戦国!室町時代・国巡り(6)摂津編
【0】はじめに
摂津国:石高35万6000石(1598年)
丹波、播磨、山城、河内、和泉に接する。
上郡:島下郡/島上郡
下群:豊島郡/川辺郡/能勢郡/武庫郡/菟原郡/八部郡
欠郡:東成郡/西成郡/住吉郡
有馬:有馬郡
(2)年表
1330 元弘の乱
1335 中先代の乱
1336 建武の乱
1348 四条畷の戦い
1350 観応の擾乱
1352 男山八幡の戦い(第一次京都攻防戦)
1358 尊氏が死去
1360 仁木義長が南朝に降る
1361 康安の政変/細川清氏が失脚、南朝に降る
1366 貞治の変
1379 康暦の政変
1391 明徳の乱
1441 嘉吉の乱
1466 文正の政変
1493 明応の政変
1507 永正の錯乱
1508 両細川の乱
1511 船岡山合戦
1531 大物崩れ
飯盛城の戦い
1532 山科本願寺の戦い
1536 享禄・天文の乱
天文法華の乱
1565 永禄の変
【1】細川宗家
細川氏は足利義康の曽孫である義季が三河国額田郡細川郷を本領としてこれを名字としたことに始まる。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、細川和氏・頼春兄弟やその従兄弟の顕氏・定禅らが足利尊氏に従う。
和氏の嫡子である細川清氏は、二代将軍義詮の執事職(後の管領)として幕政の実権を握ったが、佐々木道誉の讒言により失脚した(康安の政変)。
①細川義季
②細川俊氏
③細川公頼
④細川和氏(1296-1342)阿波国守護
⑤細川清氏(?‐1362)伊勢国・伊賀国・若狭国守護。
⑥細川正氏(?‐?)阿波国守護
(1)細川公頼
(2)細川和氏
(1296-1342)
公頼の子。
子に 清氏、頼和、将氏、家氏、業氏。
三河国細川郷出身。元弘の乱後から足利尊氏に仕える。
中先代の乱の鎮圧に参加。
建武の新政では阿波守護に任ぜられる。
足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと尊氏に従う。
1336年、京都奪還に失敗した足利勢が九州落ちすると細川氏は四国へ派遣される。和氏は従兄弟の細川顕氏と共に四国の諸大名や国人統率などで功を挙げた。
尊氏が幕府を開くと、引付頭人、次いで侍所頭人となる。
その後、阿波秋月で隠居。夢窓疎石を招き補陀寺を開く。
1342年、死去。
(3)細川清氏
(?‐1362;在1342-)
和氏の子。
子に 仁木頼夏、正氏。
足利義詮の執事、伊勢国・伊賀国・若狭国守護。細川氏5代当主。
1342年、父の死により家督を相続。若年であったため叔父・頼春の後見を受ける。
観応の擾乱では四国の軍勢を率い、尊氏方として直義方と戦う。1352年に伊勢・伊賀両国の守護となる。
1353年に直義の養子・直冬が京都へ侵攻した際には殿軍を務め、後光厳天皇を警固し、近江国塩津では天皇を背負って山越えをしたといわれる。
1354年には若狭守護、評定衆、引付頭人に加え、相模守に補任される。
1358年に尊氏が死去して仁木頼章が執事を退くと、2代将軍・足利義詮の最初の執事に任ぜられた。
このころ、仁木頼章の弟義長や斯波高経ら政敵であった。
1360年、仁木義長が南朝に降ると、清氏は実権を握る。
しかし、同年、将軍義詮が清氏追討を決めると、清氏は弟の頼和・信氏らと共に分国の若狭へ落ち延びる。この一件の黒幕は佐々木道誉とされる。
清氏は無実を訴えるものの、斯波高経の軍に敗れ、比叡山を経て摂津国天王寺に至り南朝に降った。
1362年、清氏は細川氏の地盤である阿波へ逃れ、さらに讃岐国へ移った。清氏追討を命じられた従弟の阿波守護・細川頼之に抵抗するも、討ち死。
(4)細川正氏
(?-?)
清氏の子。
1362年、父・清氏が死亡した後も南朝方として、幕府と北朝に抗戦した。
しかし、1379年、康暦の政変後。細川頼之が追討されると、幕府は正氏を阿波守護として、四国へ逃れた頼之を追討させた。しかし、頼之により阿波に送り込まれた細川義之が阿波を事実上支配、幕府も義之の守護職を追認した。
【2】細川京兆家
細川氏は足利義康の曽孫である義季が三河国額田郡細川郷を本領としてこれを名字としたのに始まる。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、細川和氏・頼春兄弟やその従兄弟の顕氏・定禅らが足利尊氏に従う。
細川頼春の子で足利義満の管領・細川頼之の嫡流は京兆家と呼ばれ、代々管領に任ぜられ、斯波氏・畠山氏とともに三管領(三管四職)の1つに数えられた。
細川宗家は、康安の政変で没落したため代わって、本家・嫡流となった。
「京兆」とは右京大夫の唐名「京兆尹」のことであり、当主が代々右京大夫の官位に任ぜられたことに由来する。
①細川頼春(1304‐1352)阿波・伊予・備後・日向・越前守護。
②細川頼之(1329‐1392)
③細川頼元(1343-1397)頼之の弟。摂津・土佐・讃岐・安芸・丹波守護。
④細川満元(1378-1426)摂津・土佐・讃岐・丹波守護。
⑤細川持元(1399-1429)摂津・土佐・讃岐・丹波守護。
⑥細川持之(1400-1442)持元の弟。摂津・土佐・讃岐・丹波守護。
⑦細川勝元(1430-1473)摂津・土佐・讃岐・伊予・丹波守護。
⑧細川政元(1466-1507)摂津・土佐・讃岐・丹波守護。
(1)細川頼春
(1304‐1352)
公頼の子。幼名:源九郎。
子に頼之、詮春、頼有、頼元、満之。
1333年の足利尊氏の挙兵に兄・和氏と共に参加。
足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと尊氏に従う。
1336年、足利勢が九州落ちすると細川氏は四国へ派遣される。
頼春は、南北朝時代成立後には斯波高経に従って北陸落ちした南朝の新田義貞を攻め、1338年には越前金ヶ崎城で尊良親王らを討った(金ヶ崎の戦い)。
1341年には阿波・備後守護にも任じられた。
1342年には南朝方の脇屋義助の死に乗じて伊予へ進攻、伊予守護に任じられる。大館氏ら伊予の南朝軍を駆逐し、豪族・河野氏と対立した。
同年、兄が没したため、甥の細川清氏の後見役も務めた。
1348年、四条畷の戦いでは楠木正行を討って戦功をあげた。
1352年、男山八幡の戦いで南朝の楠木正儀、北畠顕能、千種顕経らが京都へ攻勢をかけると、頼春は義詮を守り七条大宮付近で戦死した。
(2)細川頼之
(1329-1392)
頼春の子。
養子に頼元、基之。
室町幕府2代管領。
1350年に阿波の国人小笠原頼清が乱に乗じて南朝に属すると、父に代わり阿波に派遣された。
1352年に南朝の京都侵攻で父が戦死すると、頼之は弔い合戦のため軍を率いて上京、讃岐国の軍勢を率いる弟・頼有らと共に男山合戦に参加して南軍を駆逐した。
義詮が直冬征討の軍を起こした際は、河野通盛に代わって伊予の守護に補任された。
1356年、再び直冬征討軍が起こされると、頼之は備後国守護に補任され、九州に勢力を誇る直冬の追討を指揮する大将を命じられた。
1362年、清氏が斯波氏や佐々木道誉らとの政争に敗れ南朝側に奔って阿波へ下ったことから(康安の政変)、頼之は義詮から清氏討伐を命じられた。白峰城で、清氏を破り、清氏は討ち死にした。
本国の阿波国に加えて讃岐・土佐国の守護に任ぜられると、伊予の河野通朝を追討して四国を平定した。
1366年、執事(管領)斯波義将とその父・高経が失脚する(貞治の変)。
死去直前の義詮の命により管領に就任し、当時11歳の新将軍義満を補佐。
1370年、今川貞世(了俊)を九州探題として派遣。
1379年、頼之の養子頼元を総大将とする紀伊国への南朝征討が失敗する。
康暦の政変により頼之は失脚、管領には斯波義将が就任した。
伊予の河野通堯は幕府に帰服すると斯波派と結んで討伐の御書を受け、頼之を攻めるが、通堯や清氏の子・細川正氏らを破り、1381年、通堯の遺児・通義と和睦した。
1389年、赦免を受け、1391年に斯波義将が義満と対立して管領を辞任したことを機に、上京。
1392年、死去。
(2-2)康暦の政変
(3)細川頼元
(1343-1397)
頼春の子、細川頼之の養子。官位:右馬助、従四位下右京大夫
正室:赤松則祐娘
子に 満元、満国、宇都宮基綱室、細川成之室。
細川京兆家7代当主。室町幕府4代管領。摂津国・土佐国・讃岐国・安芸国・丹波国守護。
兄・頼之の管領就任に伴ってその補佐に務め、1374年に摂津守護に就任。
1379年に兄が康暦の政変で失脚すると摂津守護を解任され兄と共に四国へ下る。
1380年、足利義満から赦免されると、1383年に摂津守護に復帰した。
1391年、斯波義将に代わり管領となる。
同年、明徳の乱に兄と共に参戦した。
1392年、丹波国守護となった。
同年の兄の死により土佐・讃岐も領有し、4ヶ国の守護となった。
1393年、管領を辞任。
1395年、義満の出家に伴い出家。
1397年、死去。
(4)細川満元
(1378-1426)
頼元の子。幼名:聡明丸。官位:右馬助、右京大夫。
子に持元、持之、持賢。官位:右馬助、従四位下右京大夫
細川京兆家8代当主。室町幕府11代管領。摂津国・土佐国・讃岐国・丹波国守護。
1397年、父の死去により家督を継ぐ。
1412年、管領職に就任。
在任中に北畠満雅の反乱、上杉禅秀の乱、足利義嗣の殺害事件などの問題に対応。
1421年、管領を辞任。
1426年、死去した。
(5)細川持元
(1399-1429)
満元の子。
細川京兆家9代当主。摂津国・丹波国・讃岐国・土佐国守護。
元服し、4代将軍・足利義持より偏諱を受け、持元に改名。
1426年、父の死去により家督を継ぐ。
1429年、死去。嗣子は無く、家督は次弟・持之が継いだ。
(6)細川持之
(1400-1442)
満元の子。官位: 従四位下中務少輔、右京大夫。法名:常喜
子に勝元、成賢。
妻は京極高光娘。
細川京兆家10代当主。室町幕府14代管領。摂津国・丹波国・讃岐国・土佐国守護。
1432年、斯波義淳の後を受けて管領に就任。
永享の乱、結城合戦に対応。
1441年、赤松満祐が結城合戦祝勝会で義教を殺害した際には、持之は同席していたが難を逃れる。
山名宗全や一族の細川持常らを主力とした軍を送り、赤松家を滅ぼす(嘉吉の乱)。
1442年、管領を辞任して出家。同年、死去。
(7)細川勝元
(1430-1473)
持之の子。
子に洞松院、政元。
室町幕府16・18・21代管領。
1442年、父が死去したため、13歳で家督を継承した。
叔父の細川持賢に後見される。
1445年、畠山持国に代わって16歳で管領に就任。
畠山持国を政敵とし、6代将軍足利義教に家督を追われた元当主の復帰を図ると勝元はそれに対抗して義教に取り立てられた大名・国人を支持、持国は信濃国守護に小笠原持長を任命、元加賀国守護富樫教家・成春父子を支持、大和国では元興福寺別当経覚と越智家栄・古市胤仙・小泉重弘・豊田頼英を支援した。勝元はこれに対して小笠原宗康・光康兄弟や富樫泰高を支持、大和で経覚派と敵対している成身院光宣・筒井順永を支援、信濃・加賀・大和で持国と勝元の代理戦争が頻発した。
1445年に近江国で反乱を起こした六角時綱を時綱の弟久頼と京極持清に鎮圧させた。
1454年、畠山氏で家督をめぐる内紛が起こった際には、持国を失脚させるため、舅にあたる山名宗全と共に持国の甥・弥三郎を支援して持国の推す実子・義就を追放に追い込んだ。しかし足利義政が嘉吉の乱で没落した赤松氏の再興を支援しようとすると、赤松氏の旧領を守護国に持つ山名宗全は赤松氏の再興に強硬に反対した。このため、山名宗全は義政から追討を受けそうになるが、この時は勝元が弁護したため、山名宗全は追討を免れた。
山名宗全が赤松則尚討伐のため但馬国へ下向した直後に畠山義就が上洛、弥三郎を追放し、翌年の持国の死で義政から当主に認められた。
畠山義就は義政の側近となったが、無断で大和へ軍事介入したことから義政の信頼を失う。勝元は、弥三郎の弟・政長を支援して1460年、義就から政長に家督が交替、義就は嶽山城の戦いに敗北し吉野へと逃れた。
1464年、畠山政長に管領職を交替した。
この頃、山名氏の勢力拡大を危険視し、斯波氏の家督争い(武衛騒動)で斯波義廉を支持する宗全に対し、勝元は斯波義敏を支持した。また、宗全がかねてから反対していた赤松氏の再興問題に関しても勝元は積極的に支援し、ついには赤松政則を加賀半国の守護とし、赤松家を再興させた。
継嗣のいなかった勝元は、宗全の末子豊久を養子にしていたが、実子政元の誕生後、豊久を廃嫡。対立は明らかとなった。
義政と正室の日野富子に息子の義尚が誕生して足利将軍家でも将軍後継者争いが始まる。
義政の側近・伊勢貞親と季瓊真蘂は義政が弟の足利義視の廃嫡と義尚の将軍後継を義政に提言した。しかし義視を支持していた勝元はこれに反対、宗全もこの時は勝元に賛同し共に義政に対して貞親と真蘂の追放を訴え、実現させた(文正の政変)。
宗全は追放されていた畠山義就を上洛させ、赦免の許しを出させた。さらに勝元が支援する畠山政長の管領職を取り上げ、斯波義廉を管領に任命させた。
応仁の乱における最初の衝突は、
畠山義就と畠山政長が争い、上御霊神社で衝突(御霊合戦)。
宗全は後花園上皇・後土御門天皇を確保して義就を支援したのに対し、勝元は義政の命令で畠山家の争いに関与することを禁じられていたため、政長は敗れた。
天皇を擁した宗全に対して、勝元は幕府を占領して将軍を擁立し、山名方に戦いを挑んだ(上京の戦い)。勝元は東軍、宗全は西軍と区別された。
次第に戦況は東軍有利に進むが、決定打は出せずにいた。
1468年、義政が伊勢貞親を復職させると、勝元は義尚を、宗全が義視を支持する立場に変わる。西軍の部将朝倉孝景を越前国守護に任じて寝返らせる。
1473年宗全が死去。そして、勝元も後を追うように死去した。
(8)細川政元
(1466-1507)
勝元の子。
1473年、応仁の乱の最中に病死した勝元の後継として、わずか7歳で家督を相続する。丹波・摂津・土佐守護に就任する。幼少のため、分家の典厩家当主・細川政国の補佐を受けた。
1474年、西軍方の山名政豊と和睦し、応仁の乱は終息する。
1478年、12歳で元服し、将軍・足利義政の偏諱を受けて政元と名乗る。管領に任じられたものの短期間で辞職している。
1479年、一宮宮内大輔一族に拉致され、幽閉された。
1482年、摂津国の国人が蜂起したため、畠山義就討伐に向かう管領・畠山政長と協力して連合を組み出陣したが、義就が占領した摂津欠郡(東成郡・西成郡・住吉郡)の返還と引き換えに河内十七箇所を義就に渡す交渉をまとめ、単独で和睦して京都に撤収した。
1489年、将軍・義尚(義煕)は六角討伐(長享・延徳の乱)の最中、病死する。政元は次期将軍として義煕の従兄で堀越公方・足利政知の子で禅僧となっていた天龍寺香厳院の清晃(のちの足利義澄)を推挙するが、義尚(義煕)の母・日野富子と畠山政長の後押しの結果、足利義視の息子・義材(後に義尹、義稙)が10代将軍に就任する。
政元は幕府に距離を置き始め、義視が死去した後は政長が幕府の権力を独占するようになる。
九条政基の次男・聡明丸を養子に迎え、1495年には家督と定めた。
将軍義材は畠山政長と共に畠山義豊討伐のため河内国へ出兵する。政元はこの出兵にも反対して従軍を拒んだ。政元は日野富子や前政所執事・伊勢貞宗と組んで周到な根回しのもとクーデターを決行、以前将軍候補に推げた清晃を第11代将軍として擁立する(明応の政変)。
畠山政長方であった赤松政則も政元に寝返り、孤立無援となった政長は自害し、義材は京都龍安寺に幽閉され、将軍職を解任された。
1494年、清晃は還俗して足利義高(後に義澄)と名乗り将軍に就任、政元は管領に就任して実権を握り将軍を事実上の傀儡にして幕政を掌握した。 政変後、越中国へ亡命していた足利義稙(越中公方)は、1499年近江にまで侵攻し、比叡山延暦寺を味方に付ける。政元は赤沢朝経と波々伯部宗量に命じて延暦寺を攻撃、大規模な焼き討ちを行わせた。朝経は続いて河内で挙兵した政長の子・畠山尚順を撃ち破り、尚順が大和国に逃げ込んだ為、そのままの勢いで大和国に攻め込んだ。そして筒井順賢・十市遠治ら尚順に与した国人衆を追討し、大和北部を占領した。
1502年、義澄が金龍寺に引き籠るという事件が発生。御所に戻る交換条件として出された条件のうちに前将軍義材の弟である実相院義忠を処刑せよ、というものがあり、政元は義忠をとらえて殺害した。
1501年、家督を聡明丸(澄之)に譲り、隠居。
1503年には、細川一門の細川成之の孫・六郎(のちの澄元)を後嗣とした。養子2人を迎えたことにより、政元の後継者候補は、澄元と澄之となった。細川京兆家としての総領をいずれにするかで、内衆(家臣団)は二派に分かれて争うことになる。
また、分家の野州家からも高国を養子として迎えていたともされる。 1504年、摂津守護代・薬師寺元一が淀城に立てこもり、謀反を起し、赤沢朝経も加わった。しかし謀反は失敗に終わり、薬師寺元一は刑死、赤沢朝経は許された。摂津守護代は、元一の弟・薬師寺長忠が継いだ。
1505年、河内の畠山義英が畠山尚順と和睦したことから、政元と義英の関係が悪化し、政元は赤沢朝経に命じて義英の誉田城を攻撃させた。
1506年、丹後国守護の一色義有と争っていた若狭国守護の武田元信から助けを求められたため、政元は澄之を丹後に派遣した。
河内国では、畠山尚順と畠山義英が、反政元の立場を鮮明にして、大和国で兵を集めたため、赤沢朝経に命じて大和国に侵攻させた。
同年、山城国守護代・香西元長が政元に背き、京都で蜂起した。大和国にいた三好之長を呼び戻し、元長攻めに向かわせた。
1507年、香西元長の間諜・竹田孫七によって、自邸で暗殺された(永正の錯乱)。
(8-2)永正の錯乱
[3]細川京兆家②(永正の錯乱後)
①細川澄之(1489-1507)(摂関家・九条政基の子)
②細川澄元()(阿波守護家・細川義春の子)
③細川高国()(野州家・細川政春の子)
④細川晴元()澄元の子
⑤細川氏綱()(細川尹賢(高国の従弟)の子)
⑥細川昭元()晴元の子
⑦細川元勝()
(1)細川澄之
(1489-1507;在1507)
関白・九条政基の二男。
1491年、2歳のとき、実子の無かった細川政元の養子となる。
1495年、足利義澄に目通りし、家督と定められた。
1501年、政元から家督を譲られた。
1503年、澄之の家督継承に反対する者もいたため、政元は、細川一門の細川成之の孫・六郎を後嗣とした。
1505年、淡路守護の細川尚春や安冨氏、香川氏などと共に讃岐国の阿波細川氏を攻めるも細川成之や三好之長に敗北し、後継者の地位は澄元のものとなった。
1507年、香西元長の間諜・竹田孫七によって、養父・政元が自邸で暗殺された(永正の錯乱)。
澄之や香西元長らの軍勢は細川澄元邸を攻め、澄元や三好之長らを近江国に追いやった。幕府は、澄之を細川家の後嗣と定めた。
しかし、細川澄元方は態勢を立て直し、もう一人の政元の養子・細川高国も澄元方に加わった。
細川高国・政賢・尚春らによって、京都の自邸を攻められ、香西元長や薬師寺長忠らと共に殺害された。
(2)細川澄元
(1489-1520;在1507-1508、1513)
阿波守護家・細川義春の子。
1503年、政元の後嗣となる。
1507年、香西元長の間諜・竹田孫七によって、養父・政元が自邸で暗殺された(永正の錯乱)。
澄之や香西元長らの軍勢に屋敷を襲われ、三好之長と共に近江国青地城に逃れ、甲賀の山中為俊を頼って逃走。
態勢を立て直すと京都に侵攻して澄之とその支持者を討ち取り、将軍・足利義澄に対して細川京兆家の家督継承を承認させる。
しかし、澄元は若年であったため、家宰三好之長に権力が集まり、対立することになる。
京の内乱を知った足利義尹(義材より改名、後の義稙)は大内義興に擁立されて上洛を開始する。細川高国は大内方に寝返る。
1508年、高国が京都に侵攻を開始。摂津の伊丹元扶や丹波の内藤貞正、河内国の畠山尚順らも呼応したために澄元は敗北し、之長や将軍・足利義澄と共に山中為俊を頼って近江に逃れた。また、摂津で抵抗を続けていた池田貞正と芥川信方(薬師寺元一・長忠の弟)が高国軍に討たれてしまう。
足利義尹が大内義興に擁されて上洛すると、澄元の家督は剥奪され、代わって高国の家督継承が承認された。
大和に残った赤沢長経も畠山尚順に討たれた。
1509年、大内義興と義尹が対立し始めたため、澄元と之長に京都に侵攻したが、反撃を受けて敗北(如意ヶ嶽の戦い)。阿波に逃走する。
1511年、義澄、義兄弟の細川政賢(典厩家当主)や同族の細川元常(和泉守護)・細川尚春(淡路守護)、更に赤松義村(播磨守護)と連携して深井城を攻め(深井城の合戦)、一方では鷹尾城を攻め(芦屋河原の合戦)、その後京都に侵攻し船岡山合戦となる。
しかし船岡山合戦前に義澄が病死したこともあって、大内義興の反撃を受けて大敗。政賢は戦死し、澄元は摂津に逃走した。
1518年、大内義興が周防に帰国。
1519年、澄元と之長は摂津に侵攻(田中城の戦い)。
1520年、澄元に呼応して山城国で土一揆が発生する。そして、将軍・足利義稙も裏切り澄元方に通じたため、細川高国は単独で近江坂本に逃れた。
細川尚春を滅ぼして淡路を手に入れる。
高国は大軍を集めて京都に侵攻する。之長は等持院の戦いで敗北し自刃。澄元も摂津伊丹城に敗走した。最期は阿波勝瑞城にて死去した。
(2-2)両細川の乱
(3)細川高国
(1484-1531)
野州家・細川政春の子。
1507年、政元が澄之派の重臣・香西元長や薬師寺長忠らによって殺されると、澄元は澄之討伐の兵を挙げた。高国は、澄元を支持して同族の細川政賢・細川尚春と共同で討伐に貢献し、澄元の家督相続を承認した(永正の錯乱)。
京の内乱を知った足利義尹(義材より改名、後の義稙)は大内義興に擁立されて上洛を開始する。
1508年、高国は、仁木高長(仁木氏)、伊丹元扶、内藤貞正(国貞の父)らと呼応して京に侵攻し、澄元や将軍足利義澄を近江国に追放した。摂津の澄元側の池田貞正を滅ぼし、芥川信方を謀殺した。そして、大内義興と共に入京し足利義稙を将軍に復職させ、右京大夫・管領に任ぜられた。
1509年、澄元・三好之長による京都侵攻を受けたものの、大内義興と協力して退け(如意ヶ嶽の戦い)、逆に近江に侵攻。
1511年、細川政賢や赤松義村を加えた澄元方による京への再侵攻(深井城の合戦、芦屋河原の合戦)を受け、一時劣勢に追い込まれて丹波にまで撤退。
しかし、前将軍・足利義澄が病死したこともあり、船岡山合戦に勝利した。
1515年、芥川山城と越水城を築城して、能勢頼則と瓦林正頼(河原林政頼)を配置。
1518年、大内義興の周防へ帰国。
それを好機と見た阿波の澄元・三好之長らが1519年、摂津侵出(田中城の戦い)。そして1520年、近江坂本まで退散させられた。将軍足利義稙は、保身のため澄元と内通。
しかし、六角氏・朝倉氏・土岐氏らの支援を仰ぎ、再度挙兵。京へ反撃侵攻した高国勢は之長を自害に追い込み、澄元を摂津に敗走させた(等持院の戦い)。澄元が阿波で病死。
高国は武功も多かった瓦林正頼らに謀反の嫌疑をかけて殺害。
1521年には、将軍足利義稙が京から阿波へ出奔。義澄の遺児である足利亀王丸を擁立。亀王丸は元服して義晴と改名。
1523年に義稙も死去した。
1525年、剃髪して道永と号し、家督と管領職を嫡子の稙国に譲って隠居した。ところが同年12月に稙国が没したため、復帰する。
1526年、従弟・細川尹賢の讒言を信じて、重臣の香西元盛を謀殺。これを知った元盛の兄弟(波多野元清と柳本賢治)が丹波で挙兵する。その討伐に失敗。
1527年、柳本賢治や三好元長らに京に侵攻され、足利義晴を擁したまま近江坂本に逃れた(桂川原の戦い)。
越前国の朝倉孝景に軍事支援を要請し、孝景の大叔父である朝倉宗滴を総大将とする加勢を得て、上洛を果たす(川勝寺口の戦い)。
だが翌1528年、越前軍が帰国し、再び近江へ逃れた。
伊賀国の仁木義広や婿で伊勢国司の北畠晴具、越前の朝倉孝景、出雲国の尼子経久らを頼って落ち延びる。
1530年に柳本賢治が播磨国出陣中に暗殺されると、備前守護代・浦上村宗と連携して京に進軍した。
次は晴元を倒すべく、堺公方府への出征を試みたが1531年、晴元の重臣・三好元長からの反撃で膠着状態(中嶋の戦い)に陥った。
新たに参戦した赤松政祐の支援を得たかに見えたが、政祐の裏切りに遭って高国勢は総崩れとなり、村宗や主だった重臣を討ち取られた道永は尼崎に逃走した(大物崩れ)。高国も尼崎の広徳寺で自害に追い込まれた。
(3-2)大物崩れ
(4)細川晴元
(1514-1563)
澄元の子。
子に 昭元。
1520年、父の死去により、7歳で家督を継承。
1526年、細川高国が従弟・細川尹賢の讒言を信じて、重臣の香西元盛を謀殺。これを知った元盛の兄弟(波多野元清と柳本賢治)が丹波で挙兵する。高国がその討伐に失敗すると機に乗じ、三好元長に擁されて高国打倒の兵を挙げた。
高国に対抗し、義晴の弟・足利義維を擁立。
1527年、高国との決戦に勝利(桂川原の戦い)。高国を近江国へ追い落とすと、和泉国堺を本拠とした晴元は、義維を将軍に戴く「堺公方府」を立てた。
しかし、ここで三好元長が、柳本賢治・傍流の三好政長らと対立し、晴元もき賢治らの讒言を受け入れていた為、1529年、憤慨した元長は阿波に下向してしまう。
細川高国も備前国守護代の浦上村宗と結び再起を図り挙兵、迎撃に向かった柳本賢治が1530年高国の刺客に暗殺されてしまう。
1531年、細川高国に摂津の大半を制圧され、京都も高国派の内藤彦七に奪回される。
ここで三好元長と和睦。赤松政祐の騙し討ちが決め手となって、細川高国・浦上村宗軍を壊滅させ(天王寺の戦い)。高国を自害に追い込んだ(大物崩れ)。
堺公方府擁立の方針を転換、足利義晴と和睦し、その管領に就こうとした為に三好元長と対立。
1532年、元長を排除すべく、茨木長隆ら摂津国衆が策謀を凝らして本願寺第10世法主・証如に一向一揆の蜂起依頼を提言。蜂起した一揆軍によって元長を堺で敗死。足利義維の阿波への放逐にも成功した(飯盛城の戦い)。
反対派を排除し、将軍・義晴と和睦できた晴元は、一向一揆軍の鎮圧を図った。一向宗の対立宗派であった法華宗とも協力して法華一揆を誘発させ、他にも領内で一向宗の活動に悩まされていた近江国の六角定頼とも協力して山科本願寺を攻めた(山科本願寺の戦い)。
山科本願寺焼亡後、石山本願寺に移転した一向一揆と戦い、1533年、一向一揆の反撃に遭い堺から淡路国へ亡命したが、摂津池田城へ復帰して体勢を立て直し、1535年に和睦した(享禄・天文の乱)。
1534年、木沢長政の仲介で三好元長の嫡男・三好長慶とも和睦して家臣に組み入れた。
1536年、京都で勢力を伸ばした法華衆に対し、比叡山延暦寺・六角定頼と連合して壊滅させた(天文法華の乱)。
同年に細川高国の残党を率いて敵対していた高国の弟・晴国も討ち取る。
、1539年、上洛した三好長慶が同族の三好政長と河内十七箇所を巡って争い、晴元は政長に肩入れして長慶と対立。
1541年木沢長政が造反し、政長の排除を訴えられた時も拒絶、京都郊外の岩倉へ逃れる。
翌1542年、摂津芥川山城へ移り反撃、長慶・政長と河内国の遊佐長教による活躍で長政を討ち取る(太平寺の戦い)。
1543年、亡き細川高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて和泉国で挙兵。
1545年には山城国で高国派の細川元治・元全・国慶3代と丹波国の内藤国貞らが挙兵、三好長慶・政長ら諸軍勢を率いて反乱を鎮圧した。
1546年に氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助で再挙兵、長慶の動きを封じて摂津国の殆どを奪い取った。
上野国慶も再挙兵して京都へ入ったため晴元は丹波国へ逃亡する。
1547年、摂津の細川氏綱方を打ち破り摂津を平定、長慶が細川氏綱・遊佐長教らに舎利寺の戦いで勝利、義晴とも定頼の協力で和睦して氏綱の反乱を鎮圧した。
1548年、かつて細川氏綱に寝返った摂津国人・池田信正を切腹させたことにより三好長慶と他の摂津国人衆の離反を招く。
氏綱側へ転属した長慶に挙兵され、摂津榎並城を攻囲される。江口の戦いで三好政長・高畠長直ら多くの配下を失い、将軍・義輝らと共に近江国坂本まで逃れた。
1550年、足利義晴が死去してからは義輝を擁立し、香西元成や三好政勝など晴元党の残党を率いて東山の中尾城と丹波国を拠点に京都奪回を試みたが失敗し、中尾城を破棄(中尾城の戦い)。
1551年、丹波衆を率いた元成・政勝が長慶軍に敗れる(相国寺の戦い)。
1552年、長慶と義輝が和睦して義輝が上洛、氏綱が細川氏当主となり嫡男の聡明丸(後の昭元)が長慶の人質になる。
晴元は和睦を認めず出家し、若狭守護の武田信豊を頼り若狭国へ下向する。
1553年に義輝と三好長慶が決別すると、再度義輝と共に長慶と交戦した。 しかし、義輝方の霊山城が三好軍に落とされると、義輝と共に近江国朽木へ逃亡した。
丹波国では香西元成・三好政勝らが波多野元秀と手を結び長慶派の内藤国貞を討ち取ったが、国貞の養子で長慶の部将・松永長頼に反撃されて丹波の殆どを平定され、1557年頃に元秀が長頼に没落させられ丹波は三好領国となった。
播磨国でも元成が明石氏と結んだが、1555年に明石氏が三好軍に攻撃され降伏。
1558年、上洛を図り将軍山城で三好軍と交戦するも(北白川の戦い)、六角義賢の仲介で義輝と三好長慶が再び和睦を結ぶと坂本に止まる。
1561年、隠居の晴元は次男の細川晴之を細川家の当主として、六角・畠山軍と共に近江に反三好の挙兵。しかし、敗退し晴之は戦死、三好長慶と和睦するも、摂津の普門寺城に幽閉された。
1563年、死去。
家臣:湯浅国氏、古津元幸、高畠長信
(6)細川氏綱
(-1564)
細川尹賢の子。
高国の死後、尹賢は堺公方側へ服属するも晴元の命で殺される。
たが、堺公方派に内紛が勃発。
晴元と一向一揆の対立に乗じて、高国派の残党に高国の弟の晴国が擁立され、石山本願寺と結んで晴元に付いた法華一揆と丹波国で戦ったが、1536年に敗死した(享禄・天文の乱)。和泉国にいた氏綱が何も動きを見せていないのは、高国の後継者として、晴国との緊張関係があったからともいわれる。
1538年、細川上野玄蕃家の細川国慶と共に、和泉国で最初の挙兵。
1542年に再度の挙兵。
1547年に舎利寺の戦いなどで晴元方の反撃を受け、京を占拠していた国慶も戦死したため失敗に終わる。
しかし、1549年に三好長慶が畠山政長を江口の戦いで討ち取り、晴元が京を放棄、近江国へと逃れた。
1552年には長慶と共に上洛し、右京大夫に任じられ、細川京兆家の家督となる。この年に山城国淀城に入る。
1564年、淀城で没。
(7)細川昭元
(-1592)
細川晴元の子。
子に 元勝。
正室:お犬の方(織田信長妹)
細川京兆家19代当主。
1552年、父が三好長慶と一時的に和睦した際に人質となる。
1561年、実弟の細川晴之が六角・畠山軍に擁立され、将軍・足利義輝の命を受け近江国に於いて反三好の兵を挙げるが戦死した(将軍地蔵山の戦い)。
1565年、永禄の変。
1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、三人衆の筆頭である三好長逸と共に摂津芥川山城に籠城。阿波国へ逃亡。
1570年、野田城・福島城の戦いにおいて三人衆に加勢して織田軍と対峙した。同年に三人衆と信長が和睦すると、1571年、上洛、義昭に対し臣下の礼を取る。
1592年に病没。
(8)細川元勝
(1581-1628)
昭元の子。母は織田信長の妹お犬の方。
子に義元、元明。
細川京兆家20代当主。
豊臣秀頼に近侍し、小姓頭として5,000石を拝していた。
大坂の陣では豊臣方として戦うが、豊臣氏は敗北。元勝は落ち延びた。
親族による徳川家への助命嘆願により赦される。
姉妹の円光院が秋田実季に嫁いでいた縁で常陸国宍戸藩の秋田氏に一族待遇で迎えられた。
[二]細川高国の一族
細川稙国
(1507-1525)
高国の子。
1525年、父より家督を受け継ぐも、同年病没。
細川晴国
(1516-1636)
[4]細川典厩家
細川京兆家の分家の一つ。細川満元の三男持賢を祖とする。細川氏の中では京兆家に次いで、第二の家格にある。守護として分国を有することはなく、京兆家において内衆を束ねる役割を果たしていたが、後に摂津国西成郡の分郡守護を務めた。右馬頭・右馬助の唐名にちなんで典厩家と呼ばれる。
①細川持賢(1403-1468)
②細川政国(1428-1495)
③細川政賢(?-1511)
細川澄賢(?-1521)政賢の子。(澄元方の)典厩家の後継者
細川晴賢(?-?)澄賢の子。
④細川尹賢(?-1531)
細川氏綱(1513‐1564)細川高国の養子となる。細川京兆家18代当主
⑤細川藤賢(1517‐1590)
⑥細川元賢
⑦細川重賢
⑧細川乗賢
(1)細川持賢
(1403-1468)
(2)細川政国
(1428-1495)
(3)細川政賢
(?-1511)
政国の子(または養子)。
子に澄賢、細川高国室。養子に尹賢。
細川典厩家3代当主。摂津国中嶋郡の分郡守護。
1495年、父が死去した為に家督を継ぎ、分家の野州家の細川政春と共に本家である京兆家当主・政元を助ける。
1507年の政元暗殺に際しては、政元の養子の1人である細川高国、淡路守護家の細川尚春と共に政元を暗殺した香西元長・薬師寺長忠、彼らが擁立した細川澄之を襲撃した(永正の錯乱)。
政元の養子の1人である細川澄元を京兆家当主に迎えた。
1508年、高国が前将軍・足利義尹(義材・義稙)を迎えると、京都を離れて澄元のもとに参じる。
1511年、船岡山合戦で戦死。
(4)細川尹賢
(?-1531)
細川春倶の子。細川政賢の養子。
子に氏綱、藤賢、勝国。
細川典厩家4代当主。
養父、京都を離れて澄元のもとに下った際、高国の下に残る。
1526年、讒言によって高国の重臣・香西元盛を殺させた。
これをきっかけに波多野元清や柳本賢治らが挙兵し、さらに阿波国から細川晴元・三好元長らも挙兵してしまう。
1527年、三好政長と柳本賢治の連合軍に敗れ(桂川原の戦い)、高国や12代将軍・足利義晴と共に近江国に逃走した。
1531年、尹賢は落ち目になった高国を見限って晴元側に寝返り、高国も戦死する(大物崩れ)。直後、晴元と不和になり、木沢長政によって摂津で殺害された。
(5)細川藤賢
(1517-1590)
尹賢の子。
子に藤次、元賢。
兄・氏綱が高国の養子となり、京兆家の当主となったため、細川典厩家5代当主となる。
1565年、将軍義輝が三好三人衆らに殺害されると(永禄の変)、松永久秀に属した。
1573年、義昭が信長討伐の兵を挙げようとした際には、これを諌めた。しかし、聞き入れられずに義昭が挙兵するとこれに従う。その後は織田軍に城を包囲され降伏。義昭は京都より追放されたが、藤賢は信長に許され近江国の坂本城を任された。
1590年、没。
(6)澄元方の典厩家の後継者
細川澄賢
(-1521)
細川政賢の子
1506年に元服する。1511年の船岡山合戦で政賢が戦死すると(澄元方の)典厩家の後継者となる。
細川晴賢
()
細川澄賢の子。
伊丹氏、池田氏、茨木氏、近江和田氏、高山氏、有馬氏、塩川氏
[5]三好氏
三好氏は清和源氏(河内源氏)流信濃源氏の一族・小笠原氏の庶流で、鎌倉時代の承久の乱で佐々木氏に代わって阿波守護となった阿波小笠原氏の末裔。阿波三好郡を本拠にしたことから三好氏を称した。
阿波守護家細川氏の被官、阿波守護代
小笠原貞宗(信濃小笠原氏当主・信濃守護)
小笠原政長(信濃小笠原氏・信濃守護)
小笠原長興
①義長
②長之
③之長
④元長
⑤長慶
⑥義継
(1)三好義長
(ー1386)
小笠原長興の子。
子に長之。
阿波三好郡に住んで三好氏を称した。
(2)三好長之
()
三好義長の嫡男。
子に之長、長尚、一秀。
阿波守護・細川成之の家臣として三好郡、美馬郡、麻植郡の守護代を務めた。
(3)三好之長
(1458-1520)
三好長之の嫡男
子に 長秀、頼澄、芥川長光、長則、久米義広
阿波守護・細川氏分家である讃州家の細川成之に仕えた。
1467年、応仁の乱では成之が本家・京兆家の当主であった細川勝元を助けるために京都に出陣した際、之長も従って初陣を飾った。
1471年、之長は突如主家である讃州家に反抗して祖山に籠るが、阿波に在国していた成之の嫡男・政之や一宮長光に攻められて1473年に降伏。
1488年に政之が早世した後、その弟の義春に仕えるも、1494年に義春も早世すると義春の長男である之持が阿波守護となり、祖父・成之がそれを補佐する体制がとられた。また、之持の弟・澄元は実子が無かった京兆家・政元の養子に迎えられた。之長は澄元の先陣として入洛。之長は以後は政元の命を受けて数多くの戦いに参加することになる。
1507年、政元が香西元長や薬師寺長忠によって暗殺され、之長は元長らによって澄元と共に襲撃された。之長は澄元を守って近江の青地城に逃れ、甲賀郡の山中為俊を頼って落ち延びた(永正の錯乱)。
元長らは澄之を京兆家の当主に擁立したが、細川高国や尚春、政賢らの反撃を受けて討たれた。
之長は近江から帰洛し、澄元と共に11代将軍足利義澄を擁立して権勢を掌握した。
京の内乱を知った10代将軍足利義稙は大内義興に擁立されて上洛を開始する。細川高国は大内方に寝返る。摂津・丹波の国衆である伊丹元扶や内藤貞正、香川元綱、香西国忠らも上洛に呼応して挙兵したため、之長は澄元を連れて甲賀の山中為俊を頼って落ち延びた。義澄も近江へ逃亡、高国は義稙を奉じた義興と畠山尚順と合流して政権奪取を果たし、管領と京兆家当主に任じられた。
1509年之長は東山の如意ヶ嶽に布陣したが、高国や義興の反撃を受けて敗北し、嫡男の長秀と次男の頼澄は伊勢山田において高国の婿である北畠材親に攻められて自殺した(如意ヶ嶽の戦い)。この敗戦で之長は澄元と共に潜行して阿波に帰国、反撃の準備を進めた。
1511年、澄元は義澄と連携して堺に上陸。細川一族の政賢と尚春、播磨の赤松義村などを義澄方として味方に付けたため、和泉深井城を攻められた高国軍は政賢軍に敗北(深井城の合戦)、赤松軍と合流した尚春軍が高国の家臣・瓦林正頼が守る摂津鷹尾城を攻め落とした(芦屋河原の合戦)。
そして政賢らが上洛して義興・高国らは丹波へ逃れ、京都は澄元方の手に入った。しかし、義興・高国らは丹波から京都へ東進、北部の船岡山で義澄方と義稙方は決戦となった。直前に将軍・義澄が死去したためもあって、義澄方の戦況は圧倒的に不利で、政賢は戦死し澄元は摂津に敗走した(船岡山合戦)。
戦後、細川成之が病死、翌1512年には之持までもが死去した。
1518年、義興が周防に帰国し高国政権が弱体化、これを好機と見た之長は翌1519年に高国方となっていた尚春を殺害した。
同年、摂津有馬郡の池田三郎五郎(信正)が澄元に味方して下田中城に立て籠もり、高国方の瓦林正頼が攻撃をかけたが敗れた。この動きを知った之長は澄元と共に兵庫に上陸し、正頼が籠もる摂津越水城を包囲した(田中城の戦い)。
1520年、高国方の内藤貞正と伊丹国扶による越水城の救援が敗北して失敗し、城は陥落。
高国は近江の坂本に逃れたが、足利澄元は澄元と通じ、京都に残った。
後、之長は上洛、澄元は義稙から京兆家の家督相続を許された。
しかし、近江に逃れていた高国が六角定頼や蒲生定秀、朝倉氏や土岐氏などの大軍を率いて上洛、等持院の東南で行なわれた合戦(等持院の戦い)において、三好軍は大敗、之長に同行していた海部氏は戦場からの脱出に成功したものの、之長は子の芥川長光や三好長則、甥の新五郎らと共に曇華院を頼って身を隠した。
高国は院に引渡しを要求するも拒絶されたため之長らの生命を保証する事を条件にした。しかし、これは高国の計略であり、降伏した同日に之長は新五郎と共に斬首された。之長の2人の子息(芥川長光、長則)も翌日に死罪に処された。
伊丹城で待機していた澄元は之長の敗死を受けて阿波へ戻ったが、病身であったためやがて亡くなり子の晴元が継承した。
(4)三好長秀
(1479-1509)
三好之長の子。
子に元長、康長
(5)三好元長
(1501-1532)
三好長秀の子。
子に 長慶、実休、安宅冬康、十河一存、野口冬長、小笠原成助室、小笠原元武室、大西頼武室、芥川孫十郎室。
細川晴元に仕える。
1520年、先代・之長は細川高国に敗れた際に処刑、されており、嫡子長秀は先に戦死していた。そのため、元長が家督を相続。
主君・細川澄元の遺児・六郎(後の晴元)と共に阿波に逃れていた。
1526年、細川高国が細川尹賢の讒言で香西元盛を誅殺。これに反発した元盛の兄弟・波多野元清と柳本賢治が丹波国で造反し、高国はその鎮圧に失敗する。
これを好機と捉えた元長たちは、足利義維を擁して、阿波国で挙兵。高国に造反した波多野軍との合流を果たすと、1527年には高国と義晴の連合軍を撃破(桂川原の戦い)。高国たちを近江国へ追放した。
堺に堺公方を樹立。
1528年山城守護代に任じられたが、翌1529年には柳本賢治・松井宗信らと険悪な状態となったため、阿波国へと戻る。
細川高国は伊勢国の北畠晴具、播磨守護代・浦上村宗の加勢を得て、中央進出の機会を伺っていた。播磨国へ迎撃に派遣された柳本賢治が1530年急死(暗殺とも)、高国と村宗の連合軍に摂津への侵攻を許すなど、堺公方派は戦局が悪くなり、薬師寺国盛が高国軍に降伏するなど、窮地に追い込まれつつあった。
1531年、元長は復帰するも、堺公方派である木沢長政が京の防備を放棄し、撤退した為、高国軍の京都奪還を許してしまう。
元長は高国軍の先鋒に攻撃を仕掛け、戦局を膠着状態へと持ち込む(中嶋の戦い)。やがて、高国軍の増援として現れた赤松政祐の裏切りにより高国軍は壊滅した(大物崩れ)。元長は畠山義堯と共に反対したが、かえって大きな溝をつくってしまう。
元長は木沢長政の下克上を警戒する畠山義堯と結託。長政の居城・飯盛山城を攻囲した。
ここで細川晴元や木沢長政達は、かねてからの一向宗と法華宗の宗教対立を利用した。山科本願寺(本願寺10世・証如)から了承を得て、一揆軍に支援を仰いだ。一向宗にとっての目的はは仏敵討滅、すなわち、一向宗に敵対する法華宗の庇護者であった元長の討滅だった。
10万ともいわれる一揆軍を前に畠山義堯は自害。元長も堺の顕本寺(法華宗)まで逃走した。元長は足利義維を逃がすのが精一杯であり、ここで自害して果てた(天文の錯乱)。
(5)三好長慶
(1522-1564)
三好元長の嫡男。幼名:千熊丸。
義興、養子:義継
父・元長は三好政長・木沢長政らの策謀で蜂起した一向一揆によって、自刃に追い込まれた。当時10歳の長慶は両親と共に堺にいたが、母に連れられ阿波に逃れた。
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1561年、弟の十河一存が急死。その間隙をついて畠山高政と六角義賢が通じて、細川晴元の次男・晴之を盟主にすえ挙兵し、南北から三好家に攻撃をしかけた。この戦いは1562年まで続き、三好実休が高政に敗れて戦死した(久米田の戦い)。
しかし、京都では義興と松永久秀が三好軍を率いて善戦し、一時的に京都を六角軍に奪われながらも、義興・久秀らは安宅冬康ら三好一族の大軍を擁して反抗に転じ、教興寺の戦いで畠山軍に大勝して畠山高政を再度追放、河内を再平定し、六角軍は三好家と和睦して退京した。
1562年には幕府の政所執事である伊勢貞孝が畠山・六角の両家と通じて京都で挙兵、松永久秀・三好義興の率いる三好軍によって貞孝は討たれた。
1563年には和泉で根来衆と三好軍が激突し、三好康長との間で和談が成立。大和でも久秀と多武峯宗徒の衝突があり、また細川晴元の残党による反乱が起こるなど、反三好の動きが顕著になってきた。
1563年には嫡男・義興が22歳で早世、唯一の嗣子を失った長慶は十河一存の息子、重存(義継)を養子に迎えた。彼の生母が関白を務めた九条稙通の娘でありその血筋の良さが決め手であったとみられる。同年、名目上の主君であった細川氏綱も病死。
1564年、長慶は弟の安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出して誅殺した。松永久秀の讒言を信じての行為であったとされているが、この頃の長慶は相次ぐ親族や周囲の人物らの死で心身が異常を来たして病になり、思慮を失っていた。冬康を殺害した後に久秀の讒言を知って後悔し、病がさらに重くなってしまったという(ただし、久秀の讒言等は後世の軍記物の記述)。
そのまま長慶は飯盛山城で病死した。
(5)三好義興
(6)三好義継
[二]一族
(1)長之の子
三好長尚
(―1540)
長之の子。官位:越後守
子に長久、長家、政長。
1507年に兄・三好之長とともに細川澄元に従い四国から上洛し、大和国に侵攻する。
1513年、細川高国の被官として丹波国山国荘の代官となる。
1526年、摂津国長洲荘の代官に任じられる。
三好長久
(-1520)
長尚の長男。
1520年5月、等持院の戦いで敗北。伯父・之長と共に生命の保証を条件にして降伏するが高国に騙され、同日のうちに伯父と共に知恩寺で処刑される。
三好長家
()
長尚の二男。
1527年2月の桂川合戦に参加。その活躍は樊噲・張良に並ぶほどであったと称賛された。
三好政長
(1508-1549)
長尚の三男。
子に 宗渭、為三、娘(池田信正室)。
父・長尚は細川高国派であり、長秀も長尚から基盤を引き継いだと考えられる。
1526年12月、高国が自ら内紛を招いた好機に乗じ、父や次兄・長家と共に細川晴元方の先鋒として摂津堀城を占拠した。1527年、北上して摂津と山城の境目に当たる山崎で反高国派の柳本賢治と合流、2月13日の桂川原の戦いで高国に勝利して上洛を果たす。
宗家・三好元長が足利義維と細川晴元を擁立して堺に上陸、堺公方府を誕生させるとその中枢に入った。
しかし元長とは仲が悪く、賢治と組んで元長と対立する。
長秀は主君の晴元に讒言して元長を陥れた。1528年に元長が高国と将軍・足利義晴との和睦に動くと賢治と共に反対、晴元を説得し、元長を窮地に立たせた。また、賢治が大和・河内・摂津などで高国派を征討しながら元長派の国人を排除をした時も協力した。
1529年、失望した元長が阿波へ帰国すると代わりに阿波勢を率いる立場となる。しかし、1530年、高国が播磨から挙兵して賢治が暗殺されると晴元と相談して元長を復帰させた。元長は高国軍を迎え撃ち、1531年、中嶋の戦い・大物崩れで高国を討ち取る。
高国敗死後、元長が台頭すると木沢長政・茨木長隆らと結託して再び元長と対立、1532年、長政が居城の河内飯盛山城を元長・畠山義堯軍に包囲されると、晴元に進言して一向一揆を起こさせて義堯・元長を討った(天文の錯乱)。以後は長政・長隆らと共に細川政権の重鎮となり、摂津榎並城主として室町幕府料所河内十七箇所を元長に代わって代官として統治した。
1538年、山城下郡へ段銭賦課、京都支配に乗り出した。しかし、これに対し、三好元長の嫡男・長慶が反発。幕府も元長の段銭賦課を快く思っていなかったため、1539年4月、丹波国に蟄居する。
1539年閏6月、長慶が十七箇所の返還を掲げ軍を率いて上洛すると近江の六角定頼と将軍義晴の調停で長慶と和睦、長慶は細川政権下で重用されるようになる。
■■■■
1548年、江口の戦いで討死。
茶人としても著名で、天下三肩衝の1つ新田肩衝を所有した。また、後に今川義元や織田信長が所持した名刀左文字は、元々は政長(宗三)の所有物だったので宗三左文字とも呼ばれる。政長(宗三)の主君である細川晴元の正室(左大臣三条公頼の娘)の妹である三条の方が、信玄の継室として嫁いだことをきっかけに政長から甲斐守護・武田信虎(武田信玄の父)へ贈られた。
三好為三
()
三好政長の子。
三好可正
(1568-1634)
為三の子
三好一秀
(-1532)
長之の子。
畠山義堯から要請を受けた一秀は長政の拠る飯盛山城を攻める
(2)之長の子
三好頼澄
(-1509)
三好之長の二男。
子に政成。
細川澄元に仕えた。1509年6月、京都奪還のため父に従って細川高国・大内義興らと戦うが敗れて兄の長秀と共に伊勢山田に敗走した(如意ヶ嶽の戦い)。だが、ここで高国と縁戚関係にあった北畠材親の攻撃を受けて長秀と共に自害に追い込まれた。
三好長光
(-1520)
三好之長の三男。
子に長逸。
1520年5月、等持院の戦いで敗北。長則と共に投降し、処刑された。
芥川長則
(-1520)
三好之長の四男。阿波の国人・芥川氏の養子。
1520年5月、等持院の戦いで敗北。長光と共に投降し、処刑された。
久米義広
()
阿波国芝原城主。三百貫。
子に 義昌、三好実休。
三好政成
()
三好政康
()
(3)三好長秀の子
三好康長
()
法号:咲岩。
子に康俊。
阿波岩倉城主、河内高屋城主。
三好康俊
三好俊永
(4)三好元長の子
三好之虎(実休)
(1527-1562)
元長の次男。別名:之相。
母は慶春院。
子に 長治、十河存保、安宅神五郎、新開実綱室
晴元の弟で阿波細川家の当主・細川持隆に仕えた。
1544年、兄に従って京都に入る。
1553年、主・細川持隆を自害に追い込み、その子・細川真之を擁立した。持隆派であった久米義広、佐野丹波らが反抗したが、実休はこれを打ち破り(鑓場の戦い)、阿波細川家の実権を完全に掌握した。
1554年から1555年の播磨遠征、1558年の北白川の戦いでは四国勢を率いて参戦。1560年に兄と共に河内守護・畠山高政や安見宗房らと戦い大勝し、彼らを追放した後の河内の守護を任された。
1562年、久米田の戦いで戦死した。
安宅冬康
(-1564)
元長の三男。
安宅氏へ養子に入り淡路水軍を統率し、三好政権を支えた。
1558年の北白川の戦い、1562年3月の畠山高政との戦い(久米田の戦い)に従軍、次兄の実休が敗死すると冬康は阿波に撤退して再起を図り、6月には再び高政と河内で戦い勝利している(教興寺の戦い)。
1564年5月に長慶の居城・飯盛山城に呼び出されて自害させられた。
十河一存
(-1561)
元長の四男。
三好義継()、松浦光、存之。養子に存保 (三好実休の子)。
野口冬長
(-1553)
元長の五男。
淡路国・志知を本拠地とする野口氏の養子に入って家督を継承。
一次史料でその存在は確認できない。
三好長治
(-1577)
実休の子。幼名:千鶴丸。官位:阿波守。
母は小少将(岡本牧西の娘)。
1562年、父・実休が久米田の戦いで戦死したため、家督を相続する。
幼少のため、重臣の篠原長房の補佐を受けた。
1572年、不仲となった篠原長房を、異父兄である守護の細川真之と協力して攻め滅ぼした(上桜城の戦い)。
1576年、長治は出奔した、真之を討つため、那東郡荒田野へ出陣したが、一宮成相や重臣の伊沢越前守が離反したため敗れた。その後、篠原長秀の居城・今切城に籠もったが一宮勢の攻撃により追われ、同年12月、自害した。
十河存保
(1554-)
実休の二男。
子に千松丸、存英、坂東保長。
1561年の叔父で讃岐国十河城主の十河一存の急死、1563年の長慶の嫡子で三好家当主の三好義興の早世にともない、一存の嫡子・重存(のちの三好義継)が三好家を継ぐこととなったため、代わって存保が一存の養子という形で十河家を継いだ(義継の実弟・十河存之は庶子であったため家督を継げず、存保の家老となった)。
安宅 神五郎
安宅信康
()
安宅冬康の嫡男。ただし一次史料で確認できる諱は康。通称:神太郎。
淡路国洲本・由良城主。
1564年、父が長慶に殺されたため、家督を継ぐ。
1569年9月、堺南庄を与えられて、義昭・信長方に服属する。
1570年2月、三好義継と松永久秀の援軍を受け、三人衆・阿波三好家方を淡路で破った。
安宅清康
()
安宅冬康の二男。
1578年、兄・安宅信康が死去したために家督を継ぐ。
ただし一次資料で確認されていない。現在の研究では冬康の嫡男・神太郎が継ぎ、その後は、三好実休の子・神五郎が継承したとみられている。
十河存之
()
十河一存の庶子。
(4)一族
三好連盛(三好伊賀守)
三好長直 (椋橋城主)一族
三好長房 (同上)長直の子
三好房一 (同上)長房の子
三好長朝
三好盛政
三好政保
三好通清
[三]三好三人衆
三好長逸
(1516-)
三好長光の子。通称:孫四郎、初名を長縁という。法号:宗功。
官位:日向守
子に長虎。
三好三人衆の1人で、その筆頭格であった。
1520年、祖父・之長と父・長光が等持院の戦いで戦死。
三好政生(宗渭)
()
三好政長の子。
一般には政康と呼ばれているが、『細川両家記』の誤謬が伝播したものと考えられる。
岩成友通
(-1573)
(2)一族
三好長虎
[6]細川氏の家臣
香川氏
香川元景 1498~
香川之景 1519~
仁木氏
仁木義治 1565~
香西氏
香西元成 1518~ 勝賀城主
香西元長
香川元景
薬師寺氏
(薬師寺元一) 1477~1504 摂津守護代。
(薬師寺国長) ~ 摂津守護代。
(薬師寺国盛) ~ 摂津守護代。
(薬師寺長忠) ~1507 摂津守護代。
薬師寺元長
伊丹氏
(伊丹親永) ??~??
(伊丹親興) ??~1574 摂津の国人領主。伊丹城主。
(伊丹忠親) 1552~1600
上原氏
上原元秀
上原賢家
安富氏
安富元家
波々伯部氏
波々伯部宗量
鴨井氏
鴨井頼兼
赤沢氏
赤沢朝経
赤沢長経
庄氏
庄元資
秋庭氏
秋庭元重
上野氏
上野勝益
長塩氏
長塩元親
安威氏(摂津国衆)
福井氏(摂津国衆)
太田氏(摂津国衆)
高槻氏(摂津国衆)
[7]三好氏の家臣
羽床資載 1533~ 羽床城主
篠原長房 1513~ 三好家臣
小笠原成助 1528~ 一宮城主
津田重久 1549~ 三好家臣
松永久秀 1511~ 三好家家宰。
松永久通 1538~ 久秀の嫡男。
内藤如安 1549~ 久秀の甥。内藤国貞の養子。
高山友照 1527~ 松永家家臣。
高山重友 1553~ 友照の子。
大西頼武 1519~ 阿波の国人領主。白地城主。
大西頼晴 1544~ 頼武の子。
七条兼仲 1548~ 阿波の国人領主。七条城主
寒川元隣 1541~ 讃岐の国人領主
高原次利 1532~ 讃岐の国人領主
十河存春 1510~ 讃岐の国人領主
阿波衆→阿波編へ
讃岐衆→讃岐編へ
大和衆→大和編へ
丹波衆→丹波編へ
丹波衆→丹波編へ
播磨衆→播磨編へ
(1)摂津衆
芥川氏(芥川山城主)
芥川孫十郎
多田氏(上津城主)
多田春正
松山氏
松山重治
十河氏(新堀城主)
十河一行
香西氏(新堀城主)
香西長信
池田氏(摂津人衆/池田城主)
池田長正(1519-)
池田勝正(1539-)
池田知正(1544-)
中川氏(江口城主)池田家臣
中川重清
中川清秀(1542-)茨木城主
伊丹氏(摂津人衆/伊丹城主)
伊丹親興
入江氏(摂津人衆/高槻城主)
入江元秀
入江春景
茨木氏(摂津人衆/茨木城主)
茨木重朝
三宅氏(摂津人衆/三宅城主)
三宅国村
三宅村良
塩川氏(一庫城主)
塩川政年
塩川国満
塩川長満
能勢氏(能勢城主)
能勢頼幸
能勢頼道
(2)河内衆
三箇氏
三箇頼照
若江三人衆
多羅尾綱知
野間康久(長前)
池田教正
若江八人衆
大場土佐
大山伯耆
高野越中
藤堂良政
舞兵庫
牧野成里
森九兵衛
安井喜内
[8]石山本願寺
[一]浄土真宗本願寺・法主
本願寺蓮如(1415-1499)第八世法主。本願寺中興の祖。
本願寺実如(1558-1525)第九世法主。蓮如の五男。別名:光兼
本願寺証如(1516-1554)第十世法主。実如の孫。別名:光教
本願寺顕如(1543-)第十一世法主。別名:光佐
本願寺教如()浄土真宗東本願寺、第一世法主。顕如の長男。別名:光寿
本願寺准如()浄土真宗本願寺、第十二世法主。顕如の三男。別名:光昭
(2)一族
本願寺蓮淳
[二]住持
願証寺は伊勢国桑名郡長島にあった浄土真宗の寺院。
願正寺実恵()願証寺2世。蓮淳の子。
願正寺証恵(1516-1564)願証寺3世。
願正寺証意 (1537-1571)願証寺4世。証恵の子
願正寺顕忍 (?-1574)証意の子
興正寺証秀(経尭)()興正寺第16世門主。
興正寺顕尊(1564-1599)興正寺第17世門主。 顕如の次男。
順興寺実従(1498-1564)順興寺住持。本願寺蓮如の十三男。
願得寺実悟(1492-1584)河内願得寺住持。本願寺蓮如の十男。
願得寺顕悟()
本泉寺蓮悟()賀州三ヶ寺の一、加賀本泉寺住持。
松岡寺蓮綱()
松岡寺蓮慶()賀州三ヶ寺の一、加賀松岡寺住持。
光教寺蓮誓()
光教寺顕誓(1499-1570)賀州三ヶ寺の一、加賀光教寺住持。
超勝寺実顕(1488-1542)越前超勝寺第5世住持。
超勝寺実照
瑞泉寺顕秀() ~ 越中「瑞泉寺」第七世。
勝興寺顕称() ~ 越中「勝興寺」第十世。
西光寺真敬()
錦織寺勝慧
本覚寺蓮恵
性応寺了寂
[三]坊官
下間氏
■宗家
下間頼善()
下間頼玄()下間頼善の長男。
下間頼秀(?-1538)頼玄の子。
下間頼盛(?-1539)頼玄の子。
下間頼慶(1476-1541) 下間頼善の二男
下間光頼()下間頼慶の長男
下間頼総()光頼の子
下間頼芸()光頼の子
下間真頼(1513-1552)下間頼慶の二男
下間頼竜(1552-1609)真頼の子
下間融慶()下間頼慶の三男
下間頼純(1554-1597)融慶の子
下間頼賑()融慶の子
■刑部家
下間頼永()下間頼善の子
下間頼包()
下間頼康()
下間頼廉 (1537-1626)頼康の子
下間頼亮()
下間宗清()
下間仲玄()
■少進家
下間光宗()下間頼善の子
下間頼清()
下間頼照()
下間仲考()
■その他
下間頼次()
下間頼言(-1556)頼次の子
下間頼良(1525-1565)頼次の子
下間頼宗()頼次の弟
下間頼旦(?-1574)
下間頼成()
七里氏
七里頼周
杉浦氏
杉浦玄任
下間頼秀
(?-1538)
本願寺の坊官。頼玄の長男。
加賀の賀州三ヶ寺(松岡寺・光教寺・本泉寺)と対立、1531年の大小一揆で大一揆に属して賀州三ヶ寺ら小一揆を壊滅させた。加賀は超勝寺が支配することになり、頼秀も弟の頼盛と共に加賀で勢力を振るう。
天文の錯乱で山科本願寺が焼け落ち、証如が石山本願寺に移ると畿内へ戻る。しかし、1535年11月、証如が晴元と和平を結ぶと、主戦派として失脚。頼盛と共に本願寺を退去した。
1538年3月、近江で証如の刺客に暗殺された
下間頼盛
(-1539)
本願寺の坊官。頼玄の五男。
兄が暗殺された後、堺で証如の刺客に暗殺された。
下間頼慶
(1476-1541)
本願寺の坊官。下間頼善の子。
子に光頼、真頼、融慶
下間光頼
()
頼慶の子。
子に頼総、頼芸、下間頼廉室、下間仲孝室
下間真頼
(1513-1552)
頼慶の子。
子に頼竜。
下間頼竜
(1552-1609)
真頼の子
子に池田重利ほか
下間頼言
(-1556)
頼次の子
下間頼良
(1525-1565)
頼次の子
[四]その他家臣
服部友貞()
徳田重清()加賀の豪族。
鈴木重泰()
柴山宗綱
宇野主水
窪田経忠
粟津元隅
【9】城郭
石山御坊
東成郡()
野崎城
榎並城 (十七箇所城)
高槻城(入江城)
島上郡(平城)
芥川城
島上郡()
茨木城
池田城
豊島郡()
有岡城(伊丹城 )
川辺郡()
越水城
武庫郡()
1516年、瓦林城主の瓦林正頼により築城。
1539年8月、三好長慶が居城としている。
花隈城
八部郡()
椋橋城
三田城
有馬郡()
上津城(上津茶臼山城)
有馬郡()
新堀城
三宅城
一庫城
能勢城