前田弘二監督『まともじゃないのは君も一緒』(21)
( 前田弘二監督の新作『こいびとのつくりかた』公開にあわせて、過去エントリーの再投稿・その 2です。 )
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車道に沿って伸びる、街路樹が繁った、ゆとりのある広い歩道。ああいうのは何と呼ぶんだろう。都会にありながら森林の気配を感じることのできるあの空間が何度も登場し印象深く、二人は噛み合わない会話をかわしながら、そこを幾度となく歩く。
冒頭とラストの森林の場面は、自然に溢れた山奥の設定なのかも知れないが、感触としては街からヒョイと入ったところに現れる、浅い林の空気。
街のなかに森があり、森のそとに街の気配がある。社会と、その規範からの離脱=自然。
街は人出にあふれた都会の雑踏を感じさせず、ひんやりとしてシンと静まっている。そのミニマムで音の要素の少なさ。
微妙な関係の男女のコンビ+結婚前のカップルが中心にあって、束の間シャッフルされ、脇に理想的な若いカップルがいて助言する。このピンク映画的な小さい人間の動き、そのささやかさがまず可愛らしい。
清原果耶が( 同じように女子高生の雑談が行われる第一長編『くりいむレモン 旅のおわり』に比べると、会話の繊細なリアル志向は減退し、物語映画を語る意志がつよい )女子高生グループから離れて、まっすぐ若いカップルに突き進んで話しかけにゆく飛躍。背景と思われていた人物があらわれてくる愉しさと、「好き」ということのあっけない素朴さが彼らの話から明らかになる。
そこから更に、話の背景であっただけのスナックが出現し、川瀬陽太、吉岡睦雄、佐藤宏が騒ぐピンク的な祝祭シーンで、清原果耶がワンワンわめいて素直な気持ちを吐露する。
ふっくらしたおじさん達が勝手に、でもやわらかく彼女の嘆きを受けとめ、カウンターにいる若いカップルは彼女の気持ちを冷たくも温かくもなくただ理解する。その優しさ。いいシーンだった。
成田凌、『ビッグバン・セオリー』的に笑う変人演技はやり過ぎスレスレだが、感情の波が低く、スイッチが入らない落ち着いた小声のトーンが、ヘン/だけど/イイの狭間で絶妙だ。その彼がマトモになりたいと思うスイッチがよく分からない。その彼に普通をレクチャーする清原果耶、小泉孝太郎をゲットするためとしても成田凌と行動を共にする動機が微妙で、ヒヤヒヤする。
そんな道行き、動線の弱々しさがあるとしても、思春期の不機嫌を体現する清原果耶が、「普通じゃない」成田凌を導いて、事前イメージから願望し→関係性構築する計画の成就(脳内を世界にトレースすること)じゃなくて、じっさいに人と人が接して(非・脳内)、はじめて抱く思いを起点として、心が揺れる。そのフェイズの変転を、不機嫌な言動行動に隠しながら、成田凌と離れないようにチームを組む姿が、繊細に乱暴で、あの年頃の硬い魅力を発散する。
終盤。よれよれの、妙な色のアウター(変)から→スタイリッシュなスーツ(普通)を経て→またよれよれアウター(変)に帰還した成田凌。制服(普通)で登場していた清原果耶は今、赤いチェックのシャツを、ラフに羽織って彼とともに歩いて、街のなかの森にたどり着く。
風になびく彼のアウターの裏地の赤と同じデザインだった。
商業用長編デビュー作『くりいむレモン 旅のおわり』のときに、前田/高田的な作劇は「同じ場所/時間を共有する複数の人と人のあいだのコミュニケーションは、異なる免疫をもった者として対峙するため(そしてそれゆえ尚且つ、異なる志向をもってその“場”に臨むため)、非・融合的に生じ、本質的に“必ず”噛み合わない」世界把握があるとしましたし、『~旅のおわり』での帰結は、男と女が、「兄妹」「彼氏彼女」というマトモであるべき関係性の規範に、ともに傷つき、手をつなぐも、無言で雑踏のなかに立ちつくす、といったものでした。
けれど、『まともじゃないのは君も一緒』のふたりは、それぞれ別の仕方で社会的規範から、マトモの呪縛から解かれている。先生と生徒であることも、年の差も、カップルでないことも、ここでは何でもなく、触れることも、見つめあうこともキスすることもなく、ただ同じ場所にいて、どうでもいい話をしているだけで良い。なんであろうと、不器用ながら、黙っていずに、相手に話かけること、それがこんなに優しいことだと示す、そんな映画でした。
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2021.4.28 フィルマークス投稿より転載
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