年末の特別編:灰色の空。
ぬちゃ、ぬちぃ、ぬちょ……。
歩く度、泥濘んだ地面にスニーカーが沈む。
ねっとりとした湿気が体に纏わり付いて気持ちが悪い。
倒壊した建物、割られた電飾看板、地面で泥塗れになった赤提灯、焦げた自動販売機……。
通り過ぎていく光景はどれも悲惨で、まるで戦後のようだった。
いや、確かに、今は戦後と言っても過言ではない。
数日前、この街で街の住人による暴動が起こった。
至るところで人々が殺し合い、阿鼻叫喚が飛び交う。辺りは地獄のようだった。
何とか住人同士の争いは治まり、今まで通りの陰鬱とした雰囲気を取り戻しつつある。
空は灰色の雲で覆われ、道ゆく人々は俯きながら障害物に当たらないように歩き回っている。
正気にも狂気にもなれない、どうしようもない憂鬱が街を漂っていた。
僕達が嫌い、求めていた「湿気の街」がここにあった。
後は、あの人が、無価値で無意味な救いの手を差し伸べてくれるなら……。
「すみません……お願いします……」
ちょうど通り過ぎようとしていた路地裏から、弱々しい女の声が聞こえた。
「お願いですから……」
そちらに顔を向けると、白髪の老婆が泥濘んだ地面に額をくっ付けて土下座をしていた。
白髪の老婆の前には、薄汚れたコートを着たがりがりの男がいた。彼の右手には棍棒が握られており、何度も何度も振り上げては振り下ろしていた。
「そりゃあ、出来ねぇよっ! 冗談じゃねぇっ!」
薄汚れたコートの男が棍棒を振り下ろしている先には、大きな何かが入った黒色のビニール袋だった。
どちっ、どつっ、どちゅ……。
棍棒が何かに当たる度、ビニール袋の摩擦音と何かが潰れるような音が辺りに響く。
「お願いです……お願いですから……わっちぇのセフレなんです……わっちぇの……」
よく見ると白髪の老婆は、どぎついピンク色のブラジャーとパンティしか身に付けていなかった。
「うるせぇっ溝鼠! 冗談じゃねぇっ!」
薄汚れたコートの男が、白髪の老婆の顔面を蹴り上げた。
どがっ!
嫌な音を立てて、白髪の老婆が背後にあった室外機にぶつかった。
「うぅ……うひぃ……」
打ちどころが悪かったのか、白髪の老婆は弱々しく呻くだけで動けずにいた。
「いいかっ! 俺の作るミンチ飯はなぁあ、地下じゃ大人気なんだっ! 観戦のお供に打って付けっ! てめぇに邪魔させっかっ! 冗談じゃねぇっ!」
薄汚れたコートの男は唾を撒き散らしながら、ビニール袋に何度も棍棒を振り下ろす。
「ふぇっ!」
棍棒で殴るのに満足したのか、唾を地面に吐き捨てて静止した。
その後、薄汚れたコートの男はビニール袋の口を右手で持って肩にかけ、歩き出そうとした。
「ま、待ってくださいまし。わっちぇのセフレを……持っていかないでください……」
白髪の老婆が震える手を薄汚れたコートの男に伸ばした。
流石に可哀想になり、僕は路地裏に近付こうとした。
「嫌がってじゃん、彼女」
薄汚れたコートの男の前に、濃紺色のペストマスクを被った男が立っていた。
「どけっ! 俺は地下で有名なんだぞっ!」
薄汚れたコートの男が怒鳴る。
「地下とかよく分からないけど……嫌がることは、しちゃ駄目でしょ?」
余裕そうに首を傾けるペストマスクの男。
「あぁんっ!?」
薄汚れたコートの男がペストマスクの男に近付き、下から見上げた。
もう、大丈夫だ。
僕は再び歩き出した。
もう大丈夫。白髪の老婆も、この街も。
無価値で無意味な救い。
ありきたりた台詞しか言わない薄っぺらさ。
灰色の空で濃紺色の烏が鳴き、どぶ臭い路地裏で紫色の蛙が歌い出す。
お帰りなさい、湿気の街の救世主。
【登場した湿気の街の住人】
・湿度文学。
・色欲老婆
・ミンチ飯の男
・ペストマスクの男