五郷は室町幕府に没収されて将軍家直轄領となった。
今川貞延
(?-1474)
範将の子。官位:陸奥守
子に瀬名弌秀、堀越貞基
遠江今川氏6代目当主、遠江守護。山名郡見付城主。
遠江領内での一揆の頻発、狩野氏との合戦、斯波氏との対立、京では応仁の乱が拡がるなど不安要素を抱えていた。
宗家である駿河今川氏の今川義忠と共に挙兵。遠江支配権回復を目指す。
見付端城を築城、見付を支配下に置いた。
1474年に横地・勝間田らを中心とした遠州勢の攻撃をうけ、戦死。
堀越貞基
(-1537)
貞延の子。
子に氏延、吉良氏朝(吉良頼康の養子)
豊田郡袋井城主。
1536年、「花倉の乱」では今川良真(玄広恵探)に従い、今川義元勢と戦い敗退した。1537年、見付城の戦いで天野虎景の攻撃を受け討死した。
堀越氏延
(-1563)
貞基の子。遠江見付端城主。
武田家に通じ今川氏真に討たれる。
堀越氏直
()
氏延の子。遠江見付端城主。
(2)一族
今川満範
()
今川貞秋
()
今川仲秋の子
今川氏秋
()
今川仲秋の子
今川直秋
()
今川仲秋の子
今川国秋
()
今川仲秋の子
肥前佐嘉郡を幕府より与えられ、肥前今川家(今川佐賀家)の祖となる。
(3)瀬名氏
遠江今川家である堀越氏の分流。堀越貞延の長男・一秀が瀬名郷を与えられたのに始まる。
瀬名弌秀()
瀬名氏貞(1497-1538)
瀬名氏俊(1520-)
瀬名氏明(信輝・氏詮)(1544-1572)
瀬名政勝(1566-1616)
瀬名清貞(-1674)
瀬名弌秀
()
貞延の子。通称:陸奥守。
子に氏貞、貞清、氏成。
1474年、父・貞延の死去により還俗し、家督を相続する。
1476年、駿河今川氏の今川義忠が塩買坂で討死後、家を継いだ幼少の龍王丸(氏親)の補佐役となり、駿河国瀬名村を与えられて居館を構えた。
1506年には二俣城に在城した。
瀬名氏貞
(1497-1538)
弌秀の子。通称:源五郎、陸奥守
室は堀越貞基の娘。
子に 氏俊、義広(関口親永)、氏次、女(武田左衛門尉某室)
庵原郡・瀬名城主。
花倉の乱では、承芳方(今川義元)に属した。
瀬名氏俊
(1520-)
氏貞の子。別名:貞綱、源五郎。幼名:虎王丸
母は堀越貞基の娘。
室は今川氏親の娘。
子に氏明(信輝・氏詮)、武田信友室ほか
瀬名氏明(信輝・氏詮)
(1544-1572)
氏俊の二男(長男は早世)。通称:伊予守。
母:今川氏親の娘
正室:葛山氏元の娘
子に政勝、今川貞国ほか
1568年12月に甲斐武田氏による今川領国への侵攻が行われると(駿河侵攻)、瀬名氏は朝比奈信置や葛山氏元らとともに武田方に内応した。
その功績により、武田信玄(晴信)から「信」の1字を賜り、名を氏詮から信輝と改名している。
瀬名政勝
(1566-1616)
氏明の子
母は葛山氏元の娘。
子に 清貞、吉久。
1581年、16歳で徳川家康に初謁。1584年2月より家康に仕える。
この年の小牧の戦いにも従軍した。その後、大和国に知行300石を得た。
1590年3月11日、知行地のうち190石が旧知の駿河国庵原郡瀬名村に移され、家康が関東に移されると武蔵国入間郡に知行地が転じた。
1600年、関ヶ原の戦いに従軍。のちに大番に列した。
1616年4月14日没。享年51。
瀬名清貞
(-1674)
政勝の子。
子に貞正、氏貞、氏国、弌明、加藤祐就、貞長
(4)新野氏
新野氏は今川氏の庶流であり、国氏の三男・俊氏の子・俊国の家系
新野親種()
新野親矩(-1564)
新野親種
()にいのちかたね
城東郡新野城主。通称:左京之介。
新野親矩
(-1564)
上田晴昌の二男、新野親種の養子。
新野氏は今川氏の庶流。
遠江国新野新城(舟ケ谷城)主
井伊氏の当主・直親は、小野道好の讒言により謀叛の嫌疑を掛けられ、掛川にて殺害された。氏真は直親の嫡子・虎松(のちの井伊直政)の殺害も命令したが、親矩は氏真に命乞いをして、直親の未亡人・おひよと虎松を屋敷に保護した。
1564年、引馬城攻撃に際し、討ち死。
(5)尾崎氏
尾崎貞兼
()
今川了俊の四男。
【2】斯波氏
(1)甲斐敏光
(2)大谷氏
(3)狩野氏
狩野加賀守
狩野宮内少輔
狩野宮内少輔
「中遠一揆」を起こした今川範将の死後、伊豆狩野の一族を名乗る狩野宮内少輔が反今川派の援助を受け、その遺領(堀越など)の代官職を得た。
宮内少輔は、斯波氏の家臣で郡代である狩野加賀守が死去すると、その子・次郎を殺害、家督を奪う。そして、甲斐氏に代わって遠江の守護代となった。
1465年、今川義忠に討たれる
【3】井伊氏
藤原北家の後裔(系譜上では藤原良門の息子である藤原利世の子孫とされる)を自称するが、定かではない。中世約500年間にわたり、遠江国井伊谷 の庄を本貫として治めた。
南北朝時代、井伊行直は遠江介に任ぜられ井伊介〈いいのすけ〉と称した。行直は後醍醐天皇の皇子・宗良親王の元に参じて南朝方として挙兵、井伊谷城(井伊城)に招いて保護した。しかし、北朝方の高師泰・仁木義長らに攻められて落城した。
1337年7月には、北朝方の駿河守護今川氏に三方原での戦いに敗れた。
1338年には、宗良親王が三岳城に入った。
1339年7・8月の戦いでは、高師泰・泰兼の攻撃を受け、支城の鴨江城が落とされた。同年10月には三岳城の西方を守る千頭ヶ峯城、さらに井伊氏の庶流である上野直助の居城、上野砦も落城した。
1340年1月には、本城の三岳城が落城した。
1371年に今川了俊が懐良親王討伐のために九州へ下向した際には、井伊氏も従軍しており、今川氏の軍門に降ったと考えられる。
◇
5代井伊盛直の代に井伊谷井伊氏・赤左井伊氏・貫名井伊氏(袋井市)の3家に分かれた。
井伊谷7代井伊弥直の子から田中氏・伊平氏・ 谷津氏・石岡氏に分かれた。
田中氏からは田沢氏・松田氏が分かれた。
赤佐井伊氏から奥山氏が分かれた。
11代井伊忠直から中野氏が分かれた。
◇
花倉の乱や河東の乱では今川義元と対立する側に付く。
桶狭間の戦いで井伊直盛は義元に従って討ち死にしたが、養子の直親は謀反を企てたとして戦後まもなく今川氏真に討たれている。
桶狭間の戦い後、遠州錯乱の時期には、直盛の子の井伊直虎が家督を継いだが、勢力は大きく衰退する。しかし、直親の遺児の井伊直政が今川氏を滅ぼした徳川家康を頼り、多くの武功をたて後に徳川四天王の1人となる。
井伊行直(1309-1354)12代当主
井伊景直()13代当主
井伊忠直()14代当主
井伊直氏()15代当主
井伊直平(1489-1563)16代当主
井伊直宗(-1542)直平の嫡男。17代当主
井伊直満(-1545)直平の次男
井伊直義(-1545)直平の四男
井伊直元(-1546)直平の五男
井伊直盛(1526-1560)直宗の嫡男
井伊直親(1536-1563)直満の嫡男。18代当主
井伊直虎(-1582)19代当主
井伊直政()直親の嫡男。幼名:虎松。20代当主
井伊直平
(1489-1563)
直氏の子。
井伊氏16代当主。井伊谷城主。今川義元に仕える。
子に直宗、直満、直義、直元、井平直種、今川義元側室(後義元養妹)
1510年、「刑部城の戦い」で今川氏親に従い斯波義達勢と戦い戦功を挙げた。
1513年、「三岳城の戦い」で今川氏親勢の攻撃を受け降伏した。
1542年、三河国田原城攻撃の際に野伏の襲撃をうけ、直宗が死ぬ。
1545年、家老小野政直の讒言により直満と直義を今川義元に討たれる。
1560年、直宗の子・直盛が桶狭間の戦いで討ち死。
1562年、「遠州錯乱」。直満の子・直親が今川家家臣・朝比奈泰朝に襲撃され殺害された。
1563年9月、今川氏真の命により今川から離反した天野景泰・元景父子がいる八代山城(社山城)を攻めようとした矢先に死去。
井伊直宗
(-1542)
直平の嫡男。官位:宮内少輔
室は井平直郷の娘。
子に直盛。
父から家督を継ぐも、1542年、今川義元に従い三河国・田原城攻めに参加し戦死。
ただし、同年には今川氏による田原城攻めは行われておらず、疑問が存在する。1547年とする説や井伊直宗の存在自体、後世に作られたとする説もある。
井伊直満
(-1545)
直平の次男。
子に直親。
兄直宗の子・直盛に男子がいなかったため、直親を養嗣子にする約束をしたが、直親が家督相続することを嫌う家臣の反感を買った。
井伊家家老・小野政直と仲が悪く、政直が今川義元に讒言した結果、直満・直義は義元から駿府に呼び出され弁明するも、殺害された。
井伊直義
(-1545)
直平の四男。
小野政直の讒言により、兄・直満共々、今川義元に殺害された。
井伊直元
(-1546)
直平の五男。通称:刑部少輔
病没。
井伊直盛
(1526-1560)
直宗の嫡男。
桶狭間の戦いでは先陣を任される。
家臣16人とともに討死
井伊直親
(1536-1563)
直満の嫡男
正室:ひよ(奥山朝利娘)
子に 高瀬姫(川手良則室)、直政
井伊氏18代当主。
小野政直の讒言によって父・直満を今川義元に誅殺されると、家臣に連れられ、井伊谷を出奔。武田領であった信濃国伊那郡松源寺へ落ち延びた。
1555年に井伊谷への帰参。
1560年、従兄・直盛が戦死したため、家督を継ぐ。
小野政直の子・道好(政次)の讒言により、主君・今川氏真から松平元康との内通の疑いを受ける。
1563年、陳謝のために駿府へ向かう道中、掛川で今川家の重臣・朝比奈泰朝の襲撃を受けて殺害された。
井伊直虎
(-1582)
井伊直盛の娘・次郎法師。
1563年、曾祖父の井伊直平が今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めの最中に急死。
1564年には井伊氏は今川氏に従い、引間城を攻めて新野親矩や重臣の中野直由らが討死する。
そこで、井伊家の菩提寺である龍潭寺住職の南渓瑞聞により、直親の子・虎松(のちの井伊直政)は鳳来寺に移された。
1565年、直虎は井伊家の当主となった。
(2)一族
南渓瑞聞
(-1589)
井伊直宗の養子。
臨済宗龍潭寺二世住職。今川義元の葬儀を取り仕切る安骨大導師なども務めた。井伊家出身で、女性の井伊直虎を同家当主に推薦した。
龍潭寺一世住職として直平に招かれた黙宗瑞淵に弟子入りして出家し、同寺住職を継いだ。
1544年、兄弟の井伊直満・直義が今川義元の命により殺害された後、直満の子・亀之丞(後の直親)も殺すように命令があった際、直満の家老・今村正実は南渓瑞聞と相談のうえで、師匠・黙宗瑞淵ゆかりの寺であった信濃国伊那郡市田郷の松源寺に書状を送り、そこに亀之丞を匿った。
立て続けに当主を失うという家の危機に際して、南渓瑞聞は、祐椿尼(直平の嫡孫・井伊直盛の未亡人)と相談のうえ、出家していた直盛の娘の次郎法師(後の井伊直虎)を同家当主に推薦した。
武田家の侵攻により領地および城主国司の地位を失ったが、井伊家再興のために、井伊直政が徳川家康に仕えるきっかけを直虎らと共に作った。
(3)庶流・中野氏
中野直村
中野直由(-1564)
中野直之(-1605)
中野直由
(-1564)
中野直村の子。
中野氏は井伊直氏の弟・直房に始まる分流であり、直由は直房の孫にあたる。
室は奥山朝利の娘。
子に 直之。
井伊直盛の重臣。直盛は遺言として、小野道好と不仲であった養嗣子・直親の後見役として直由を指名した。
後見役として直平や直盛がかつて称した「信濃守」の名乗りを用いる事となった。
1564年、引馬城攻撃に際し、討ち死。
中野直之
(-1605)
直由の子。 通称:越後守
室:清光院(奥山朝利女)
子に三信(三孝)、松下一定(松下清景の養嗣子)、広瀬将房(広瀬景房の養嗣子)、娘(奥山朝忠室)、娘(小野源蔵室)、娘(松居清貞室)、娘(渡辺昌常室)
井伊直政、直勝に仕える
(4)庶流・奥山氏(奥山井伊家)
奥山親実()
奥山親朝()
奥山朝利(-1561)
奥山朝宗()
奥山朝忠(-1629)
奥山朝久()
奥山親朝
()
奥山朝利
(-1561)
奥山親朝の子。
奥山氏は井伊氏の分流。
子に朝宗、朝重、朝家、勘三郎、
ひよ(井伊直親室)、中野直由室、小野朝直室、西郷伊予守室、鈴木重時室、菅沼淡路守室、橋本四方助室、於徳(平田森重室)
小野道好に暗殺された。
奥山朝宗
()
朝利の長男
奥山朝重
()
朝利の次男
奥山朝家
()
朝利の三男
奥山朝忠
(-1629)
朝宗の子。
子に 朝久、朝景、朝親
奥山朝久
()
朝忠の子
奥山朝正
()
朝重の子
奥山朝長
()
朝正の子
奥山朝房
()
朝家の子
奥山朝次
()
朝房の子
(5)庶流・伊平氏
井平直成(-1572)
井平直種()
井平直成
()
井平氏は井伊氏庶流。井伊氏7代・井伊弥直のころ、四郎左衛門直時が井平氏の祖となったという。
井平城城主を務めたが、1572年、仏坂の戦いで武田の別動隊・山県昌景の軍と戦い討ち死。
井平直種
()
井伊直平の子。1573年、伊平氏を継ぐ。
(6)家臣
小野重正()
小野政直(-1554)
小野道好(-1569)
小野朝直(-1560)
小野重正
()
引佐郡小野城主。
小野政直
(-1554)
小野重正の子。
子に 道好、朝直、正賢、正親
井伊家家老。
今川義元へ井伊直満・直義兄弟が謀反を計画していると讒言した。
小野道好(政次)
(-1569)
政直の嫡男。
1554年、父が病死するとその家督を継承する。
1560年、奥山朝利を暗殺した。
1568年、今川軍に従い井伊谷を掌握、徳川方と戦うも敗北する。
小野朝直
(-1560)
政直の次男。
桶狭間の戦いで井伊直盛らとともに討死した
今村正実
(-1582)
井伊直満の家老。勝間田姓から今村姓に変える。
南渓瑞聞と話し合って直親を信濃国松源寺へ逃させた。
この寺に10年間留まって直親を扶育した
【4】飯尾氏
遠江飯尾氏は渡来人・三善氏の後裔で室町幕府の奉行衆の家柄とされる。
飯尾氏は元々室町幕府奉行衆の家系で、戦国時代初期に駿河国守護の今川氏の招きによって遠江へ赴き、幕府御一家吉良氏領浜松荘の奉行を務め、16世紀に今川氏が遠江を制圧した後も引き続き浜松荘を支配して引間城に居城した。
飯尾長連(-1476)
飯尾賢連(?-?)長連の長男。曳馬城主
飯尾為清()長連の二男。
飯尾乗連(-1560)賢連の子。曳馬城主
飯尾連龍(-1566)乗連の子。曳馬城主
飯尾長連
(-1476)
子に賢連、為清。
塩貝坂の戦いで討ち死。
飯尾賢連
()
長連の長男。通称:善左衛門、善四郎
子に乗連。
1476年、今川義忠の遠江侵攻に呼応した長連が戦死すると家督を継ぐが、吉良氏は浜松荘の代官に賢連ではなく反今川派の大河内貞綱を任じてしまう。その後、今川氏親の支持を受けた賢連と斯波義達の支持を受けた貞綱が浜松荘とその拠点である曳馬城を巡って争い、1501年に賢連が浜松荘の代官に任じられている。
飯尾為清
()
長連の二男。通称:善六郎。
飯尾乗連
(-1560)
賢連の子。通称は善四郎、豊前守。
子に連龍、松井宗親室。
遠江国曳馬城主。
今川義元に仕え、永正年間に今川氏の支城曳馬城を築城し、城主となり同地に1万石を与えられた。
飯尾連龍
(-1566)いのおつらたつ
乗連の子。
遠江敷知郡曳馬城主。
1563年、今川氏から離反した。
今川氏真の家臣三浦正俊、新野親矩、中野直由を討ち取る。
1565年12月、連龍は今川氏真の命を受けた姉婿松井氏の誘いによって駿府に出仕したが、自邸を今川勢に攻め立てられて誅殺された。
(2)江馬氏
江馬時成()
江馬一成(-1568)時成の子
江馬泰顕(-1568)時成の従弟。
江馬時成
(-1568)
子に一成。
遠江曳馬城主飯尾氏に仕えた。
1566年、連龍が駿府で今川氏に誘殺されてしまう。
連龍の遺命により、時成は従弟の江馬泰顕と共に徳川氏への恭順を貫く。1566年には嫡子一成を人質に提出し、曳馬の本領1220貫文を安堵された。
1568年、今川軍が再び曳馬城を攻撃するが、徳川氏から本多信俊・渡辺守綱・中根利重ら援軍を得て抗戦の構えを取る。
同年、泰顕は新藤周防守と共謀して徳川軍に抗おうとするが時成はこれに反対し、家康を曳馬城に入城させようとした。そこで、泰顕は時成を殺害する。
しかし、泰顕もまた小野田彦右衛門によって殺害された。
彦右衛門は城を出て徳川軍中に駆け込み、事の次第を家康に告げた。家督は徳川氏の人質となっていた一成が継承した。
【5】天野氏
遠江天野氏は遠江国山香荘の国人領主であり、戦国期には犬居谷一帯を領域支配していた。
天野遠景の子・政景は1221年が承久の乱で活躍し、遠江国山香荘などの所領を得た。そして、政景の曾孫となる天野経顕が遠州山香庄に入って遠江守護今川氏に属した。
足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、経顕は尊氏に従う。
経顕の嫡孫景隆(経政の子)が磐田郡の秋葉山に城を構えて南朝の宗良親王を守った。しかし経政景隆は翻身して北朝方となり、その孫となる景政が遠江国犬居の地頭となり、犬居城を築いて居城とし、のちにつながる犬居天野氏の祖となる。
犬居天野氏の本宗は今川氏に属して北朝に味方するが、分家・久頭郷城主天野氏は南朝に属した。秋葉城主の景顕は北朝方今川範国に属するが、その子遠幹(民部少輔)と孫の遠貞はともに南朝方になった。
犬居天野氏は総領家であり、安芸守家と呼ばれる。
秋葉城主景顕の曾孫景貞の系統は、宮内右衛門尉と呼ばれ、領内支配や惣領権を巡り系統と対立、戦国期には今川と関係が深い宮内右衛門尉系統が台頭した。
宗家(安芸守家)
天野景泰(?-?)犬居城主
天野元景(?-?)
宮内右衛門尉家
天野景貞()
天野与四郎()
天野虎景()与四郎の叔父。天野景貞の子
天野藤秀(犬房丸)()虎景の子
天野景康()藤秀の子
天野景泰
(?-?)
子に元景。
犬居城主
天野氏は今川氏輝の代に今川氏から離反したが、1536年、花倉の乱において、宮内右衛門尉家・与四郎が今川義元側で参陣したことで、惣領職を安堵された。
景泰は、その後は今川氏の合戦に参陣して今川氏との関係を強化して、与四郎の家中統制に反抗した。
1547年9月、惣領であった虎景の死去により宮内右衛門尉家に有力な人物がいなくなると、景泰が天野氏惣領となった。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後も引き続き今川氏に属していたが、宮内右衛門尉家・藤秀と領内支配を巡り訴訟問題となり、1562年2月には藤秀有利の沙汰が今川氏真より下された。
これに反発した景泰は翌年12月に今川氏から離反するが、かねてより対立していた領内の被官の助力を得られず、藤秀によって討伐された。
天野元景
(?-?)
景泰の子。通称:七郎右衛門。
1563年に父・景泰は今川氏から離反するが、天野藤秀らによって討伐された。これにより天野氏の惣領家督は藤秀となり、元景は景泰と共に没落した。
天野与四郎
()
天野虎景
()
景貞の子。通称:小四郎
子に藤秀。
1543年以降に与四郎が死亡したため、虎景が天野氏惣領となった。
1545年の第二次河東一乱では駿河狐橋合戦に参陣。
1547年から1549年の間に死亡。
天野藤秀(犬房丸)
()
虎景の子。幼名:犬房丸。通称:小四郎、宮内右衛門尉。別名:景貫
子に 景康。
父・虎景は1547年7月までに死去し、宮内右衛門尉家に有力な人物がなかったことから、天野氏惣領職は安芸守家の天野景泰に奪われる。
しかし、1563年12月に今川氏から離反した天野景泰らを討伐し、今川氏より天野氏の惣領職を安堵された。
1568年12月より甲斐武田氏と徳川氏による今川領国への同時侵攻が開始される。藤秀は今川方として奥山定友・知久兄弟と共に犬居城に籠城する一方で、翌年3月より徳川方の調略を受けて従属し、徳川家康の遠江国侵攻に協力した。その一方で前年12月に下伊那から北遠に侵入した武田方の秋山虎繁を案内し、武田方としても活動していた形跡がある。
1572年10月に武田信玄による徳川領国への大規模侵攻が行われる(西上作戦)と、藤秀は武田氏に従属し嫡男・小四郎景康を甲府に人質として差し出した。その後は武田氏傘下の先方衆として徳川軍と戦い、1574年4月に犬居谷を徳川家康に攻められたが悪天候なども影響し良く防いだ。その後、退却する家康の軍勢を奇襲し総崩れにさせた。
1575年6月の長篠の戦いの際、犬居谷の守備を命じられ領国に残留した。
戦後、徳川軍の反攻に対し、朝比奈泰方と共に光明城を守備していたが7月上旬までに攻略され、犬居谷の樽山城・勝坂城も攻略されたことから犬居谷の大半が徳川方に制圧された。
1582年に武田氏が滅亡すると武蔵八王子城主・北条氏照を頼り、以後その配下となった。翌年、1583年3月には下野国小山城の在番を命じられ、嫡男・景康が対佐竹氏との戦いなどで活躍した。
天野景康
(-1596)
藤秀の子
父・藤秀は今川氏→徳川氏と仕えるが、1572年10月に武田信玄による西上作戦が開始されると武田氏に降伏し、嫡男である景康を人質として差し出した。
1575年6月の長篠の戦いでは最前線で活躍した。
1582年3月に武田氏が滅亡すると父と共に武蔵八王子城主・北条氏照を頼り、以後その配下となった。主に父と共に下野小山城に在番し、1584年4月に小山城での佐竹氏との合戦で戦功を挙げ、北条氏直より感状を賜った。
【6】松井氏
源為義の子・松井冠者維義の後裔、松井兵庫頭宗次は足利尊氏に属し葉梨郷地頭となり、池田郷を与えられ、子の助宗は南北朝内乱期に今川範国の指揮に従って各地を転戦し香貫郷などを与えられ遠江に定着するようになった。
松井宗能(山城守)()
松井貞宗(兵庫介)(-1563頃?)
松井信薫(-1528)二俣城主。
松井宗信(1515-1560)二俣城主。
松井宗親()信薫の子
松井宗恒()宗信の子
◇一族
松井宗保(惣左衛門尉)
松井宗直
松井宗能
()
子に貞宗
今川氏親に仕える。平川郷堤城主
松井貞宗
(-1563頃?)
宗能の子。通称は八郎、山城守、兵庫助。
子に信薫、宗信。
1528年3月、父・宗能から家督を譲り受け、平川郷堤城主となる。
1559年2月、子の宗信に家督を譲る。
1563年10月に今川氏真より遠州堀越郷内に隠居料としての知行替地を判物にて受けた。
松井信薫
(-1528)まついのぶしげ
貞宗の長男。通称:左衛門尉
子に宗親
今川氏の譜代家臣。遠州二俣城主。
1528年、病死した
松井宗信
(1515-1560)
貞宗の次男。通称:五郎八郎、左衛門佐
子に宗恒
今川氏の家臣。遠江二俣城主。
1529年、兄・信薫から家督および二俣城主を継いだ。
桶狭間の戦いで討死。
松井宗親
()
信薫の子
松井宗恒
(?-?)
宗信の子。 通称:八郎
1560年5月、桶狭間の戦いにて今川義元と共に父・宗信も戦死。今川氏真より父の遺領相続と松井衆の寄子の承継を認められる。
後に武田方に投じ1572年には、武田氏より2千貫文の知行を宛われた。
松井宗保
()
松井氏の一族。通称:惣左衛門。
松井宗直
(1538-1616)
宗保の子。通称:主計・與兵衛。
子に忠行、宗次、宗利。
今川義元・氏真に仕え、今川氏没落の後には徳川家康に召し出された。
1585年に真田氏の信濃上田城攻めに諸将とともに参陣、閏8月丸子河原の戦いに戦功を得た。
1600年の関ヶ原の戦い、慶長・元和の大坂の陣にも参陣。上野国緑野郡に650石の采地を賜った。
【7】久能氏
久能氏は工藤清仲の子・久能宗仲が遠江国久野(久能)に住したことに始まる
久能清憲(-1476)
◇
久能宗隆()遠江久野城主。
久能忠宗()遠江久野城主。
久能元宗(-1560) 忠宗の子。遠江久野城主。
久能宗経(-1560)忠宗の子。
久能宗能(1527-1609)忠宗の子。 遠江久野城主。
久能宗益(淡路守)()忠宗の子。
久能宗朝(1554-1597) 宗能の子
久能宗成(1582-1625)宗朝の子
久能宗晴()宗成の子
◇
久能宗憲 (佐渡守)()
久能宗政(弾正忠)()
久能清憲
(-1476)
今川義忠に従い、塩貝坂で討死
久能宗隆
()
今川氏親に仕える。
明応年間に久野城を築城。
家老・三好為連とともに遠江守護・斯波義達と抗争。
久野忠宗
()
宗隆の子
子に元宗、元経、宗能
久能氏当主。
久能元宗
(-1560)
忠宗の子。別名:宗忠
遠江久野城主。桶狭間の戦いで討死。
久能元経
(-1560)
忠宗の子。
桶狭間の戦いで討死。
久能宗能
(1527-1609) くの むねよし
忠宗の子。宗能→宗安。別名:三郎左衛門。
子に千菊、宗朝、千松、五左衛門、椎名佐次右衛門妻。
遠江久野城主。
兄・元宗の養子となる。
1560年、桶狭間の戦いにおいて元宗が戦死したため家督を継ぐ。
1568年、徳川家康に久野城を攻められた際、高力清長の説得によって降伏した。しかし叔父の久野宗益は今川氏真に誘われて家康を謀ろうと目論むが宗能はこれを拒絶したため合戦となり、家康の救援によって宗能は勝利を収めた。
武田信玄の西上作戦でも久野城を包囲されるが、城を堅守した。
その後も高天神城攻めなどで功績を挙げる。
1590年、家康が関東に移封されると下総佐倉に13,000石を与えられるが、間もなく嫡子の宗朝に家督を譲った
1596年、宗朝が私闘の末に自害すると久野家は改易処分となり、宗能は家康より1,000石を与えられた。
1603年、旧功により旧領である遠江久野に8,500石を与えられ、再び久野城主に返り咲いた。
1609年10月8日に死去、享年83。家督は孫の宗成(宗朝の子)が継承したが、後に紀州藩の御附家老になる。
久野宗朝
(1554-1597)
宗能の子。別名:宗秀。官位:民部少輔。
子に宗邦、宗成、宗次、極之助
1582年、徳川家康の伊賀越えに随行。
1597年1月、徳川秀忠に供して京に滞在していた際、私怨により三宅正次を殺害して自刃し、改易処分となった
久野宗成
(1582-1625)
宗朝の子。通称:金五郎。
子に宗晴。
紀州藩田丸城代家老久野家初代当主。
父・宗朝が改易されたため、本多忠勝に養われる。
久野家は祖父の久野宗能が再勤することになる。
1609年、祖父宗能が死去したため家督を相続し、遠江久野城主となる。
1619年、頼宣が紀州に転封となると、1万石を与えられ、熊野地域の押えとして田丸城代となる。
久野宗晴
(1609-1649)
宗成の子
子に宗俊。
【8】遠江朝比奈氏(備中守家)
堤中納言兼輔の子孫・堤公国の子・五郎国俊が、駿河国志太郡朝比奈郷を本貫とし、朝比奈氏を興したとされる。彼の弟の公俊は岡部氏の祖になっている。
戦国期に今川氏親の命で遠江に移った遠江朝比奈氏(備中守家)と駿河朝比奈氏(丹波守家)の2家に分かれた。
朝比奈泰熙(?-1511)遠江掛川城主。吉俊の子
朝比奈泰以(?-1518)吉俊の子
朝比奈氏泰()吉俊の子
朝比奈時茂(泰茂)()吉俊の子
朝比奈泰能(1497-1557) 遠江掛川城主。泰熙の子。
朝比奈俊永()泰熙の子。→駿河朝比奈氏
朝比奈知明()泰熙の子。
◇泰能の系統(備中守家)
朝比奈泰朝(1538-) 遠江掛川城主。泰能の子。
朝比奈泰基()泰朝の子。
朝比奈泰倫()
朝比奈泰規()
◇知明の系統
朝比奈泰知()知明の子
朝比奈元知()知明の子
朝比奈泰冬()泰知の長男。
朝比奈泰雄()泰知の二男。
朝比奈泰勝(1547-1633)泰知の三男。
朝比奈泰成()泰勝の長男。
朝比奈泰吉()泰勝の二男。
朝比奈泰重()泰勝の三男。
◇時茂の系統(下野守家)
朝比奈親孝()時茂の長男。
朝比奈泰長(氏泰)(-1562)遠江宇津山城主。時茂の二男。
朝比奈元智()時茂の三男。
朝比奈泰充(-1563)泰長の子
朝比奈真次()泰長の子
朝比奈真重()真次の子
朝比奈真直()真重の子
朝比奈真定()真重の子
朝比奈泰熙
(?-1511)あさひなやすひろ
吉俊の長男。通称:丹波守
子に泰能
遠江国佐野郡・掛川城主。
文明年間(1469年 - 86年)に今川義忠の命を受け、遠江佐野郡に掛川城を築城した。
朝比奈泰以
(-1518)あさひなやすもち
吉俊の二男。伊勢盛時とともに今川氏親の後見役を務めた。
1517年、「 曳馬城の戦い」で今川氏親に従い斯波義達、井伊直平、大河内貞綱と戦い戦功を挙げた。
朝比奈氏泰
()
吉俊の子。
(2)備中守家
朝比奈泰能
(1497-1557)
泰煕の子。通称:備中守、弥次郎。
正室:中御門宣秀の娘
子に泰朝。
遠江掛川城主。氏親、氏輝、義元の今川氏3代に渡って仕えた宿老。
1512年、父の死去により家督を継ぐが、若年のため叔父・朝比奈泰以の後見を受ける。
1518年6月、寿桂尼の兄・中御門宣秀の娘を娶ることで主君・今川氏の姻戚となった。
1526年に制定された「今川仮名目録」には、三浦氏満と並ぶ重臣として記される。
1548年の小豆坂の戦いでは、総大将の太原雪斎を補佐する副将として出陣した。
1557年8月30日病死。
朝比奈泰朝
(1538?-)あさひな やすとも
泰能の子。通称:備中守。
遠江掛川城主。
1560年、今川義元の尾張国侵攻の際、井伊直盛と共に織田氏の鷲津砦を攻略。窮地にあった大高城を救ったが、義元が桶狭間の戦いで討死したため、やむなく放棄し撤退した。
1562年3月には、小野道好の讒言により謀反の疑いのかかった井伊直親を氏真の命により殺害。
1568年12月、甲斐の武田信玄が同盟を破棄して駿河国に侵攻。それによって氏真が駿河を追われると、泰朝は氏真を掛川城に迎えて保護した。
今川氏重臣の大半が氏真を見限って武田氏や徳川氏に寝返える中、泰朝は最後まで忠義を尽くした。
1569年、開城後は伊豆へ退去する氏真に同行。
その後、氏真は家康を頼って浜松城に移るが、泰朝はこれには従わなかった。
朝比奈泰基
()
泰朝の子。
朝比奈泰倫
朝比奈泰規
()。
(3)
朝比奈知明
()
泰熙の子。
朝比奈泰知
()知明の子
朝比奈元知
()知明の子
朝比奈泰冬
()泰知の長男。
朝比奈泰雄
()泰知の二男。
朝比奈泰勝
(1547-1633)
泰知の三男。
長篠の戦いで、武田軍の重臣・内藤昌豊を討ち取る功績。
小牧・長久手の戦い、小田原攻めに参陣。
1602年、近江国内で1千石を賜る。
1603年、徳川頼宣に付けられ水戸へ移る。常陸国茨城郡内で2,000石を賜る。
大坂の陣に従軍する。
1619年、頼宣の紀伊移封に従い家老となった。
1633年9月13日死亡。
朝比奈泰成
()泰勝の長男。
朝比奈泰吉
()泰勝の二男。
朝比奈泰重
()泰勝の三男。
(4)下野守家
朝比奈時茂(泰茂)
()
吉俊の子。下野守。
浜名郡宇津山城主。
朝比奈親孝
()
時茂の長男。通称:十郎左衛門。
朝比奈泰長(氏泰)
(-1562)
時茂の二男。通称:紀伊守
遠江宇津山城主。
1561年、松平元康が今川氏から独立すると東三河の国人領主を蜂起させる。泰長は出陣し、三河八名郡の国人西郷氏の五本松城を急襲し、城主・西郷正勝及び救援に戻った嫡子で月ヶ谷城主の元正を討ち取る。
翌1562年2月、正勝の次男・清員率いる徳川軍と豊川沿岸の八名郡勝山で戦ったが敗れ、死亡(勝山の戦い)。
朝比奈元智
()
時茂の三男。通称:肥後守
1547年、戸田康光を討伐するため、三河渥美郡の田原城を攻め落とすと、元智は田原城代に任じられた。
1560年、桶狭間の戦いにも参陣
朝比奈泰充
(-1563)あさひなやすみつ
泰長の子。通称:紀伊守、孫太郎。1562年、父の朝比奈氏泰が病没したため、朝比奈家の家督を相続したが、弟・真次に謀殺された。
朝比奈真次
(-1567)あさひなまさつぐ
泰長の子。通称:紀伊守、孫六郎。
室は本多忠俊の娘。
1567年、宇津山城の戦いで小原鎮実の攻撃を受け討死した。
朝比奈真重
()
真次の子
朝比奈真直
()
真重の子
朝比奈真定
()
真重の子
【9】高天神小笠原氏
高天神小笠原氏は、信濃守護小笠原氏の一族である。
信州深志城主・小笠原修理大夫貞朝の長子であった長高は、父貞朝が異腹の弟にあたる長棟を寵愛したことから、父子の間に不和が生じ、長高は深志を立ち退いて尾張国に出奔した。
長高は、織田氏を頼ったが、受け入れられなかった。しかし、尾張領内に居住することは許されて、知多の名和に居を構えた。
父貞朝の死去を聞いて、家督を襲わんと、家来を引き連れて深志に帰ったが、既に弟の長棟は城を固めていて、家督相続の件は叶わなかった。
三河国の幡豆の領主吉良氏を頼って、三河国へ入って、吉良氏に属した。その後、駿河守護である今川氏を頼って、結局、長高は今川氏に仕えることになり、馬伏塚城を預けられた。
小笠原長高(1488-1544)馬伏塚城主。高天神小笠原氏の祖
小笠原春義(春茂)(-1572)
小笠原宗長()長高の子
吉良氏朝()長高の子
小笠原朝宗()長高の子
小笠原朝定()長高の子
◇氏興の系統
小笠原氏興(1529-1629)高天神小笠原家の当主。春義の長男。
小笠原信興(氏助)()氏興の子。
◇清広の系統
小笠原清広(1541-1631)春義の三男。
小笠原義時(-1617)清広の子。
小笠原良忠()義時の子。
◇義頼の系統(惣領家)
小笠原義頼(1535-1613)春義の四男。春義から惣領家を継ぐ
小笠原義信(-1630)
小笠原長高
(1488-1544)
小笠原貞朝の子。通称:彦五郎
正室は吉良義元の娘
子に春義、宗長、吉良氏朝、朝宗、朝定
父の貞朝は、先妻の武田氏との間に生まれた長男の長高を廃嫡し、後妻の海野氏との間に生まれた次男の長棟を偏愛し、後継者とした。
廃嫡された長高は尾張知多郡に出奔して、後に三河幡豆郡に移り、吉良義堯、ついで今川氏親に仕官する。
遠江国浅羽荘を領し、馬伏塚城に住する。
小笠原春義(春茂)
(-1572)
小笠原長高の子。通称:左京大夫、彦太郎
室は 今川氏親の娘(ただし創作との説も)
子に 氏興、福島綱氏(福島基綱養子)、清広、義頼
1521年、当時の高天神城主であった福島正成が今川氏親に離反した際にこれを討伐し、入れ替わりに高天神城主となる。
1536年、「花倉の乱」では今川義元に従い戦果を挙げる。
小笠原氏興
(1529-1629)
春義の子。通称:彦五郎、与八郎、美作守。別名:氏清
子に信興。
当初今川義元に仕える。
1569年、氏興は弟の清広、義頼と共に、家康に内応して主君氏真が籠城する掛川城を袋井方面から攻撃し戦功を上げた。
小笠原信興(氏助)
()
氏興の子。通称:与八郎、弾正少弼。軍記物では長忠。
父・氏興は1568年正月までに出家して馬伏塚城に隠居し、信興が家督を継承した。
今川義元とその子である今川氏真に仕えるが、今川氏が没落すると、1568年、遠江国の支配を今川氏から奪った徳川家康に属する。対武田氏の最前線を務め、1570年の越前国での金ヶ崎の戦い、近江国での姉川の戦いなどにも徳川方の一角として参加して武功を挙げた。
1574年6月、武田勝頼が大軍を率いて再び高天神城に攻めて来た(第一次高天神城の戦い)。氏助らが家康に援軍を要請したが、家康も信長も援軍を全く出さなかった。2か月ほどの籠城戦で将兵も多く戦死、城は主郭を残すのみとなったため、将兵の命と引き換えに氏助は勝頼に降伏し、城は開城となった。
氏助は勝頼から偏諱を賜り、以後「弾正少弼信興」と名乗った。駿河国庵原郡内10,000石を領した。
1582年の武田氏滅亡後の動向は不明。
小笠原清広
(1541??-1631)
春義の三男。
子に義時。
高天神小笠原家の分家。
1574年の第一次高天神城の戦いの際、高天神城への援軍要請のため浜松城主の家康の元に人質として預けられる。
小笠原義時
(-1617)
清広の子。通称:玄蕃允、法号:意正
子に良忠、清次
1574年、武田勝頼の軍勢が徳川家康方の高天神城を攻略すると、浜松城に向かい、家康に仕えることになった。
その後、大須賀康高が徳川家康により高天神城攻略の先手を命ぜられた。それに伴い、義時は、馬伏塚城に入って康高を補佐し周辺地理を案内するよう命じられた。のちに一族とともに康高を補佐し、横須賀城に移った。
小笠原義頼
(1535-1613)
初名は茂頼。通称は彦五郎、弥八郎、豊松。
子に義信。
春義から惣領家を継ぐ。
高天神城が開城し、信興が武田方の傘下となった後も、家康の傘下であり続けた。本領3000石を知行。
小笠原義信
()
義頼の子。
子に茂治、義治
【10】大沢氏
大沢氏藤原北家持明院流の一族であり、基秀が貞治年間(1362年-1368年)に遠江国敷知郡堀江に移住して堀江城を築城し、その息子の基久の代に基秀の領地だった丹波国多紀郡大沢から大沢の姓を称するようになったと伝えられる。
戦国時代には今川氏に仕えていたが、基胤の代の1569年に遠江に侵攻してきた徳川家康に降伏して服属。
大沢基房()堀江城主
大沢基相()基房の子。
大沢基胤(1526-1605)基相の子。
大沢基宿(1567-1642)基胤の子。
大沢基重
大沢基房
()
通称:左衛門佐
はじめ吉良家に仕える。堀江城主。遠江志津城主。
1504年、堀江為清とともに今川氏親に降伏。
大沢基相
()
基房の子。通称:治部少輔
大沢基胤
(1526-1605)
基相の子。通称:
はじめ今川氏に従う。
1568年、徳川家康が遠江へ侵攻すると曳馬城を攻め落とし、引き続き掛川城を攻めたてた。その際、兵力を先、基胤の属将が守る堀川城を一日で攻め落とした。井伊谷衆(近藤康用と秀用親子、鈴木重時、菅沼忠久)に命じて引き続き、基胤の堀江城を攻撃させた。しかし、基胤は抵抗を続けた。
本領安堵を約束する誓書が出ると基胤は和睦を受け入れた。
三方ヶ原の戦い直後、武田信玄が自ら堀江城を攻撃するが、大沢方の奮戦と天候の悪化により、退却した。
大沢基宿
(1567-1642)
基胤の子。通称:兵部大輔
正室:一条信龍娘
子に基重、持明院基定、基成、基近、山名豊政正室
大沢基重
(1602-1650)
基宿の子。通称:虎松
母:一条信龍娘
正室:近藤季用娘
子に基将、尚親、基哲、土方勝次室、中野弘吉室、松平乗延室
1610年、従五位下・侍従・右京亮に叙任する。同年、部屋住ながら、2代将軍・徳川秀忠に召し出されて、「近侍」することになる。
遠江国敷知郡内1000石を賜る。
1614年、大坂冬の陣に際し、水野忠清の部隊に所属する。
1615年、大坂夏の陣に参加し、首一級を得る戦功を挙げる。
1632年、父・基宿の隠居に伴い家督を相続する。
1640年、基宿の死去により、その遺領と合わせて2550石余を領有する。1645年6月、従四位下に昇進する。
1650年5月26日、死去。享年49。
【11】天方氏
藤原北家秀郷流首藤氏流で元々は首藤氏であったが、豊後守通秀が遠江国の天方城に住んでいたことから天方と称した。
遠江国山名郡天方を本貫とする。
天方通季(-1546)周智郡・天方城主。
天方通稙(-1560)
天方通永()通稙の子
白幡通供()通稙の子
天方通秋()通稙の子
天方通興(1518-1596)通稙の子
天方通綱(?-?)通興の子
天方通直(1559-1630)通興の娘婿で、通綱の養子
天方通季
(-1546)
周智郡・天方城主。
1494年、「第一次天方城の戦い」で今川氏親の家臣・伊勢盛時の攻撃を受け降伏した。
1501年、「第二次天方城の戦い」で斯波義寛、小笠原貞朝の攻撃を受け今川氏親のもとに落延びた。
1506年、「第三次天方城の戦い」で今川氏親の支援を受け、斯波義寛を天方城から奪取する。
天方通稙
(-1560)
1560年、桶狭間の戦いで討死した
天方通興
(1518-1596)
通稙の子。通称は四郎三郎、三河守、山城守
子に通之、通綱。青山忠成室、酒井重勝室。養子に通直
今川氏に属し、今川氏真が没落した後に石川数正に就いて徳川家康に仕えた。
天方通綱
(?-?)
通興の子。
嫡男の通之が早世したため、通綱が家督を継いだ。
切腹の命を受けた松平信康の検視役を務め、信康自刃の際には介錯を頼まれた服部正成がその任に耐えられず、通綱が代わりに介錯を行った。
通綱は信康介錯を憚って出奔し、高野山に隠棲した。その後、家康の次男の結城秀康に召し出されて仕えることになった。
天方通直
(1559-1630)
青山忠成の五男。通綱の養子。通称は主馬助。
室は堀利重の娘。
子に倶通、通次、娘(近藤用治妻)
徳川家康に仕え、1605年12月、下総国で500石を与えられる。
1608年9月に250石を加増され、1613年に実父・青山忠成が亡くなった後には遺領のうち1500石を与えられ、合計2250石を領する。
【12】浜名氏
浜名氏は、以仁王を奉じて平家追討の兵を挙げ、敗れて討死した源三位頼政の子孫といわれる。頼政は「鵺退治」は逸話で有名であり、鵺を退治した恩賞として、遠江国堀之内六ヶ村を賜った(逸話に因み「鵺代」と呼ばれた)。
頼政七代の孫・頼氏の子が鵺代二郎清政であった(のちに左近大夫を称した)。南北朝時代、西遠一帯は南朝方の三嶽城の井伊氏の勢力が強く、清政は足利尊氏に加担したことで、一時、遠江を逃れることとなった。1339年に遠江帰還、千頭峯城の攻撃に参加し、千頭峯城・三嶽城・大平城などの南朝方の諸城が落ちたことで、従来の諸領を回復するとともに、勢力を大きく拡げた。
1348年、都筑の西方、猪鼻湖岸の要害の地に佐久城を築き、鵺代より移り本拠とした。
1522年には、連歌師柴屋宗長の訪問を受け、佐久城において連歌の会を催している。
1568年、三河の徳川家康が遠江進攻、甲斐武田氏を頼って落ちのびた。
浜名(鵺代)清政()
詮政()
満政()
持政()
政義()
浜名政明()佐久城主。義尚の六角征伐に従軍
浜名正国()政明の子。今川義元に仕える。
浜名頼広()正国の子
浜名政綱()正国の子
浜名信政()頼広の子
大矢政頼()政明の次男。安芸守。
大矢政景()政明の三男。左馬允
浜名正国
()
政明の子。
今川義元に仕える。
浜名頼広
()
正国の子。
室は朝比奈泰能の娘。
大矢政頼
()
政明の次男。安芸守。
1568年、浜名頼広が武田勝頼のもとに落延びた後、佐久城を守る。
1569年、徳川家康に降伏。佐久城を明け渡す。
大矢政景
()
政明の三男。左馬允。
子に光重、重次
【13】横地氏
源義家の庶子(母親は相良氏)、横地太郎家長(家永)を初代とする。遠江国城飼郡横地を本貫とする。
鎌倉時代は御家人、室町時代は奉公衆であったが、1476年に今川義忠によって滅ぼされ離散した。横地城主。
東遠では古参の有力な武士団であり、勝間田氏、新野氏、西郷氏、石谷氏、内田氏、戸塚氏など数多くの氏族を持つ。
横地長国(1279-1332)8代当主
横地長則(1314-1361)9代当主
横地家長(1337-1409)10代当主。九州探題今川了俊に従う
横地長豊(1383-1437)11代当主。
横地長泰(1413-1439)12代当主。永享の乱 箱根水呑戦で戦死。
横地長秀(1434-1494)13代当主。足利義政に仕えたが、応仁の乱で敗北
横地秀国(1465-1476)14代当主。
横地元国(1505-1554)武田信虎を頼って甲斐国へ
◇
横地秀綱()1471年、尾張国愛知郡植田に移り、植田城を築城
横地秀国
(1465-1476)
長秀の子。
塩買坂の戦いで勝間田修理亮とともに斯波義廉に従い、今川義忠勢と戦い討死した。
横地元国
(1505-1554)
1514年、今川氏輝の攻撃を受けると、武田信虎を頼って甲斐国へ落延びた。
(2)勝間田氏
遠江国蓁原郡勝田の勝間田川流域一帯を本貫とする。
応永の乱(1399年)や永享の乱(1438年 - 1439年)では、室町幕府方の勢力として参戦。駿河国の今川義忠が遠江に進出すると、勝間田氏や横地氏は今川氏に抵抗して敗れ、滅亡した。
勝間田修理亮
勝間田播磨守
勝間田修理亮
()
1476年、今川義忠から背いて斯波義良に通じ、見付城を修復し抵抗する。
義忠に勝間田城を包囲され討死。
その帰途、義忠は残党による一揆に不意を突かれ、戦死する。
【14】大河内氏
源顕綱は、1180年の以仁王の乱で祖父頼政と父兼綱が討たれると、母と共に三河国額田郡大河内郷に落ち、大河内氏を称した。
大河内顯綱()初代当主
大河内政綱()2代当主
大河内行重()3代当主
大河内宗綱()4代当主
大河内貞綱()宗綱の子。5代当主
大河内氏綱()宗綱の三男。
大河内光将()6代当主
大河内国綱()7代当主
大河内光綱()8代当主
大河内真綱(貞綱)(-1517)9代当主
大河内信政(信綱)(-1520)10代当主。大蔵大輔、但馬守
大河内信貞(-1558)11代当主。源三郎、但馬守
大河内秀綱(1546-1618)12代当主
大河内久綱(1570-1646)13代当主
◇
巨海道綱()
大河内政綱
()
顯綱の子。
子に行重、正保、仲顯。
大河内貞綱(真綱)
(-1517)
宗綱の子。通称:備中守。別名:欠綱、真綱
弟は巨海道綱。
吉良氏の家臣。遠江引馬荘の代官。引馬城主。大河内氏9代当主。
1501年3月、斯波義寛の2人の弟・寛元、義雄らが遠江に出陣、信濃守護・小笠原貞朝と連合して今川軍に挑むが、朝比奈泰煕・伊勢宗瑞の兵に敗れる。このとき、貞綱は斯波方の堀江下野守に味方して黒山城に立て篭もるが、7月中に落城、貞綱は逃亡し引馬嶽荘代官職は親今川の飯尾賢連が引き継いだ。
1511年10月、斯波義達は自ら遠江に出陣、三岳嶽城を根拠に井伊直宗や貞綱と連合する。貞綱は翌年閏4月に引馬城を占拠、次いで堀江城を攻めるが失敗し、逆に朝比奈泰煕に攻められて1513年3月に降伏。義達の本隊も敗れ尾張へ退却、井伊氏も今川氏に屈服した。
1515年、今川氏親が武田氏の内紛に介入し、甲斐に侵攻したのを好機として、貞綱は1516年3月、三度挙兵し引馬城を占拠する。斯波義達も尾張から駆けつけ合流、引馬城に篭城する。
氏親は1517年に武田信虎と和議を結ぶと、遠江に出陣、6月から引馬城攻撃を開始する。貞綱らは城を堅く守り、兵糧攻めにも屈しなかったが、安倍金山の金掘り衆によって城中の井戸の水源を抜かれたため力尽きた。8月
、引馬城は陥落、貞綱・巨海道綱兄弟は自害した。
大河内信政(信綱)
(-1520)
10代当主。大蔵大輔、但馬守
寺津城を築く。
【15】遠江・原氏
藤原南家藤原木工介為憲の流れで、工藤氏の一族である師清が、平安末期に遠江国原谷庄に移り住み、鎌倉初期から地頭・領主の地位を継承してきた。
南北朝期、忠清・忠政父子は南朝に味方して宗良・興良両親王に参じて忠誠を尽くした。
原師清の後裔は橋爪・原田・久野・孕石・小沢などの氏族が知られる。
原忠清
原忠政()忠清の子
原忠頼()忠政の子
原頼景()忠頼の子
原頼方()頼景の子
原頼郷()頼方の子
原頼延()頼郷の子。武蔵守
頼俊()頼郷の子。
頼重()頼郷の子。
原頼清()原頼延の子
原忠政
()
忠清の子。
子に忠頼、忠高、忠永
原忠頼
()
忠政の子
子に頼景、頼泰
原頼郷
()
頼方の子
子に頼延、頼俊、頼重
豊田郡本郷城主。遠江三十六人衆。
原頼延
()
頼郷の子。武蔵守
【16】孕石氏
藤原南家工藤氏流。原光頼の子忠高が、1439年、永享の乱で足利持氏の追討に加わり、戦功を立てたので、遠江国原田荘を与えられ孕石村に住して孕石氏を称したことに始まる。
孕石行重()佐野郡孕石城主。
孕石光尚()
孕石元泰(-1581)光尚の子
孕石元成(1563-1632)元泰の嫡男
孕石正元()元成の養子。
孕石元政(1628-1701)正元の子。
孕石元泰
(-1581)
光尚の子
1568年の武田信玄の駿河侵攻によって、今川氏から離反して武田氏の家臣となる。駿河国足洗郷や遠江国各所の知行地を安堵された。
元泰は朝比奈信置や岡部元信と並ぶ駿河先方衆の1人であり、武田信玄の駿河平定戦に参陣して武功を挙げ、蒲原城攻略戦では信玄より感状を賜った。
駿河平定後は江尻城代・山県昌景の相備に編成され、駿河国藤枝郷に知行地を得る。
1575年4月の武田勝頼の三河侵攻に際しては江尻城の在番を務めた。
1577年には勝頼より改めて駿河・遠江各所の知行地である480貫文を安堵された。
1579年より遠江高天神城の在番を務める。
1581年3月に高天神城が徳川軍に攻略される(第二次高天神城の戦い)。元泰は捕らえられ、切腹させられた。
孕石元成
(1563-1632)はらみいし もとしげ
元泰の子。通称:小右衛門
養子に正元(木部藤兵衛の次男)。
父・元泰と共に今川氏に仕え、今川氏の滅亡後は甲斐武田氏に仕えた。武田氏滅亡ののちは浪人となった。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐において、同じく武田家旧臣であり浪人であった板垣正信らとともに豊臣氏方として奮戦し、その功により掛川藩主・山内一豊に200石で召抱えられた。
関ヶ原の戦い後、一豊が土佐国に転封する際に450石を与えられた。
更に1619年には藩主・山内忠義より忠豊傅役を命ぜられ、200石を加増された。
1632年死去。
孕石正元
()
元成の養子。木部藤兵衛の次男。
孕石元政
(1628-1701)
正元の子。別名頼母、小右衛門
土佐藩中老、のち家老。
生駒木工とともに野中兼山の失脚を画策し、1663年7月に深尾出羽を通じて藩主山内忠豊に上申書を呈す。
兼山失脚ののち藩政改革を断行し、家老となる。
【17】遠江の武将
(1)勾坂氏
勾坂政久()磐田郡勾坂城主
勾坂長能(1491-1566)政久の子。
匂坂政信()長能の子。
匂坂政通()長能の子。
匂坂吉政()長能の子。
匂坂政祐()政信の子。
勾坂政久
()
今川氏親に仕える。勾坂城主。
1514年、「三獄城の戦い」では朝比奈泰以の先陣を務めた。
勾坂長能
(1491-1566)
政久の子。通称:筑前守、六右衛門。
氏輝、義元に仕える。勾坂城主。
北遠中尾生城の守備を命じられて在番を務める。
匂坂吉政
()
長能の三男。
1566年、父・長能の死に伴い、家督を継ぐ。
1568年、武田信玄に付こうと信玄の重臣・秋山信友の陣所を訪れた。
ところが、兄・政信の子・政祐が自らが嫡流であると売り込もうとしたため、政祐を殺し、徳川家康の下に奔った。
1570年、姉川の戦いで、朝倉方の猛将真柄十郎左衛門を討ち取る武名をあげる。
(2)松下氏
松下氏は、三河国碧海郡松下郷を拠点とする一族である。
松下氏の祖である西條高長はもともとは比叡山の衆徒であったが、下山して遠江国山名郡平河郷で還俗し、鎌倉時代末期に松下郷に移住し、松下氏を名乗った。
松下長則()
松下之綱(1573-1598)長則の長男
松下則綱()長則の次男
松下継綱()長則の三男
松下暁綱()之綱の長男
松下重綱(1579-1627)之綱の次男
松下方綱()之綱の三男。一時、山内康豊の養子
◇一族
松下連長()
松下連昌()連長の子
松下清景(1545-1597)連昌の子
松下常慶(1558-1624)
松下之綱
(1573-1598)
長則の長男。
室:松下連昌の娘
子に暁綱、重綱、方綱、おりん(柳生宗矩正室)、娘(松下長重室)、
娘(中村正吉室)、娘(夏目吉信室)
遠江国頭陀寺城主。今川氏家臣の飯尾氏の寄子。
義元の死後、遠江曳馬城・飯尾連龍が今川氏を見限り、周辺の親今川氏と反今川氏の豪族同士で抗争が起きると、1563年に今川方の軍に頭陀寺城が攻め落とされ炎上した(遠州忩劇)。
今川氏が滅亡すると、徳川家康に仕え、1574年の第1次高天神城の戦いにおいて籠城して武田氏と戦うも、のちに降伏した。
すると、織田氏家臣で長浜城主になっていた秀吉によって、之綱は家臣として召し出された。
1583年、丹波国・河内国・伊勢国などの内に秀吉から3,000石の所領を与えられた。
1587年、丹波3,000石を加増され6,000石となった。
1590年の小田原征伐後、徳川家康が関東に移封されると、遠江で1万石追加され、遠江久野1万6,000石の所領を秀吉から与えられた。
松下重綱
(1579-1627)
之綱の次男。
正室:星覚院(加藤嘉明長女)
子に長綱。
秀吉に仕え、のち豊臣秀次に属した。
1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与して本戦に参戦し、石田三成軍と戦うなど活躍したものの、1603年、無断で城の石垣を築いた罪科により常陸小張藩に移封させられた。
1614年からの大坂の陣にて活躍した功績により、1616年に2万800石に加増された。
1623年、下野烏山藩へ移封となった。
1627年、舅にあたる加藤嘉明が会津40万石に加増移封されると、陸奥二本松藩5万石に加増移封され、嘉明の与力大名となった。
松下連昌
()
連長の子
子に清景、常慶、娘(松下之綱室)
松下清景
(1545-1597)
連昌の子。
養子:松下一定(中野直之の次男)
徳川氏の家臣。後に井伊氏の家老を務めた。
1574年、井伊直政の母奥山ひよと再婚し、直政の継父となる。
(3)丸尾氏
本間氏清(-1574)丸尾和泉守の子。本間氏に養子に入る
丸尾義清(-1574)丸尾和泉守の子。
丸尾義清
(-1574)
丸尾和泉守の子。修理亮
小笠原信興に仕える。
1574年、高天神の戦いで、堂の尾曲輪を守備。
武田方の穴山梅雪の猛攻を受け、討死。
(4)久頭郷奥山氏
奥山氏は遠江国奥山郷を領する国衆であり、今川氏に従っていた。
遠江天野氏の与力となった。引佐郡高根城主。
南北朝期、奥山六郎次郎朝藤は奥山城に拠って南朝方に味方した。
しかし、南朝勢力は瓦解し、朝藤は井伊家再興のために守護家今川氏の仕えることとした。しかし、井伊道政の娘駿河姫が親王の皇子を出産していたため、次男の定則に皇子を託して北遠の山奥へ落ち延びさせた。
1414年、定則は後醍醐天皇の孫・尹良親王を守るため、久頭郷城(高根城)を築く。定則の一族は北遠一帯を勢力圏とする国人として繁栄することになる。
奥山朝藤
奥山朝実()→奥山井伊家
奥山定則
奥山良茂
奥山定之()良茂の子。
奥山貞益(-1569)定之の長男。高根城(久頭郷城)主。
奥山吉兼()高根城主。奥山氏惣領。定吉の子。
奥山有定()定吉の子。
奥山貞成()有定の子。
奥山定明()有定の子。
奥山吉重()有定の子。
奥山秀定()有定の子。
奥山重定()秀定の子。
◇一族
奥山定茂()定之の次男。水巻城主。
奥山定吉()定之の三男。大洞若子城主
奥山定友()定之の四男。小川城主
奥山友久()定友の子。
奥山定吉
()
定之の子
奥山吉兼
()
通称:大膳亮
高根城主。奥山氏惣領。
はじめ今川氏に従う。
1563年に惣領の寄親の天野景泰と共に今川氏真に反旗を翻す。奥山郷に勢力を保持する。
1568年12月に徳川家康による遠江侵攻が開始されると、徳川氏に従属。
1572年)に武田信玄が徳川領国に侵攻を開始すると(西上作戦)、12月には武田氏に従属し、御園郷他で2000貫文の知行を宛がわれた。
吉兼は天野藤秀と共に武田氏の遠江先方衆となり、徳川氏の遠江侵攻に対抗した。
1575年5月に武田勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗北し、6月に徳川軍の反攻により犬居谷が攻略される。勝頼は吉兼と天野藤秀ら北遠地域の武田方勢力を支援するため、吉兼の居城である高根城に伊那郡の松島・大草衆を、同じく奥山郷の大洞城に知久衆を派遣した。その後も吉兼は奥山郷を保持し続け、1580年9月には反抗する家臣を取り締まったことを勝頼から賞された。
武田氏が滅亡した後も奥山郷に在住。
奥山定茂
()
定之の子
奥山定友
()
1563年に惣領の奥山吉兼が寄親の天野景泰と共に今川氏真に反旗を翻すと、定友は惣領には従わずに弟・友久と共に今川方に残留した。定友・友久兄弟は今川氏の直参となることを認められ、上長尾郷や友永郷を与えられた。
1568年12月に徳川家康による遠江侵攻が開始されると、当初は今川方として友久や天野藤秀と共に犬居城の守備にあたっていた。しかし、天野藤秀と共に徳川氏に従属し、天野氏の同心となった。
1572年に武田信玄による徳川領国への侵攻が行われると、天野藤秀と共に武田氏に従属した。
奥山友久
()
(5)加賀爪上杉氏
加賀爪氏は、八条上杉満定の子・政定を氏祖とする。政定が駿河守護今川範政の養子となり、加賀爪を称したことにはじまる。
忠定、政泰、泰定と続いた。
上杉政定()
加賀爪忠定()
加賀爪政泰()
加賀爪泰定()
加賀爪政豊()
加賀爪政尚(1562-1596)
加賀爪忠澄(1586-1641)
加賀爪政尚
(1562-1596)
政豊の子。
子に忠澄。
徳川家康に仕えtる。
1584年、小牧・長久手の戦いで武功を挙げた。その後、九州平定、小田原征伐、奥州仕置に従軍した。
近習として仕え、武蔵国比企郡・相模国高座郡で3,000石を領した。
1596年、慶長伏見地震により倒壊した伏見城の城門の下敷きとなり、死亡した。
(6)久貝氏
久貝正好()
久貝正勝(-1587)正好の子。富部城主(森平城)通称:市右衛門。
久貝正俊(1573-1648)正勝の子
久貝正久()正俊の子
久貝正世(1605-1669)正俊の子
久貝正信()正俊の子
久貝正偏()正俊の子
久貝正俊
(1573-1648)
正勝の子
室は宇佐美長元娘
子に正久、正世、正信、正偏
1581年、徳川家康に拝謁し、徳川秀忠の御付となり、その後小姓となる。
1600年、秀忠に付き従って上田城攻めに参戦するが、陣中で勘気を被ったため即座に関ヶ原に赴き、関ヶ原の戦い本戦で井伊直政の軍に加わり戦功を挙げる。
1605年、徒頭となる。
1613年、大久保長安事件に巻き込まれる。
1614年、1615年、大坂冬・夏の陣には使番として参加した。
1616年、目付となる。
1619年、大坂東町奉行に任じられ、1500石を加増されて3000石を領す。1633年、2000石を加増されて5000石となる。
1648年、死去。
久貝正世
(1605-1669)
正俊の子。
子に松平氏信室、山崎重政室
1614年、徳川秀忠に拝謁し、その後小姓組となったのち、200石を賜る。
1626年、秀忠の上洛に付き従い、その功により1633年、200石加増される。
正俊が没すると家督を継ぎ5000石を領し、それまでの封地400石を弟・正偏に与えた。
1669年、死去。享年65。
妻 阿倍正之娘
(7)遠江本間氏
相模国海老名氏の一族である本間氏、その一流が遠江国高部郷の地頭職を承継していた。南北朝時代の初期に、国季が足利尊氏に従い山名郡を与えられ、欠ノ上屋敷に居住したことに始まる。
国季
守季
本間範季()
本間久季()範季の子。今川氏に仕える。
本間宗季()
本間親季()
本間長季(-1569)五郎兵衛
本間政季()長季の子
◇
本間氏清()八郎三郎
本間長季
(-1569)
五郎兵衛
本間政季
()
長季の子
本間氏清
()
八郎三郎
(8)河井氏
松葉城主。
河合宗忠(-1496)
河合宗在(1495-1570)
河合宗忠
(-1496)
勝間田播摩守が鶴見因幡守と結び、河合氏を攻めた際、家臣の落合久吉が内応。松葉城は陥落し、松葉川の淵で切腹して果てた。
河合宗在
(1495-1570)
宗忠の子。通称:勘解由左衛門。
1496年、父・宗忠が家臣の謀反にあって自害したため、三河・岡崎にのがれる。
成人後は徳川家康に仕えて三河岡城主となった。
1570年、死去。76歳。
(9)鶴見氏
鶴見氏は、掛川に居館(鶴見氏館)を構えて今川範氏に従っていたが、斯波氏が遠江守護となると応仁・文明の大乱では斯波義廉に従い、掛川から横岡へと移った。横岡城主。
鶴見英寿(-1496)
(10)西郷氏・遠江石谷氏
遠江国佐野郡西郷石谷を本貫とする。
藤原南家為憲流二階堂氏の流れを組む。
(二階堂行秋(因幡守)-二階堂行晴-西郷行清-二階堂清長-石谷政清)
西郷行清()
西郷清長(二階堂清長)行清の子
石谷政清(1503-1574)清長の子
石谷政重()政清の長男
石谷清定(1547-1601)政清の次男
石谷政信()政清の三男
石谷清重()政清の五男
石谷清平()清定の子
石谷清正()清定の子
石谷貞清(1594-1672)清定の子
石谷武清()
西郷行清
()
西郷清長(二階堂清長)
()
行清の子
石谷政清
(1503-1574)
清長の子
石谷政重
()
政清の長男
石谷清定
(1547-1601)
政清の次男
室:久嶋與平の娘。
子に清平、野間政次室、久嶋權右衛門室、清正、貞清
1590年、家康の関東転封に従い、武蔵国多摩郡に250石を賜る。
石谷政信
()
政清の三男。通称:十右衛門。法名:良完
子に戸塚忠之室、喜左衛門、政勝、小野田為一、小野久兵衛室、十兵衛、武嶋茂正室
家康及び秀忠に仕える。
1590年の家康の関東転封に従い、武蔵国多摩郡に200石を賜る。
石谷清平
(-1593)
清定の子。通称:久五郎
1593年、家康に仕え、肥前国名護屋に同行したが、同年5月同地にて死去。
石谷清正
(-1656)
清定の子。別名:清政。通称:友之助。法名:宗淳。
室は松井石見の娘
子に 石谷清亮
1601年、清定の跡を継ぎ、1602年より家康に仕える。1100石を知行し、
1656年10月13日69歳で死去。
石谷貞清
(1594-1672)
清定の子
子に武清、娘(都筑為基妻)、本多信賢
(11)秋鹿氏
秋鹿氏の祖は橘諸兄といい、二十代の後裔の出雲守朝芳が出雲国秋鹿郡に住し、秋鹿を称したことに始まる。
朝芳の四代の孫朝慶は、鎌倉将軍頼経に仕え、その一族に列して藤原に改めた。
そして、朝慶から六代にあたる左京亮朝治のとき、南北朝の争乱に遭遇し、朝治は足利尊氏に仕え、遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭を務めた。
室町時代になると、遠江守護の今川氏に仕え、地頭職とともに、府八幡宮の神主を勤めた。
秋鹿朝兼()左京亮
秋鹿朝延(-1557)朝兼の子。弥太郎
秋鹿直朝()朝延の子
秋鹿朝正()直朝の子
(12)石野氏
石野師安
石野師広
石野師成
石野師長
【18】城郭・古戦場・地理
【1】敷知郡
曳馬城(浜松城)
今川貞相がはじめ築城する。
室町時代中期には三河国の吉良氏が支配していた。
斯波氏と今川氏が抗争すると、吉良氏の家臣団の中で斯波氏に味方する大河内貞綱と今川氏に味方をする飯尾賢連・乗連が争い、斯波氏が今川氏に敗れると吉良氏も浜松の支配権を失った。
今川氏の衰退後、城主飯尾連竜が今川氏真に反旗の疑惑をもたれ、今川軍に攻囲され多大な損害を被る。今川からの和議勧告を受諾した連竜は、今川氏再属のため駿府への大赦御礼に出向いたが、和議は謀略で、連竜は殺された。
以後の曳馬城は、連竜の家老の江間氏によって守られるも徳川家康によって攻略された。
1570年に家康は武田信玄の侵攻に備えるため、本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移した。岡崎城は嫡男・信康に譲られた。
家康は曳馬城を西南方向に拡張した。その際、この地にあった荘園(浜松荘)に因んで城名も地名とも「浜松」と改めた。
1586年、家康は浜松から駿府に本拠を移す。
1590年からは秀吉の家臣堀尾吉晴と、その次男堀尾忠氏が合わせて11年間在城した。
頭陀寺城
()
引間城主・飯尾氏を寄親とする寄子の土豪・松下氏の居城
宇津山城
敷知郡
大永年間(1521年~1527年)、遠州進出を図った今川氏親の家臣・長池親能が浜名湖西岸に築いたという。城主には長池親能、次に小原親高が入り享禄年間以降は朝比奈泰長が入った。
1555年に氏泰が病没すると、その嫡男・泰長が城主となる。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、徳川家康が三河国統一を目論む。掛川朝比奈氏の分流であった泰長は、惣領家と同様に今川氏への忠誠を貫こうとした。
泰長は1562年に死去し、その跡を嫡子の泰充が継いだ。しかし、泰充は徳川に誼を通じていた弟の真次に殺され、城主の座を奪われた。
しかし、真次も今川氏真の命を受けた小原鎮実に討ち取られる。
そして、今川方は、境目城を築き、宇津山城とともに家康の来攻に備えた。
1572年、は松平清善が1,000貫文を賜って城番に命じられた。
堀江城
敷知郡
戦国時代、大沢氏が城主であったが、今川氏の勢力下に入り、宇津山城、佐久城などとともに、三河に対する抑えとして機能した。
1569年、大沢基胤は徳川家康に攻められ、遠江における今川方最後の拠点として激しく防戦したが、最終的には降伏した。
1573年1月、三方ヶ原の戦いで勝利した武田信玄が自ら堀江城を攻撃するが、井伊谷衆の支援を受けた大沢勢の奮闘と天候の悪化によって、4日後に撤退している。
江戸時代には堀江陣屋と称されて高家旗本・大沢家の陣屋となった。
佐久城
猪鼻湖に突き出した岬に築かれた城。
浜名湖北に勢力を張った国人浜名氏の居城
【2】引佐郡
井伊谷城
千頭峰城
三岳城
大平城
【3】豊田郡
二俣城
鳥羽山城
小山城
【4】山名郡
久野城
社山城
【5】佐野群
掛川城
佐野郡
文明(1469年 - 1487年)年間に大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城。
朝比奈氏が城代を務め、泰煕の子孫である朝比奈泰能・朝比奈泰朝が代々城を預かった。
1568年、今川氏真が甲斐国の武田信玄・三河国の徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、本拠地たる駿府館を捨てて泰朝のいる掛川城に逃げ延びた。
徳川勢の包囲に遭うと、氏真の身の無事を条件に開城した。
天方城
久野城(蔵王城)
【6】城東郡
高天神城(鶴舞城)
城東郡
菊川下流域の平地部からやや離れた北西部に位置する。
遠州灘に面した河口には浜野浦という港があり、中世には水軍の拠点として知られていた。
今川氏の家臣であった福島助春が城代として駐屯した。
福島氏は1536年の花倉の乱により没落し、その後は、今川氏に服属した国衆・小笠原氏が城代となった。
1569年、武田信玄は三河の徳川家康と同盟して駿河侵攻を開始し、これにより今川氏は滅亡する。小笠原氏の当時の当主・小笠原氏興、小笠原氏助父子は徳川氏の家臣となった。
勝頼は1574年、高天神城を攻撃、徳川軍も織田軍も援軍が送れず、小笠原氏助はついに降伏、高天神城は開城した。
1580年9月、徳川軍は満を持して高天神城を攻撃した(第二次高天神城の戦い)。1581年3月下旬、岡部以下の将兵が突撃を敢行し討死して高天神城は陥落した。
横地城
()
牧ノ原台地から西側の菊川水系の平野部に伸びる丘陵上および谷地形を利用して造られている。
鎌倉時代には御家人、室町時代には奉公衆として幕府に仕えた名族横地氏によって築城された。
駿河守護今川義忠と遠江守護斯波義廉の対立に際し、同族の勝間田氏と共に斯波氏方について挙兵するも、今川義忠に攻められ1476年に落城した。
横須賀城
城東郡()
1578年、武田家の高天神城攻略のため、徳川家康が大須賀康高に命じて築いた。
馬伏塚城
()
戦国期、今川氏の家臣小笠原氏が城主であった。
今川氏が没落すると小笠原氏は徳川家康の家臣となり、高天神城主も兼ねた。
1574年、高天神城が武田勝頼によって攻略されると、家康は高天神城奪還の拠点として馬伏塚城を改修し、大須賀康高を城主に据える。
更に康高に横須賀城を築かせ、康高を横須賀城の城主として、馬伏塚城には高力清長を置いた。
1582年、廃城。
【7】周智郡
犬居城
周智郡
高根城
勝坂城
樽山城
【8】榛原郡
諏訪原城(牧野城)
榛原郡()
1573年、武田勝頼が普請奉行馬場信春、その補佐を武田信豊に命じ、東海道沿いの牧之原台地上に城を築かせた。
小山城と共に、大井川西岸の防衛線及び高天神城への補給線を確保する重要な拠点となった。
長篠の戦の後、1574年7月中旬、徳川軍により包囲された。武田方は在番衆の今福虎孝や室賀満正、小泉昌宗以下抗戦の構えを見せ、1ヶ月余りの攻防戦が繰り広げられた。最後は、開城し城兵は小山城に退去した。
1590年に廃城となった。
勝間田城
()
牧ノ原台地から駿河湾に注ぐ勝間田川の上流部となる丘陵地にある。
滝境城
()
相良城
榛原郡(平城)
平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて、相良庄の武士・地頭である相良氏の館(相良館)が築かれていた。
高天神城を攻略して遠江国の支配を図った武田勝頼は、相良に築城をおこなった。
江戸時代に入ると相良陣屋として相良藩の藩庁が置かれた。
【9】河川・山岳
大井川
駿河国と遠江国の境界線とされていた。
赤石山脈から駿河湾に向かって流れる河川。
中流部には大蛇行地帯があり、「鵜山の七曲り」と呼ばれる。
天竜川
赤石山脈