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ペストマスクの白鳩。

 あの頃に戻りたいと、ほんの少し思っただけだった。
 夜、ベランダに出て煙草を吸っていたら、街の暗さ、道を照らす明かり、虫の鳴き声、自動車の優しい走行音が、妙に懐かしく感じた。
 短くなった煙草を、まだ少しコーヒーが入っているアルミ缶に入れ、部屋に戻った。
 濃紺色のペストマスクを被って、煙草箱と財布、スマホをスウェットパンツのポケットに入れる。凸凹のバールを握って、暗く湿った夜の街へと繰り出した。
 いつもと変わらない街並み。それなのに、思い出に浸れるような演出をしてくれているみたいに、街が程よい湿気で俺を包み込んでくれているような感覚を覚えた。
 イヤホンから流れる憂鬱を歌った曲を聴きながら、アパートに面した路地裏をゆっくりと歩く。
 点滅する街路灯、凸凹の配管、走り回る紫色の鼠、生温かい風を排出する室外機、合唱する紫色の蛙、側溝を流れる汚水、泳ぎ回る奇形魚……。
 イヤホンを付けている筈なのに、街の音が鮮明に聞こえる。
 よく2人でこの道を歩いた。
 どぶ臭い路地裏を抜け、大通りを進む。
 道の両側には、シャッターを下ろしたスーパーやコンビニ、本屋、コインランドリー等の錆と黴に塗れた店が並んでいる。
 心なしか、街の住人も幸せそうに見えた。
 ここは、「湿気の街」。都内で唯一、年中湿度の高い街。雨が降るわけでもないのに、曇り空は晴れない。地面は常に泥濘んでいる。狂い切れない憂鬱に覆われたこの街を、いつも住人は俯き歩いている。思考することも出来ず、暗闇を歩き続ける彼等は「深海魚」と呼ばれている。深海魚に、「楽しい」、「幸せ」という感情は持ち合わせていない。……筈なのに、彼等は笑みを浮かべていた。
 今日はいつもよりちょっとだけ、特別なのかもしれない。まだ笑えていた頃の思い出に、浸れる夜なのかもしれない。
 最寄り駅に着いた。
 落書きだらけの高架下を歩く。
 腕に注射痕が沢山あるホームレスがギターを弾いている。瞳に一切光のない少年が小汚いブルーシートの上にエッチなDVDを並べて売っている。双子の街娼が手を繋いで客を待っている。
 灰色に染まった景色の中に、錆び付いた赤色の自動販売機はあった。
 ここで誰かに取られたくないぐらいには好きだったあの人と、夜が明けるまで駄弁っていた。自動販売機で買ったコーヒーとココア、そして、それぞれが好きな煙草をお供に。
 長時間、何の話をしたのかは覚えていない。だけど、笑い合った記憶だけは忘れたくない思い出として、脳の裏側からこちらを覗いている。
 身体が勝手に動いていた。
 財布から取り出した小銭を自動販売機の投入口に入れ、缶コーヒーのボタンをバールで押そうとした。
 せめて、過ぎ去った夜達の中に2人でいた時の感覚だけでも、味わいたかったのかもしれない。
「……」
 誰かに話しかけられた気がして、ボタンを押そうとするバールを止めた。
 左耳だけイヤホンを外し、振り向いた。
「初めまして、ですね」
 そこには、白髪の男が立っていた。
 20代後半ぐらいの細身の男。白色に染まった髪と眉毛は、この街には不釣り合いだと感じるぐらい美しかった。一重の切れ長の目、高い鼻、薄い唇が、面長で色白の顔にバランスよく配置されている。オーバーサイズの白色の長袖シャツを着、同様に大きめな白色のデニムパンツと、黒色のローファーを履いている。右耳に付けた白色の鳩のピアスと、左耳に付けた白色の花のピアスが、圧倒的な存在感を放っていた。
 彼の言う通り、初めて会った。
「湿気の街の、救世主さん」
 白髪の男は、俺を知っているようだった。
「……誰、ですか?」
「愛おしいと感じる思い出は、ありますかね」
 俺の質問には答えず、逆に白髪の男が尋ねた。
 唐突な問いと、タイムリーな内容に戸惑いつつも、俺は白髪の男の瞳から目を離せないでいた。細い瞳の中に引き摺り込まれてしまうような、異様な魅力が彼にはあった。
 俺が答える前に、白髪の男は色っぽく微笑んだ。まるで、俺の脳内を読み取ったかのように。
「思い出が愛おしいと思えるのは、生まれ変わらない限り、再現不可能な過去だからですね」
 コーヒーとココアと煙草。
 俺とあいつと煙。
 脳内で再生される、綺麗な映画みたいな映像。
 その中で煙を吐きながら笑っている俺は、冬にしては異常過ぎる湿度の高さなんて全く感じていなかった。
 忘れたくない記憶がある。もうあの頃には戻れないと分かっているからこそ、残り香にしがみ付いているのかもしれない。
「あの日を、あの人を、あの幸せを、あの後悔を、もし、もう一度、やり直せるとしたら?」
 視界が滲んだ。絶望的に悲しいわけではないけど、心臓を針で軽く突かれる痛みを覚える程度の切なさがある湿った夜達。それ等を、もう一度、やり直せるとしたら?
「あなたは、戻りたいですかね」
 白髪の男が右手を差し出した。開かれた彼の手の上には、干されたようにかぴかぴの白色の花が乗っていた。
 俺達を包む自動販売機の光が、堪らなく愛おしかった。
 そんなの、答えは決まっているじゃないか。

*

 あいつとの思い出の1つとして、高円寺の夜散歩がある。ペストマスクを被るようになる前の話だ。
 湿気の街から出て、JR中央線でよく高円寺駅へ降り立った。高円寺パル商店街にあるヴィレッジヴァンガードで本や雑貨を見て、いくつかの古着屋を回り、目ぼしい物を購入。カシスウーロンとぼんじりが美味い、2人のお気に入りの居酒屋で乾杯。
「いやぁ、いっぱい飲んだね」
 アルコールで頬を赤らめたあいつは、両耳に付けた青色の蝶のピアスを揺らして楽しそうに言うんだ。
「ちょっと歩こ」
 その言葉を待っていた俺は、さもこれからのプランを何も考えていなかったみたいに頷く。
「いいよ。高円寺から阿佐ヶ谷まで歩こっか」
 多分、あいつは俺のそのスタンスを分かった上で、言っていたんだろうけど。
 次は、俺が提案する番だ。
「あ、コンビニで煙草と飲み物買ってこうぜ。深夜散歩のお供に」
 コンビニで戦利品を手に入れ、高円寺に来た時のいつものルートを通る為、高架下へ向かう。
「あー、何かさ、いいね」
 そんな恥ずかしい台詞が、思わず口から出る。酒のお陰で、羞恥心は薄れる。
 俺は煙草を吸いながらコーヒーを飲む。隣で、あいつは煙草を吸いながらココアを飲む。高円寺特有の心地いい夢の中にいるような空気が、俺達を包み込む。
「行こっか、阿佐ヶ谷」
 両側に居酒屋が並ぶ通りを抜け、薄暗い道を進んでいく。頭上から聞こえる電車が線路の上を走るうるさい音でさえ、耳に心地いい。途中、高架下の道が行き止まりになる。線路沿いを歩き、マンションや一軒家から放たれる暖かい明かりを浴びながら、先へ進む。再び、高架下へ入り、阿佐ヶ谷駅を目指す。
 ゴールへ着いたら、ラブホかビジネスホテルに泊まって、一夜を明かす。遅めの朝を迎えたら、阿佐ヶ谷パールセンターにあるパン屋でブランチをしながら、街行く人々を眺めるんだ。
「……あれ」
 気が付くと、薄暗い高架下に、俺は1人で立っていた。あいつはどこにもいなかったし、そもそも通行人すら見当たらなかった。永遠に続くような闇に満ちた道に、ただ1人。
「……なぁ」
 誰もいない前方へ呼びかけても、当然何の応答もない。
「なぁ、おい」
 自分の声が、高架下に虚しく反響するだけ。
「なぁって」
 きゅうぅ、と喉の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。全身に、冷たい汗が流れているのが分かる。
 俺は走り出していた。
 先に阿佐ヶ谷へ行ったのか? それとも、どこかに隠れている? 何の為に? 俺を驚かそうと? そんなこと、今まであったか?
 進めど進めど、人の温もりを一切感じない、暗い暗い高架下が続く。
 焦りが、不安が、切なさが、寂しさが、恨みが、怒りが、憂鬱が、身体の内側にぬらぬらと湧き出てきた。
 立ち止まって、拳を握った。増殖する負の感情を、少しでも高架下に吐き出せるように。そんなことしても無意味だって、俺が生きている限り永遠と生まれてくるものだって、分かっているけど。分かっているけど、応急措置が必要だった。腹の底から感情を乗せて、大声を出した。
「どこ行ったんだよ!」
 自分でも驚くぐらい大きな声は辺りに響き、自らの鼓膜を震わせた。静寂の末、右頬を生温かい液体が伝った。
「……置いてくなよ」

*

「……置いてくなよ」
 気が付くと、俺は湿気の街にある住宅が並ぶエリア、住宅区域にいた。
 点滅する街路灯の光に照らされながら、ここに来るまでの出来事を必死に思い出した。
 そうだ。深夜散歩も兼ねて、今夜も湿気の街を救う為に街へ繰り出した。最寄り駅の高架下に辿り着いて、思い出に浸りながら自動販売機でコーヒーを買おうとした。そしたら、白髪の男が話しかけてきた。彼は白色の花を俺にくれた。それを口にしたら、「過去に体験した幸せを、大切な人と共にもう一度味わえる」、もしくは、「理想的で幸福な時間を、大切な人と共に味わえる」と教えてくれた。半信半疑で食べてみたら、あいつと一緒に高円寺を散歩した夜を再び体験することが出来た。だけど、阿佐ヶ谷へ向かう途中の高架下で、あいつは消えて……。目覚めると、何故か住宅区域にいた。
 俺の記憶がない間に、勝手に移動していたのか?
「大切な人と幸せを味わうことは、出来ましたかね」
 白髪の男が、目の前に立っていた。少し首を傾け、細く妖しい目でこちらを見ている。
「あぁ……はい。……出来た。出来ました。……出来ました!」
 俺は、白髪の男の両肩を両手で掴んでいた。
「もう1個……もう1個! あの花をください! あいつを連れ戻さなきゃいけないんです! 今度は絶対に目を離しません! 必ず、最後まで一緒にいますので!」
 高架下に1人取り残されたあの嫌な感覚が、俺を突き動かしていた。もう2度と、あんな経験はしたくない。そう強く思った。
「死んでしまいましたな」
「死んでしまいましたよ」
 どこからか、歌うような男女の嗤い声が聞こえた。美しくもあり、不気味でもあった。紫色の蛙の鳴き声が騒がしく響く。
 白髪の男が、嬉しそうに微笑んだ。
「いいですね」
 彼の耳の下で、白鳩のピアスと白花のピアスがゆらりゆらりと踊った。

*

 拍手が聞こえる。
 ぼやけた視界で辺りを見回す。
 ここは、小劇場程の広さの部屋。天井、壁、床、全てが眩しいぐらいの白色に染まっている。多分、俺は舞台上のような場所に立っているのだろう。1.5メートル程下に30人ぐらいの白色の装束を着た男女がいて、こちらを見上げている。
 この部屋は湿気の街のどこにあるのか。いつからここにいるのか。記憶が曖昧で、何も分からない。考える力もない。ただ呆然と、右耳に白鳩のピアスを付けた白装束の集団を見下ろし続けている。
「皆さん」
 右隣から、色気のある低い男の声が聞こえた。それを合図に、部屋中に響き渡っていた拍手が止んだ。静寂を不気味に感じた。
「今宵も『ペストマスクの白鳩』様が、この街に幸福を齎してくださっていますね。2度と味わうことが出来ない筈だった、大切な人との幸せな時間を」
 足元で、何かが動いたのを捉えた。
 白装束を着た肩幅の広い男が、蹲っていた。マンバンヘアーの彼も、右耳に白鳩のピアスを付けている。左耳には駱駝のピアスを付けていた。
「さて、ここに頭を下げている者は、先日失態を犯しましてね。裁きが必要となっておりますね」
 右隣から色っぽい声が続く。
「ここ最近、ペストマスクの白鳩様に対する冒涜とも取れる過ちを犯す『白鳩』が増えておりますね。その度、私が罰を与えておりましたね。ですが、あまりにも多過ぎますね。寛大なペストマスクの白鳩様の許容範囲が超えてしまいましたので、直々に裁きを下して頂くことになりましてね」
 朦朧とした頭でも、この部屋が何なのかは知っている。「白鳩の聖域」のアジトだ。
 白鳩の聖域は、最近出来た教団らしい。高架下で俺に話しかけてきた男が、教祖の「白鳩の麻薬王」とのこと。白鳩の麻薬王率いる白鳩の聖域は、鈴蘭の見た目をした麻薬、「鈴蘭の麻薬」を街の住人に販売(初回は無料配布)している。鈴蘭の麻薬を食べると、幸せを味わえる。幸福を、憂鬱に覆われた湿気の街中に広めたいらしい。
 実際、高架下で白鳩の麻薬王に渡された鈴蘭の麻薬を食べた俺は、戻りたかった過去に戻って、会いたかった人と高円寺駅と阿佐ヶ谷駅を繋ぐ高架下を歩いた。
 だが、1つ、鈴蘭の麻薬には問題点がある。
「ペストマスクの白鳩様、お願い致しますね」
 ずっと右隣で信者達に話していた白鳩の麻薬王が、こちらを向いた。
 俺は無言で頷く。
 鈴蘭の麻薬の問題点。それは、幸せを掴めないこと。俺もそうだった。阿佐ヶ谷へ向かう途中の高架下で、あいつはいなくなった。それまでは完璧だったのに。いくら探しても、どこにもいなかった。悲しくて、目を覚ました。覚醒した後も、胸を締め付けるような痛みは続いた。むしろ、もっと強くなったように思えた。耐え切れず、新たに鈴蘭の麻薬を求めた俺に、白鳩の麻薬王はあることを提案した。
 また、あの頃のあいつに会えるなら、何だってよかった。
 あの夜、白鳩の麻薬王の提案通り、俺は白鳩の聖域のシンボルになることになった。鈴蘭の麻薬を貰い続けることと引き換えに。
「ペストマスクの白鳩様、幸福の制裁を」
 右隣にいる白鳩の麻薬王が、部屋中に響き渡る程の大声で言った。
 白鳩の聖域に入団した俺に、白鳩の麻薬王は白く塗りたくったペストマスクを被せ、右耳に白鳩のピアスを付けた。そうして、俺は白鳩の聖域のシンボル、ペストマスクの白鳩となったんだ。
 俺は、湿気の街を穢す悪を罰してきた、凸凹のバールを振り上げる。
 足元で蹲るマンバンヘアーの男が、どこの誰なのかは知らない。だが、そんなことどうでもいい。
 もう1度、次こそは、あいつと一緒に阿佐ヶ谷駅に辿り着くんだ。もう何10回も失敗しているが、いずれ必ず、阿佐ヶ谷パールセンターにあるパン屋でブランチをする。
 その為なら、現実世界の俺の人生も、湿気の街の未来も、「ペストマスクの救世主」としての責任も、全て捨て去ることが出来る。
 あの頃に戻りたいと、ほんの少し思っただけだった。
 でもそれは、現実を生きる為、欲望と化した願望に蓋をしていただけなのかもしれない。
 脳裏に、あの高架下が浮かんだ。
 アルコールで頬を赤らめたあいつは、両耳に付けた青色の蝶のピアスを揺らして楽しそうに言うんだ。
「ちょっと歩こ」
 俺はバールを振り下ろした。


【登場した湿気の街の住人】

・ペストマスクの白鳩(ペストマスクの男)
・白鳩の麻薬王
・青蝶のピアスの女
・羊のお面の男
・羊のお面の女
・樂の白鳩


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