ジョーカー:フォリ・ア・ドゥを見てきました
ジョーカー:フォリ・ア・ドゥを見てきました。
ジョーカー:フォリ・ア・ドゥと言う映画は以前話題となった狂気の映画ジョーカーの続編であり、ハーレクインが登場すると言う事でもさらに話題となった上予告版が非常に気になるものとして描かれていた。
前作の狂気から、どのような新たな脅威が描かれるのかということで、期待して見に行った人も多いだろう
海外で公開された時は、レビューは意外と酷評が多かった
ネタバレというほどでもないたまたまレビューを読んでしまい、あぁなるほどそんな感じなんだなぁと言う気持ちで、いちど見に行ったわけだが、非常に内容は衝撃的であり、自分の心の奥深いところをエグられたような感じでした
レビューの内容も今なら納得できるし酷評される理由もよくわかった。
すごく面白いのかと言われれば、そうでもないような気もするし、他人にお勧めしたいかと言われれば、お勧めしたくない。
でも自分の中ではとても大切な映画になった
この作品を映画館の中で見て、久しぶりに美しい映画というものを認識した気がする
ある程度ネタバレを避けるためにボカした表現をすると、これはアーサーの物語なのだ。
ジョーカーとして、祭り上げられ熱狂的なファン達に囲まれ自分を愛してくれる女性が現れる
そんな周りが求めるジョーカーと、アーサー本人が少しずつ少しずつ食い違ってくる。
裁判所のシーンで、ジョーカーではないと言ってしまうアーサーにがっかりしているような若者達やヒロインは、あれはまさしく我々の姿だったのではないだろうか
1人の人間を祭り上げ、自分たちの狂気に酔い、意図通りに動かなければがっかりする。
まさしく人間の姿を我々は見ていたのではないだろうか。
ヒロインの造形はすごかった。
嘘をついても好きな人と近づきになり関係を持つ。
それは、憧れのジョーカーとの関係であり、冴えないおじさんとの関係ではないのだ。彼女にアーサーは見えていない。
うまく言えないけどすごく嫌なかかれ方をした女性、と言う感じがしてとても恐ろしく美しく感じた。
作中で誰もがアーサーと言う人間に期待してしまい、自分の狂気性みたいなものを上乗せし破壊や狂気を期待しジョーカーに酔う暴徒たち、それは劇場で彼の大暴れを期待して期待して待ってた僕たちと何が違うのだろうか。
そんなことを言いたかったのが今回の作品だったんじゃないだろうか。
前回までの次の瞬間、アーサーが何をするのかわからないと言ったようなハラハラするところは本作品にはあまりない。
そのかわり、歌が多い。
ヒロインとの歌だったり、アーサー本人の歌だったり。まるで彼らの心情を歌ったかのような。でも、歌と言うものは、いわゆる上ついている状態、夢を見ている状態、現実を見ていない状態の比喩表現だったんじゃないのかなと思う。
途中でアーサーの「もう歌はいい、話がしたいんだ」の言葉があまりにも悲痛で美しくて、胸の奥底がぎゅってなるようだった。
それでも歌い続ける周りやハーレクイン。
誰も自分の事は見ていない。
ジョーカーのことだけを見ているのだ。
前作のジョーカーで表現された自分だけが違うのではないかと言うアーサーがまた違う世界に取り残されてしまう。
誰も本当の自分のことなど見ていないのだ。
そして、最後のラストに突っ走る。
見た後に、大きく息を吐いた。
いや、本当にすごい映画だった。
もちろん誰かにお勧めしたいかと言われるとそうではないし、単なるジョーカーが大暴れするようなエンタメの作品かと言われると全然違うし、登場人物は、誰のどの書き位置に立つかによって、全然見え方が変わる作品であると思うので一般的にはまったくもってお勧めできないが、自分の中ではとてもとても大切な映画になったと思う。
なんやかんや6回くらい見に行ってしまった。
自分は好きになった映画や作品は何度も何度も見に行ってしまうのだが不思議なことにこれだけ何度も見ても、誰かと語り合いたい気持ちが起きないのである。
多分、この映画に関する考えや気持ちは誰とも分かち合いたくないし、誰かの思想を入れたくもないのだ。
この気持ちは、ただ自分の中だけで大切にしていたい。
そう思えた。
ただ本当に最高だった。
本当に美しかった。映画のすべての一つ一つの表現が。登場人物の生き様が。
多分、これからも何度も何度も見てしまうだろうな、と思えた映画でした。
本当にありがとうございました。