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島根県出雲市のトオネリ神事について

私の故郷である島根県出雲市には「トオネリ」と呼ばれる神事があります。
この神事については、以前、こちらの記事で紹介したことがありますので、概要はそちらにてご参照ください。

この記事の中で、「近い将来、人手不足でこの神事は無くなってしまうかも知れない」と書いておりましたが、まさか書いた翌年に無くなることが決定するとは、思いもしませんでした。

2024年4月、町内会での議題において、「現行のトオネリ保存会での維持は難しい」として、保存会の解体が急遽宣言され、あれよあれよと今年が最後となることが決定したのです。

そこで、もう無くなってしまう我が町内の祭りについて、アーカイブのため覚えている限りのことをここに記そうと思います。

トオネリとは?

そもそも、我が町内では、毎年、神様が町内各戸を巡り回るものとされております。神様がその年にやって来る家を「トオヤ」と呼び、小さな、玉手箱サイズの神棚を預かります。これを一年間、家で丁寧に祀り、翌年、次のトオヤに引き継ぎます。
トオヤは地域班を単位として順繰りに回っており、地域班の中での話し合いによって、その年のトオヤを選出する、という慣わしです。

実際は過去何十年という積み重ねから、だいたい地域班内での順番も暗黙了解があり、人が亡くなる等の不幸が無ければ慣例に従い決まります。町内の戸数から、およそ80年に一度巡ってくるものであり、トオヤになるということは一生に一度のこととされ、ハレの儀として一族をして祝われるものです。

トオネリは、そのトオヤ引き継ぎの日に行われるいわばパレードです。
その年の新トオヤを筆頭に、先導を行う猿田彦(地域では鼻高と呼称します)、獅子舞、おかめ、ひょっとこ、番内を連れ立って、お囃子とともに町内を練り歩きます。
町内にとってはトオヤのお披露目式という認識でしょうか。今年はどこそこの家がトオヤかぁ、と直にトオネリを見て把握します。

このトオネリの起源ですが、よく分かっておりません。
確かなこととしては、戦時中に一度絶え、戦後になって復興したという経緯のみです。
私が子どもの頃は、「昔は空に向かって矢を放ち、矢が刺さった家に神が降りるとされたものの名残」と説明されましたが、そんな古風な物とも思えず、結論よく分からない、と感じております。

もともと、この神事は4月10日に行っておりました。
しかし、この日は平日であることが多く、各自の仕事の都合上、祭りを執り行うのに支障があるとして、平成元年より11月3日を祭日として行うようになったものです。

神楽舞について

トオネリ神事においては、神様に奉納するものとして神楽を舞います。
神楽と言っても、田舎神楽であり、ストーリーや神話等のモチーフがあるものではありません。
踊りと言った方が、言葉としては適切だろうと思います。(しかし、地域では神楽と呼称しておりますので本記事でも神楽と記載します)

この神楽は以下の五つの章から成ります。
 ・三楽
 ・弊串舞
 ・剣舞
 ・鈴舞
 ・早調子

演奏する楽器は以下の三つ
 ・横笛
 ・小太鼓
 ・胴(和太鼓を横に倒したような太鼓)

非常にコンパクトな編成で、4畳を舞台としてコンパクトに踊ります。
全体的にゆったりとした動きが多く、同じ島根県にある石見神楽と違って威勢の良いものではありません。(とは言っても、踊る側にとってハードなのは前回記事のとおり。)

神楽は戦火の中で継承者が絶えたため、大昔の舞は失われました。しかし、戦後復興の折、神楽が残存していた他地域(平田市)から踊りを継承し、今に伝わっております。
聞くところによると、その平田市の踊りは京都から継承したものらしく、原型という意味では昔のものそのものという訳ではないようです。

しかし、地域性なのか、時代を重ねるに連れて動きも変形し、ゆったりとした動きが多くなり、個性的な神楽になってしまったことは間違いありません。

この神楽の面白いところは、戦後復興の踊りの継承にあります。

もとより、トオネリは我が町内(上平と言います)だけでなく、隣町内(下平と言います)も同時に行います。
それは氏神が二町内をまたがっているからであり、同じ氏神を祀っていながら、それぞれの町内でそれぞれにトウヤを祀るという現象が起きています。

それ故に、絶えたトオネリ神楽の継承権を巡って、嘗てはどちらが正当な氏子連中として奉納舞を執り行うのか、言い争いもあったそうです。

結果としては、双方穏便に「隔年交互に神楽舞を奉納しよう」ということになり、神楽は各町内においては2年に一度踊るものとなりました。

すると、人間の記憶はいい加減なものですから、「はて、どんな踊りだったっけな?」ということになります。
たぶんこんなんだったな、とあやふやな記憶で踊ったものですから、踊りが変わる

結果、上平と下平では踊りが分化し、それぞれ異なる神楽を舞うようになりました。

完全に踊りが変わった後、いつの頃からか「神楽を忘れるので、一緒に奉納舞を執り行いましょう」ということになり、今では上平と下平が毎年同日にトオネリを行い、同日に氏神の大土神社で神楽を舞うようになりました。

上平舞と下平舞について

このようなことを書くと、どちらが原型に近いのか、と思いを巡らしてしまうのですが、結論どっちもかけ離れたものだろうと思います。
うちの地域の方が原型なんだ、というのは言い争いのタネですし、実際、動きが似ながら全く違う神楽を踊っているという現象はもはやどっちがどうという域ではなかろうと思います。

その上で、上平舞と下平舞の特徴を以下に記載します。

上平舞(私が組みする地域)は、動きにメリハリがあり、見ていて分かりやすい動きが多い、という特徴があります。
太鼓の音に合わせて動く箇所が多く、メロディよりリズムで動く、お囃子感の強い舞です。

舞自体の時間も比較的に長く、曲長だけで言えば元の形が残っているのかも知れません。

一方で、下平舞は曲が短く、動作もゆったりとしており、リズムよりメロディ重視で動く舞です。
短い割にゆったりとしたまさに神事向きの音楽を継承しており、曲の雰囲気だけで言うと曲調は元の形に近いのでは、と思わされます。

また神楽でいうと、正面をどこに取るかで上平と下平は異なります。

上平舞は御神体の座する方向を正面として踊るのに対し、下平舞は観客(特に宮司)の座する方向を正面として踊ります。

継承する中で変わってしまったのは間違いありませんが、それは双方の練習する場所の問題も大きいと思われます。

上平は氏神である大土神社を練習場所としているのに対し、下平は大土神社の摂社である粟津稲荷神社を練習場所としております。
これはお互いの地区により近い神社を練習場所としているに過ぎません。しかし、この二社は間取りが異なるのです。

大土神社は8畳一間の空間を有するのに対して、粟津稲荷神社は6畳しかありません。

踊りは4畳あれば舞えますからどちらでも練習は可能ですが、飛び跳ねる動きなどは空間にゆとりのある方向に飛びたくなるものです。
双方、出来る限り舞の動きは大きく見せたいというインセンティブも働き、上平は横長の空間で踊る(長方形でいう長辺を正面とする)踊りに発達し、下平は縦長の空間で踊る(長方形でいう短辺を正面とする)踊りに発達したのでないか、と推測されます。

結果、御神体を正面とするか、観客を正面とするかで踊りが分化してしまったと考えられます。

なお、大土神社での奉納舞は上平舞→下平舞の順番で執り行われます。
これも元々は交互に順番を入れ替えて踊っておりましたが、下平の方がトオネリに要する時間が長くかかる為、早く大土神社に帰還できる上平を先手とした経緯があります。

各舞・曲の紹介

以下に、神楽で舞われる各曲の紹介を記します。

【三楽】
三楽という名の由来は、もとは同じ節を3回繰り返すことから名付けられたものです。
しかし、継承による変化により、上平・下平ともに節を3回繰り返すということは無くなりました。
上平は太鼓と胴が同じ節を2回、下平は1回演奏します。笛は、笙の音色のような冗長なメロディを太鼓の節が終わるまで吹き続けます。

開幕を告げる曲であり、踊りは有りません。
静寂とした厳かな雰囲気を伴う曲です。

【弊串舞】
「エソイソイ」というお囃子のかかる威勢の良い曲です。
太鼓と胴の軽妙なリズムと共に、笛はゆったりとしたメロディを奏でます。

踊りは鼻高、百足獅子(三人1頭)によって舞います。
その名の通り、大弊串を手に取り、見栄を切って邪を祓う、清めの儀にあたる舞です。
上平は四方に見栄を切りますが、下平は二方しか見栄を切りません。
その為、上平の方がこの舞は長く、下平は1分足らずで終わります。

【剣舞】
曲は弊串舞と同じ曲を用います。

手にする道具を剣に変えて、鼻高と百足獅子舞で舞います。
四方を剣で切る動作を行いつつ、鼻高にとっては飛び跳ねる、屈む、といったフリの大きく(むちゃくちゃハードな)踊りです。

基本、鼻高と獅子舞は同じ動きをしますが、獅子舞は女性のようにしなやかな動く事が求められ、鼻高は男性らしく勇ましく踊れと教わります。

上平と下平で踊りが完全に異なり、上平は軽快に動くのに対し、下平は全体的にゆったりと踊ります。

【鈴舞】
恐らく豊穣を祈る舞と思われます。
太鼓は軽快なリズムで叩き、笛はユーモラスなメロディを奏でます。
これまでの曲と比べてアップテンポであり、お祭り感の強い曲です。

踊りは鼻高と獅子舞ですが、獅子舞は一頭立てに変わります。
その名の通り、手に鈴を持ちシャンシャンと鳴らしながら踊る、見ていて楽しい踊りかと思います。

祈りを捧げる踊りかと思われる理由として、稲荷神社ではこの踊りのみを舞うものとし、また個人宅で祈祷する際にもこの舞を使用します。

【早調子】
獅子殺しの系譜にある舞と思われます。
逃げる獅子舞(三人1頭)を鼻高が追って捕まえるという舞です。

その曲名は、勇ましい曲がどんどん早くなるように演奏されることに由来します。

下平は獅子の逃げる回数、捕まえるタイミングは決まっておりますが、上平は鼻高の体力が尽きるまで獅子は逃げます。
そのため、観客から「今年は体力がもたんかったなぁ」とか「ほう、頑張った年だな」とか、思い思いのヤジが飛ぶこともあります。

逃げる獅子舞を体力の限り追い続け、やっとこ捕まえて終劇となる、踊り手にとっては最もハードな舞です。

トオネリにおける「番内」について

ここまで書いたように、トオネリは神様を祀る神事であり、奉納舞を踊る鼻高と獅子舞が祭りの花形であることには違いありません。

しかし、大衆にとっては冗長な踊りを舞う鼻高連中より、もっとエキサイトで面白い見所があります。
それが「番内(ばんない)」です。

番内とは、憤怒の形相を讃えた鬼の様な存在です。
鬼とは異なり、頭に角はなく、シャグマを振り乱した悪漢という風体で町を闊歩します。

番内の写真。金色の目に憤怒の形相を讃える

手には長尺(約1.5〜2メートル)の竹を持ち、どつきながら家々を回って、厄を払うありがたい存在であります。

ルーツは、出雲大社の例大祭「吉兆さん」での先導役であり、同じく長尺の竹で家々をどついて回る鬼のような役回りです。
出雲地域全般で番内は見られ、衣装や顔立ちも地域によって若干異なります。
地域によっては、「アクマンバライ〜!」(漢字をあてると悪満祓いか?)と雄叫びを挙げながら、家の玄関を竹で叩く風習もあります。

出雲大社の番内は特に激しく、家の玄関が竹でボロボロに傷つけられるため、玄関に茣蓙を敷いて、傷を防止するという対策まで取られるほどです。

我が町内ではそこまで激しくはなく、せいぜい「うぉぉー!」と雄叫びを上げつつ、門や間口を竹で叩くのみに留まります。

また、子どもの厄除けも彼らの仕事です。
子どもを見かけたら追いかけて回し、ギャンギャンに泣かせれば厄が祓えると信じられております。
「お母さんの言う事ちゃんと聞いてんのか!オラ!」とどつく番内に「聞いてる!ちゃんと宿題もしてる!」と泣きながら答える子どもを見るのは微笑ましく、自分も子どもの頃は怖かったなぁ、と懐かしく思います。

大衆にとっては、家の厄除け、子どもの厄避けをしてくれるありがたい存在でありますから、家に来たら、酒とつまみで持って必ずもてなさなければなりません。

番内は1人で何十件も家を回り、へべれけになりながら子どもを追い回すという大役を担います。

番内を担った者自身も厄が祓えると信じられております。
番内は42歳の大厄年の者が担うのが望ましいとされています。

番内の竹を引きずる音、雄叫びの声、子どもの泣き声が町内中に響きわたるのは「あぁ、トオネリをしてるなぁ」という郷愁が感じられ、大変に良いものです。

お面の仕様も面白く、酒を飲めるように口が開く仕掛けになっています。
この仕掛けは、子どもを追い回す時にも一役買っており、カパァと大口を開けてこちらを見つめられた時など大人でも恐怖を感じます。

衣装は煌びやかな着物を着込みます。
故に、酒を飲む割にトイレには難儀します。
最悪の場合、垂れ流すこともしょっちゅうであり、我が町内では「クソ番内」と呼ぶこともあるほどです。
ただし、垂れ流すほどに飲んでいればそれだけ家々を回っていることの証左でもあるため、町内は「クソ番内」を見ると大笑いしながら、「よくやった!」と褒め称えるのです。そして、酒が注がれます。

大衆にとってはまさにエンタメであり、花形と言えるでしょう。

しかし残念ながら、へべれけになり、前後不覚になりながら走り回るという大変な仕事ですから、成り手が最も少ない役であります。

我が町内では、通常4体の番内が出歩きますが、人手不足につき、最後のトオネリでも3体しか用意出来ませんでした。

民間信仰としての問題点

これまでに記したような歴史や背景のあるトオネリ神事ですが、これはあくまで地域の氏子連中による民間信仰に過ぎません。

つまり何が言いたいかというと、氏神である大土神社の正式な祭りとは関係がないという事です。

「大土神社 例大祭」の一部として扱われてはおりますが、神社の例大祭は神職による神事が別に行われており、トオネリ神事は氏子から宮司にお願いをして例大祭に混ぜて貰っているという体裁を取っています。

それ故に、トオネリ神事の存続や運営に宮司が絡むことはなく、運営費用の施しもありません。
神社はこのトオネリに関しては消極的な姿勢を貫いています。

もちろん、その事に不満がある訳ではありません。
神社の意向が絡まず、自分たち町内の好き勝手で出来るということに他ならず、ある意味で自由な活動であるからです。

しかし、着物のクリーニング代や、練習で使用する道具や消耗品の購入費、宮司連中との打ち合わせ、例大祭進行との調整など、トオネリの運営にはお金も時間も手間もかかります。
ただ単に、今年で廃止となるのは人手が足りないというだけの問題では無いのです。

人手不足による運営役員の負担増、消極的な宮司の姿勢、町内のトオネリに対する熱量の減少、自治会不参加世帯の増加…

色んな問題が、民間信仰を続けていくのに障害となります。

結果、もう辞めよう、となるのはやむを得ない判断だったと私自身も思います。

しかし、こんなにあっさりと、そしてひっそりと無くなってしまうのはあまりにも悲しい。

トオネリで私たちが祀っているのは、大土神社の御祭神ではなく、歳神たる先祖霊だと思います。
その先祖たちが脈々と続け、また、戦火にあっても復興させたこの祭りが続けられなくなってしまうなんて。
まさに先祖に顔向けの出来ないことだなぁ、と運営側としては思ってしまうのです。

民間信仰と聞くと、眉唾物の、取るに足らない権威のないものと思われても仕方ないことだとは思います。
しかし、それを続けてきたものの想いまで蔑まれるものではないとも思います。

どうか、素朴に、豊穣と先祖繁栄を願う世の中でありますように。

そう願って私は最後の舞を踊るのです。

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