疫神(えきじん)
~1862年に出版された随筆集『宮川舎漫筆』(みやがわのやまんぴつ)からのお話です。
疫病神と出会った二つの事例を紹介しています。
なるべく優しい現代語に訳してみました~
時は、嘉永元年。
西暦でいえば1848年。
あの四隻の黒船が、浦賀にあらわれた事件の五年前にあった話である。
この年、夏から秋にかけて疫病が大いにはやったが、一つの不思議な話がある。
名前は忘れてしまったが、浅草あたりに住む老女がいた。
あるとき、一人の女と道づれになった。
たまたま、ゆく方向が同じだったのである。
女は、物乞いのようだった。
その女は、こう言った。
「じつは、わたくしごとではありますが、この三日四日、なにも食べておりません。
空腹でかないませんので、なんともあつかましいお願いですが、一杯の米の飯を振る舞っていただけないでしょうか」
老女は、こう答えた。
「それは、お気の毒な。
あいにくいま、米の飯を食べるだけの持ちあわせはないのじゃが、蕎麦を食べるくらいは、できるじゃろう」
老女はこの女に、蕎麦を二杯食べさせた。
女は大いによろこび、礼を言ってわかれた。
しかし、老女があるき出すと、うしろからまたよびかけて、こう言った。
「なんとかお礼をいたさねばと思いましたのですが、お礼できるものがなにもないので、わたしの身の上をお話しいたしましょう。
わたしはじつは、疫病神なのです。
もし疫病をわずらったときは、すぐドジョウを食べてください。
すみやかに回復するでしょう」
と、疫病神はこうおしえて去って行った。
これは、わたしの友である松原氏の話である。
これと同じような出来事が、あった。
わたしの父が若かったとき、石原町に播磨屋惣七(はりまやそうしち)というものがいた。
この人の仕事は、口入れ屋であった。
津軽のお殿さまのところへ、人足をあっせんしていた。
あるとき、両国から帰って来る途中、ひとりの男が来て声をかけた。
「いずれの方へ、ゆかれるのですか」
惣七はこたえた。
「石原の方へ帰るところである」
「では、なにとぞわたくしと一緒に行っていただけませんか。
わたくしは犬が苦手で、ともに連れ歩いてくださいませんか」
「それならば、われと一緒にゆこう」
と、惣七は言って、二人はつれ立ってあるき、石川町までやって来た。
そして、入川にある大きな武家屋敷の前で立ちどまった。
男は、頭をさげた。
「さてさて、ありがとうございます。
わたくしはこれから、このお屋敷へ参ります。
じつを申しあげますと、わたくしは疫病神なのでございます。
あなたさまへのお礼に、疫病神が入ってこない方法を申しあげます。
毎月三日に、小豆の粥をお作りなさい。
そうすれば、お家にはわたくしの仲間は一人も入ることはできないでしょう。
これを、お礼にかえて申しあげます」
こう言うと、たちまち男の姿は消えた。
この屋敷は、向坂(さきさか)という千二百石の旗本の家だった。
しかしその日から、屋敷中に疫病がひろがった。
以上の話は、わたしの父が、この播磨屋宗七から直に聞いたものである。
そのため、わたしの家でも今にいたるまで、毎月三日の日には小豆粥を炊く。
疫病神、または疫神(えきじん)というが、それを逃れた話は他にもある。
それは他のところに書いたので、ここでは省くことにした。(了)