五寸釘の白鳩。
幸せは、残酷だ。
夜の湿った路地裏の湿った地面の上に、勢いよく前から倒れた。ねちゃ、という不快な音と共に、得体の知れない液体を含んだ土が口と白Tシャツに入った。口の中で、しゃりと音が鳴る。あまりの気持ち悪さに、嗚咽を繰り返しながら泥を吐き出した。
何とか体勢を直そうと、四つん這いになる。立ち上がる為に、両手と両膝と両足に力を込めた瞬間、背中に鈍痛が走る。
「んがはっ!」
呻き声を上げて、再び俯せに倒れた。
「げぼっ、わ、悪かった、悪かったよ!」
両側を居酒屋やスナックに挟まれた路地裏に、自分の情けない声が響く。まだ痛みより羞恥心が勝っている為、出来るだけ声は低くする余裕がある。
「悪い奴! お前! 悪い奴!」
街路灯と電飾看板の光に照らされながら、象のお面を被った男に木製バットを振り下ろされる。
「悪い奴! うちの『繭』を傷付けた! 悪い奴!」
象のお面の男は上裸である為、両手で握った木製バットを上下させる度に逞しい筋肉がにろにろと動くのが分かる。
「悪い奴! ぶちのめす! 悪い奴!」
いかつい見た目とは反して幼児のように拙い言葉を叫びながら、彼は俺の背中に木製バットを容赦なく振り下ろす。
「悪い奴!」
ここは、「湿気の街」の居酒屋区域。迷路のように入り組んだ小路に、居酒屋やスナックが立ち並ぶエリア。そんな場所に、ちょんの間がある。ちょんの間とは、ちょっとした時間で本番行為に及べる裏風俗店だ。
居酒屋区域にあるそのちょんの間が、「蜟」。俺の行き付けの店だ。ここでは未成年の娘達が、性的サービスをしてくれる。
ちなみにだが、居酒屋区域一帯は、元々青線地帯だったという都市伝説がある。噂が本当だった場合、蜟はその名残りだろう。
蜟の中でも、繭という風俗嬢が俺の一押しだ。今日も彼女を指名した。俺が悪かったのは、自覚している。昨夜のある出来事で、頭がいっぱいだったんだ。性的興奮と怒りがごっちゃになって、思わず殴ってしまった。
「んがっ」
だから、こうして今、蜟に雇われている傭兵に木製バットで身体中をぼこぼこにされている。
多分、俺は今夜でこのくだらない人生を終える。象のお面を被った蜟の傭兵、憎。彼は、狙った獲物は死ぬまで逃さないことで有名だ。憎愛用の木製バットで、絶命するまで殴られ続ける。
幸せは、残酷だ。
抗えなくなるぐらいぼこぼこにされながら、そんなことを思った。
自分の幸せは、自分だけの幸せだ。誰か1人でもその幸福を拒絶したら、簡単に砕け散る。恋人だったあいつも、きっとこんな気持ちだったんだろうな。もう、いいや、何でも。このまま俺は……。
「殺したら、駄目でしょ」
朦朧とする意識の中、どこからか声が聞こえた。正しいことを発しているだけの、薄っぺらい言葉。
憎が手を止め、声のした方を見た。
俺もふらふらになりながら首を動かし、そちらに目をやる。
「可哀想じゃん」
そこには、濃紺色のペストマスクを被った男がいた。
スナックの前に置かれた電飾看板の紫色の明かりに照らされて、彼が右手に持つ凸凹のバールが妖しく光っていた。
*
幸せは、残酷だ。
痛む身体を何とか動かしながら、妖しい光に照らされた居酒屋区域を歩く。
あのまま憎に殺されてしまった方が、どれ程楽になれたことか。あのまま逝けていたら、今よりどれぐらい幸福だったことか。
ペストマスクの男が中途半端な薄っぺらい正義で憎の制裁を止めた所為で、俺の不幸が続いている。これからも俺はこの街に棲息する不幸の餌として、生き続けなければならない。
ポケットから煙草を取り出し、口に咥えてライターで火を点けた。
「廃虚」という腐った果物のフレーバーが楽しめる銘柄の煙草。俺の愛用は、「腐苺」だ。腐った苺。これを吸うと、何故か惨めな状況に置かれていることが気持ちよくなる。
「あぁ……死にてぇ……」
煙草を吹かしながら足を引き摺るようにして、両側を居酒屋やスナックに挟まれた路地裏を進む。
惨めだ。惨めだ。どうせなら、自殺をしてしまうぐらい、もっと惨めになりたい。死ぬ前に感じる痛みを恐れないぐらい、頭が馬鹿になる程の惨めさを。
ざちゅ。
突然、足元から湿った音がした。足音とは違う。今まさに前へ踏み出そうとした左足の爪先辺りから。
音のした方を見ると、左足の前に1本の五寸釘が突き刺さっていた。左足に履いた下駄に刺さらない、すれすれの位置に。
「マンバンヘアー系の色男、はっけーん」
前方から、軽そうな男の声が聞こえた。
髪を後頭部で玉葱のように束ねた髪型、マンバンヘアーをしている人間は、この路地裏に俺しかいない。
俺はゆっくりと顔を上げた。
「憂鬱になっちゃってる系?」
そこには、整った顔立ちをした1人の男がいた。
年齢は20代だろうか。前半にも、後半にも見える。身長は180センチある俺よりも5センチ程低い。癖っ毛の黒髪、面長、いつも笑っているかのような細い目、細い鼻の中間辺りには五寸釘が横向きに突き刺さっている。白色の花柄が描かれた黒色のシャツの下に白色のTシャツを着、黒色のだぼだぼしたズボン、白色のスニーカーを履いている。右耳の下で、白色の鳩のピアスがゆらゆらと揺れていた。
鼻に五寸釘をぶっ刺したこの男が、急に俺の足元に五寸釘を飛ばしてきたのか。
俺は無視をして、再び歩き出した。
今、やばい奴に構ってやる程の心の余裕はない。
五寸釘の男の右側を通り過ぎようとした時、
「おうおうおーう。ちょい待ちちょい待ち、マンバンヘアーっち」
彼が左手を俺の胸元に近付けた。五寸釘の男の左手には、1本の五寸釘が握られていた。
「その感じだと、急いでるとかじゃない系っしょ?」
俺は溜め息を吐くと、短くなった煙草を捨て、左足で揉み消した。
「……誰? 何の用?」
五寸釘の男は細い目を更に細め、にへらと微笑んだ。
「うぃーす。『白鳩の聖域』に所属しちゃってる系の、『五寸釘の白鳩』っす」
白鳩の聖域。聞いたことはある。本当に耳にしたことがあるだけで、何をしているのかは分からない。湿気の街で活動をする、謎しかない集団だということだけは知っている。
「あ、もしかして」
五寸釘の白鳩が、何かを思い出したかのような顔をした。
「『樂』の店主ー? 煙草屋のさー」
そうだ。俺は居酒屋区域で煙草屋を経営していた、店主の樂だ。何故こいつはそれを知っているんだ、と思ったが、俺が覚えていない可能性がある。客に限らず、人の顔を覚えるのは苦手だ。
「……そうだけど」
「ふーん。そ。樂っちって、不幸系?」
五寸釘の白鳩の唐突な質問に戸惑いつつも、俺は鼻から息を荒々しく吐き出した。
「それ以外に見えるか?」
血と泥に塗れた、ぼろぼろの人間が。
「そんな人に、ちょうどいい系の話があるんだけども」
五寸釘の白鳩の右掌に、茎のない白色の花が1つ置かれていた。枯れた、というより、干して水分をなくしたようなぱさぱさの花。
「『鈴蘭の麻薬』。これを食べれば、樂っちを幸せにしてくれる系の優れ物」
……幸せに、してくれる?
「いるっしょ、1人ぐらい。この人と幸せになりたかったぜー系な女。そいつが樂っちを幸せにしてくれる系な麻薬。試してみるっしょ?」
「どういう意味だ」
五寸釘の白鳩が、にやりと不気味に微笑んだ。
「食べれば分かる系だけど?」
*
幸せは、残酷だ。
惨めになりたい、堕ち切りたいと願っても、手を差し伸べられただけで掴んでしまう。一時的なものだと分かっていても、止められない。まるで、麻薬みたいに。
「じゃ、楽しんでー」
近くにある居酒屋の前に置かれた室外機に座って、五寸釘の白鳩が歯を見せて手を振った。彼の歯は、まるで五寸釘みたいに鋭利に研がれていた。
みやぁむ。
鈴蘭の麻薬と呼ばれるぱさぱさの白い花を、口の奥に入れた。奥歯で花を噛み、飲み込む。唾液と共に、咀嚼した鈴蘭の麻薬が喉を通るのが分かる。幸せにしてくれる、とは何なのか。目を瞑り、これから起こる何かを待った。
ちゃ……ちゃ……ちゃ……。
遠くから、素足で湿った地面の上を走るような足音が聞こえた。
ちゃ、ちゃ、ちゃ……。
段々、こちらに近付いてくる。
ちゃちゃちゃちゃちゃ。
足音の主が目の前まで来て立ち止まった時、俺はゆっくりと目を開けた。
「……え……何……何で……」
重い前髪が特徴的な、黒髪ロングの女がいた。推定10代中盤の割には大人っぽい面長、細い眉毛、二重で真っ黒く大きな瞳、細い鼻と薄い唇が更に大人の色気を演出している。加えて、彼女の着ている灰色のランジェリーが、セクシーさを醸し出している。また、両耳に繭のピアスを付けていた。
間違いなく、彼女は繭だった。行き付けのちょんの間、蜟に所属している一押しの風俗嬢。
走った後だからか、繭は荒い呼吸でこちらを見上げている。彼女は何故か、裸足だった。一体、どうしたのだろう。
「なぁ、繭」
きっと繭は俺に言いたいことがあり、仕事の合間を縫って素足でここまで走ってきたのだろう。でも、それよりも先に、俺の気持ちが爆発した。
「ごめん! ごめんなぁっ! 殴って悪かった! 繭が憎かったとかそんなんじゃない。最悪なことが積み重なって、どうしようもなかったんだ。俺の煙草屋をぶっ壊されて、飼ってた猫まで奪われて……俺……俺、怒りの矛先を、繭にしてしまったんだ……ごめん……」
俺は謝りたかったんだ。素直に謝って、罪悪感を消し去りたかったんだ。謝罪をしながら、大量の涙が溢れ出ていた。
繭は大人びた顔で、静かに微笑んだ。
「そんなことより」
彼女が俺の胸に飛び込んだ。
「私が幸せにしてあげますの」
優しい笑みでこちらを見上げた繭が、俺の身体と一体化した。何の比喩でもなく、俺の身体に触れている面から、少しずつ彼女の身体が俺の身体に入っていった。
「あ……ちょっと……おい……」
繭が身体に入ってくるにつれ、視界が周りから黒くなり、頭が朦朧としてきた。
「私が幸せにしてあげますの」
殆ど何も見えなくなった時、脳内が真っ暗になった。
「みゃーおですの。みゃーおですの。皆さん、買ってくださいですの」
覚醒した時、俺は見覚えのある場所にいた。
小さな直方体。その中にある椅子に座っている。正面が硝子窓になっており、左右に木製の壁、背後に木製のドアがある。硝子窓の下の内側には棚があり、様々な種類の煙草箱がカートンに入れられて並んでいる(外側は硝子ケースになっていて、自動販売機のように空の煙草箱が陳列している)。
居酒屋区域のとある路地裏の角にある煙草屋、樂の中だった。
「みゃーおですの。みゃーおですの。皆さん、買ってくださいですの」
店の外から聞き覚えのある声が聞こえる。夜の路地裏に、不気味だけど、引き寄せられるような声が響き渡っている。
「みゃーおですの。みゃーおですの。皆さん、買ってくださいですの」
硝子窓を開け、身を乗り出し、声のする方を見た。
こちらから見て、店の左側。樂と赤色の文字で記された電飾看板が、白色の光を放っている。その電飾看板の左横に、繭が座っていた。お座りしている猫や犬みたいに、両手、両脛を泥濘んだ地面について。また、首には、灰色の鈴が付いた赤色の首輪が巻かれていた。
「みゃーおですの。みゃーおですの。皆さん、買ってくださいですの」
湿った空気に混じって、居酒屋から放たれる焼き鳥の焼ける匂いが漂ってきた。至るところで鳴く紫色の蛙の声が、ストリートミュージシャンの演奏のように聞こえる。店の外では、可愛い猫が客を待っている。
全てが満たされていた。不満点を探したいぐらい、心は穏やかだった。廃れた街の小汚い路地裏で猫と共に静かに煙草屋を経営する、この状況。まるで映画の舞台のような空間に、程よいアルコールが全身に回ったような感覚を覚えた。
「『果樹園』の『桃』を1つ」
ペストマスクの男が、店の前に立っていた。
「あいよ。500円」
俺は彼に果樹園の桃フレーバーを1箱、ペストマスクの男は俺に500円玉を1枚渡した。
「みゃーおですの。みゃーおですの。あなたのお恵みが私の身体の一部になるんですの。みゃーおですの。みゃーおですの。あなたの人生の幸福を願うんですの」
繭はペストマスクの男の右脛に頬擦りしながら、甘く鳴いた。
「私が幸せにしてあげますの」
突如、背後からも繭の声がし、びくっと背中が震えた。
ちらっと硝子窓の外を見ると、礼儀正しくお座りをしている繭は呼びかけを再開していた。
じゃあ、後ろから放たれた声の主は……。
「私は、繭」
白く細い両腕が、俺の両肩からずるずると胸元まで降りてきた。
「私は、繭ですの」
甘く優しく幼いながらに官能的な声が、左耳の鼓膜を刺激する。
「あなたをもっと幸せにする為に、私を1匹の立派な蛾にしてくださいな」
ねろり、と湿った生温かい肉塊が、俺の耳の外側を一周した。
あぁ、繭だ。彼女も繭だ。
「みゃーおですの。みゃーおですの。皆さん、買ってくださいですの」
店の外にいる猫も繭だし、
「電飾看板の明かりで妖しく光る、私を1匹の立派な蛾にしてくださいな」
中にいる蚕も繭だった。
繭と繭と俺と煙草屋。全てがよかった。失いたくなかった。誰か1人でも、どれか1つでも、この状況を拒んだ瞬間、全部消えてなくなってしまうと思った。
「樂っちって、幸福系?」
店の前に、鼻に五寸釘を横向きに貫通させた男がいた。
俺は首を傾けて、聞き返した。
「それ以外に見えるか?」
猫と蚕に囲まれた、モテモテの人間が。
「よかった系じゃん」
どすっ。
五寸釘の男は、左手に握った1本の五寸釘をカウンターに振り下ろした。
「また、幸福系になれて」
また、って何だ?
店内にいる繭が両手で俺の両胸を撫で回す速度が、少し速くなった。
「どういう意味だ? 五寸釘の白鳩」
……あれ? 何で、目の前に立つ男の通り名が分かったのだろう。見覚えはあるけど、名前まで聞いたことあったか?
「みゃーおですの。みゃーおですの。みゃーおですの。みゃーおですの。みゃーおですの」
店外にいる繭の鳴き声が、少しずつ速くなっていく。
そもそも、俺って今、何で2人の繭と煙草屋にいるんだっけ。
「みゃーおですの。みゃーおですの。んあっ、許して欲しいんですの。みゃーおですの。みゃーおですの。んんっ、許して欲しいんですの」
泣き噦る子供のように、SMプレイに興奮するマゾの女のように、店外の繭が鳴き始めた。ぱぁんぱぁんぱぁん、と何かで肉を打つような音も外から聞こえる。
「お願いですの。お願いですの。私を1匹の立派な蛾にしてくださいな。お願いですの。お願いですの。私を1匹の立派な蛾にしてくださいな」
店内の繭は両腕で俺の首を囲み、俺の左耳をじゅみじゅみと甘噛みし始めた。ぶぶぶ、と彼女の下半身から謎の振動が伝わってきた。
飲み込めない状況の中、辺りを漂う焦げ臭さに気が付いた。五寸釘の白鳩の穏やかな笑みが、不気味に見えた。ぱちぱちぱち、とどこからか何かが焼けるような音がし、熱さを感じた。
思い出した。
俺、付き合っていた彼女に、煙草屋を燃やされた挙句、飼い猫を奪われたんだ。だから、むしゃくしゃして、蜟で繭を殴った。当然憎に殺されかけて、ペストマスクの男に中途半端に救われた。そしたら、五寸釘の白鳩が俺に鈴蘭の麻薬を……。
いつの間にか、俺は店の外から燃え盛る炎を眺めていた。
店外にいた繭の「みゃーおですの」という声が遠ざかっていく。店内にいた繭の姿は見えない。ただ、楽しそうな繭の笑い声が、店外の繭の鳴き声と同じ方向から聞こえている。
崩れ去っていく幸せを眺めながら、俺の意識は遠のいていった。
*
「……幸せは……残酷だ……」
俺は鈴蘭の麻薬を食した路地裏で四つん這いになって、柄にもなくぼろぼろと泣いていた。
「それは、どういう系の意味?」
五寸釘の白鳩が、見下ろすように俺の正面に立っていた。
「幸せは……それを感じている、そいつ個人のもんだ。誰か1人でも……どれか1つでも……その幸福を拒んだ瞬間、全部消えてなくなってしまう。俺も彼女の幸福を拒んだから……俺の幸福も崩れ去ったんだ……俺の……」
付き合っていた彼女の一族には、「4度目の性行為をした相手と、生涯を共にしなければならない」という掟があった。それを分かった上で結婚をする気もない彼女と、性欲に任せて4回目のセックスを行った。彼女を縛って犯す、SMプレイを。彼女は俺に結婚を迫ったが、面倒臭かったので別れることにした。次の日、つまり、昨夜、俺が経営している煙草屋が燃やされ、飼っていた猫は消えていた。
幸せだった日々。猫と彼女と俺と煙草屋。ずっと続いて欲しかった何の責任感もない幸せが、俺の無責任な拒絶によって、彼女の正しい拒絶によって、一瞬で消え去った。
「でも、それでも……また掴めるならと、少しでも幸せがあるならと、鈴蘭の麻薬に手を伸ばした俺は……何も……何も変わってねぇ。幸福の中毒者だ」
「ははは」と薄っぺらい笑い声を出して、五寸釘の白鳩は俺に続いた。
「で……これからまた別の一時的な幸せに手を伸ばして、終わった瞬間に現実との落差で絶望する系の、幸福ジャンキーっすね」
幸福ジャンキー。その通りだ。何も言い返すことは出来ない。
「一度幸福を手にしたことがある人間が陥る系の負のループ、抜け出すチャンスをあげちゃおっか」
五寸釘の白鳩の言葉に、思わず顔を上げた。
「まじ系な話、樂っちみたいな色男だったら、『白鳩の麻薬王』様は大歓迎だね」
彼は、こちらに右掌を向けた。そこには、白鳩のピアスが1個乗っていた。
「幸せを貰う側じゃなくってさ、与える側になってみないか系の話」
「……幸せを、与える側?」
意味が分からず、俺は少し首を傾けた。
「白鳩の麻薬王様率いる白鳩の聖域は、鈴蘭の麻薬で街の住人に一時的な幸せを提供している系の組織。長く続かない系の幸せは、ビジネスになるんよ。また幸せを味わいたい、もっと欲しいって、中毒になっちゃうから」
楽しそうに話す五寸釘の白鳩の口から、唾液でぬらぬらと光る鋭く尖った歯が見えた。
「幸福を貰う側だから、不幸が辛くなる。だったら、逆になっちゃお系の話。幸せを与える側になって、俺達は楽に生きる。そんなエンジョイ系の勧誘」
「……何で、俺を誘う」
五寸釘の白鳩は、ぎざぎざの歯を見せて、にやにやと笑いながら、俺の右頬を左手に持った五寸釘の先端で軽く突いた。
「顔がいい系だから。幸せを提供する系の顔しちゃってるから」
今まで幸せを味わう側だったから、失った時に絶望した。猫、彼女、煙草屋、繭、生き方……。なくして、死にたくなって、鈴蘭の麻薬に、薬にもならない幸せを求めた。結果、無様に泣いてしまった。今後もきっと、このまま生きれば同じようなことを繰り返すのだろう。貰って、失って、泣いて、貰って、また失って……。死ぬことも出来ず、人として生きることも難しくなり、この街の路地裏を「深海魚」のように俯き歩くようになるんだ。
……だったら。
五寸釘の白鳩の右手で鈍く光る白鳩のピアスを、獲物を見付けた獣のように睨み付けた。
「俺は」
自分の両耳の下で、駱駝のピアスがゆたゆたと揺れたのが分かった。
【登場した湿気の街の住人】
・煙草屋、「樂」の店主
・傭兵、「憎」
・ペストマスクの男
・五寸釘の白鳩
・風俗嬢、「繭」
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