友だちがいない私の友だちの話

 30代になるまでずっと、ひどい孤独感にやられてきたのは、もう各所で言いまわっているほどの鉄板ネタである。ある時は仕事で知り合った人に言い、またある時はTinderで知り合った人に話してきた。なぜこのことを話すのかというと、自分にとって「知ってほしい」もっと言うと、「わかってもらいたい」、「少しでいいから共感してほしい」と思っている事柄だからだ。

 ひとりぼっちだと感じて生きてきた31歳の私は、今自営業をしている(結局ひとりで働いているのちょっとウケる)。仕事柄、たくさんの方に出会う。いい人がほとんど、ちょっとだけやなやつもいるけど、まあ「バカだなぁ」と笑えるレベル。元来人見知りだけど、相手に気を遣わせることが嫌だから人見知りを自称しなかったし、一時期までセルフブランディングとしていつも快活で明るい人間であろうとしていた。根はしぬほど暗くて陰湿なのに!

 そんな感じなので、ありがたい(?)ことに、「友だちいっぱいいそうですよね」とよく言われる。この間、一緒にイベントを企画運営した相方にも言われた。ただ、そんなことはない、むしろ友だちはめちゃくちゃ少ないと思ってここまで生きてきた。なのになんでだろう、と考えたときに、「話が通じる」ことと「私の心のめちゃくちゃコアで激狭な部分」を分かってくれる人以外を心から好きと思わないからだという結論に至った。

 なんでこんなややこしいことを突然書いているかというと、「○○さんは友だち?」と聞かれた際に「いや…なんだろう、仕事関係で知り合った人かなぁ」と言ってしまったことが始まりである。気になってしまって整理しようと思ったから。彼女は年上なのにため口で話すし、会ったら大笑いするほどおしゃべりしたりもする。だけど、友だちだと思ったことが実は一度もない。
 ほかにも、高校時代からの同級生で、今も交流があって、自分の仕事のことも応援してくれるような人であっても、結局私は「同級生」であって「友だち」だと思ったことがないとか。思い返すと「同級生」や「知り合い」、「お仕事関係の人」と表現する人があまりにも多い。

 「話が通じる」というのは、簡単なようで難しい。これは、私にとって、会話というコミュニケーションを通じて相互理解できるかどうか。きっとそのときには、同じようなレベルでの論理的思考、互いに想像できるような背景が求められるのだろうと思う。あと余談だけど、私の伝え方に問題があるのは重々承知のうえで、「いやそういう意味じゃなくて…」が多い人とは結局バイブスが合わないと感じることが多い。一見論理的であったとしても、私のことを勝手に分析して、独自解釈されると、「皆目見当違い!」と言いたくなるよね(ウエストランドのM-1のネタ、だいすき)。

 よく考えたらそれでいて、「自分の心のこと」を分かってもらいたいなんて、あまりにも贅沢すぎるよな。最初に書いたような、ずっとひとりぼっちだと感じて生きていたこと。自分が日々世界(社会)に対して感じていることや疑問。

 そうそう、自分にとって、わかってほしい、共感してほしいことは趣味のことではないということも、最近になってやっと気づいた。好きな音楽に代表されるようなカルチャーの部分が合ったとしても、それは「趣味友」の域を出ることはない(趣味友は大切だしありがたい存在なのは百も承知だし、10代のときの自分はこれがほしくてほしくてたまらなかったのもまた事実)。30代になった今は、趣味なんか合わなくても、互いの心のやわらかな部分に共感できるような人のことを自然と好きになっているように感じる。この好きは、男女問わず感じるので、友情とか恋とか違いはよくわからない、きっと愛のようなものだろう。そんな感じで好きになった人は、悲しい思いをしないでほしいし、挑戦するなら全力で応援したいし、疲れたときにはねぎらいたい。どれだけ他の人が否定しても、私は味方でいたいと思う、そんな存在を、私は「友だち」と呼ぶのかもしれない。私の好きな曲の中に、こんなフレーズがあった。

なぜ君はすべて理由を知りたがるの
そんなもの分かるはずがないのに
愛にいちいち理由は必要ないだろう
ところで僕のどこが好きなの?

MONO NO AWARE/LOVE LOVE

 こんな真夜中に何の得にもならないけれど、誰かを好きになる理由を考察してみた。私には友だちが少しだけいる。あととびきり好きな人。とっても好きなひとたち。愛に理由は必要ないかもしれないけれど、なんで好きになったかもきちんと言えるから、辛いことがあったときはそれを全部教えてあげるね。そんな感じで、おやすみなさい。

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