ep21 やさしくまわりこむきれいな光
「思い出なんていうのはね、ふわふわの気持ちや出来事にバタークリームを塗りたくってかためたケーキみたいなもんだよ。それかさ、結婚式でもらう、真空パックみたいなガスくさいパウンドケーキ。私あれ大嫌いなの。」
バルコニーのジャグジーにつかったまま、彼女の声を聞きながら僕はぼんやりと水平線を眺めていた。こんな田舎にどうしてと思うほど場違いなリゾートホテルは、この近くにある世界的に有名な造船所がVIPをもてなすために作ったものというウワサだ。
ゆっくりと目を開けるように、青白い光が射してきている。長かった夜は終わって、朝日が昇ってこようとしている。
「だからね、思い出なんて、1つもいらない。」
なるほどね。と短く返した。彼女の言う通りだと思うけれど、僕の言葉で言い換えると、それはきっと、忘れることに関係している。
何かを知るために生きているのではなくて、何かを忘れるために人は生きているのだと思う。出来事と、その時の気持ち。セットで覚えたまま生き続けていたら、僕の頭はきっと一週間でフリーズしてしまうだろう。だから人は大切な何かを覚えておくために、大切じゃない何かを忘れて生きていく。
そして世の中の多くの人にとって大切なのはどう感じたかよりも何を経験したかの方だから、気持ちの方をぎゅっと圧縮して、パサパサのバターケーキみたいになった思い出をコレクションしていくのだろう。事実よりも気持ちの方が空気をたっぷり含んでいて、ぎゅっと小さく圧縮しやすい。
ベッドに横になってタバコを吸う彼女のそばへ戻って、足元に素っ裸のまま腰掛けた。サイドテーブルに置かれたサガンの小説の文庫本に、栞がわりのハイライトの空箱が挟まっている。
「今の気持ちを忘れてしまうぐらいなら、死んだ方がまし。梅の花が咲くのをきれいだなと思うとか、気持ちいいなと思うとかさ。いい思い出だったね、あそこ行ったよねー。あんなこと言ってたよね、なんて言って楽しそうにしてる人の気持ちがね、私にはわからないんだ。」
彼女らしい、と笑ってしまった。大質量の知性と衝動が、たまたま重力のせいで人の形をしている、恒星のような人だ。時々吹き上がるフレアは僕の頭上遥か高くを龍のように轟音で走り抜けて、彼女の重力に引き寄せられるあらゆるものを焼き尽くしていく。
そういう風になれたらいいね。
気の無い返事に聞こえただろうか。彼女は不機嫌そうにベッドを出て、ようやく服を着はじめた。あなたもわかってくれないのね。そんな風に背中で言われた気がした。
まあでも、附属の同級生の名前もさ、半分も覚えてないわ。つまんなかったなー、って、それだけは覚えてるのにね。
「たしかに!」
彼女はようやく、アハハ、と笑った。
彼女に初めて恋をしたのは、確かあれは9月の放課後のことだったと思う。委員会室は夕暮れで、古いデスクトップのパソコンと、書類棚、窓辺には体育祭で使うスズランテープのボンボンが山積みにしてあった。よく晴れた日だった。クーラーの効いた部屋には、橙色の光がたっぷりと注いでいた。
あー、疲れた、とふざけて僕がボンボンの山に仰向けに寝転がると、彼女も隣にボフンと横になった。
そうしてたまたま触れた指先の感触とか、目を閉じた彼女の横顔だったりとか、そういうものを何度も頭の中で反芻するのだけれど、きっとそれは映画を見ているのと同じで、呼び起こされる気持ちはニセモノなんだな、と思って悲しくなる。
僕は一体いつ、その時の気持ちを忘れてしまったのだろう。大切だったはずの感情や衝動は、いつのまに、思い出なんかに変わってしまったのだろう。
ホテルを出るなり、彼女はミニクーパーの幌を開けた。
「今日は涼しいからさ、この方が気持ちいいよ。」
いい加減やめたらいいのに、彼女の車にはまだipodが積んである。シンバルズとか、ピチカートファイブとか、スーパーカーとか、そんな音楽がいっぱい詰まった彼女のipodは塗装も半分はげてしまって、痛々しいような素肌をさらしていた。
2度目の恋は、音楽と一緒にやってきた。二十歳になったばかりの頃。男と女と、アートと文学と、音楽とアニメと、そんなことばかり考えていた頃のことだ。
街の小さなカラオケ屋で彼女が奏でた音楽はとてもきれいで、若くて、健康だった。僕たちは笑いあいながらいつの間にか朝を迎えて、でも半年もしたらそれぞれ、また歌いながら次の恋をした。僕はいまだにあの頃彼女が歌ったドリカムの曲を聞くたびにはっとするけれど、やっぱり無くなってしまったあの夜の気持ちは、そうやって音楽を聞いて再生産しないと返ってこなくて、僕のipodはどこにやったっけな、と、スポティファイしか入ってないスマホを片手でくるくる回して、また悲しくなる。
そしてあれから5年経って、今回が3度目の恋だ。今度はどうなるだろう。彼女のミニクーパー(ターボ付き)は、田舎道をバカみたいに派手なアクセルワークで走る。すれ違う車の視線を集める助手席の居心地の悪さは、僕のそんなバカみたいな思考をいい感じに散らしてくれた。
「寄ってく?私のヒミツ基地。」
彼女は国道からそれて、橋を渡った。住宅街の網の目のような道をしばらく走ると、目の間に海が見えた。角の小さな家の前で彼女は車を止めた。コンクリートの駐車場から階段をのぼると、2階建ての小さな家が建っている。庭には砂利が敷かれたままだ。
「働き始めたら、リフォームもしようかなって。」
住宅街の端に建つ、彼女の秘密基地。1階にはリビングの他に和室。2階の2部屋は多分、子供部屋だったんだろう。どの部屋からもきれいに海が見える。そのためにわざわざ宅地がたかく作ってあるのかもしれない。
すべてきれいに清掃されてはいるけれど、壁紙や床の傷とか、塗装がはげた手すりとか、あちこちになんとなく家族が暮らしていたんだろうという空気が残っていた。
がらんどうのリビングに、小さな花瓶があった。海に向かう大きな窓の足元に花瓶だけが置いてあって、それ以外には何にも無かった。照明器具もなくて、窓からさす光が、フローリングに花瓶のやわらかな影を落とした。
「まだね、借りたばかりだから何もないけど。」
そう言って彼女は空っぽのリビングに大の字に寝転がった。窓の外には、静かな海が見える。半島に抱かれる、湖のように静かな海。たくさんのものを湛えていて、何も知らない顔をしている。
彼女の仕事は決まっていた。大学病院のインターンもあとわずか。2、3年そのまま大学で働いたら、家業の病院を継ぐ。何ひとつ進路の定まらない大学院生の僕から見れば羨ましいような気もするけど、実際のところはどうだろう。
彼女はいつも、もがいているようだった。何かになることが決められているのは、幸せなことだろうか。
「昆虫はさ、サナギの中で一回ドロドロの液体になるんだって。それがなんでかわかんないけど、きれいな形になって出てくる。不思議だよね。」
僕の言葉に彼女は興味深そうに頭を上げた。昆虫は幸せだろうか。サナギの中で一度海になって。それでも、正しい形は遺伝子に刻み込まれている。
一度だけ、中学校への通学路でセミの羽化を見たことがあった。背を破って羽を広げて、痛々しいほど白い体を晒して、耐えるようにして硬くなっていく。
いまの僕たちも、同じようなものだと思った。何者でも無かった幼虫の頃はとうに過ぎて、傷つきやすい真っ白な体を、世の中に晒そうとしている。彼女の形はもうきれいに決まっていて、僕は未だにサナギの中でタプタプと揺れているけれど。
「院を卒業したらさ、帰ってこないの?」
壁を向いて横になった彼女が、珍しく真面目な声を出した。
「どうだろう。帰ってきたいけど、仕事がね。」
生返事に彼女は答えてくれなかった。カーテンの無い窓から風が吹き込んで、柔らかい彼女のうしろ髪を小さく揺らした。
「あっそ。」
ヒミツ基地から市内への帰り道、曲りくねる海岸沿いの道を走るミニクーパーのアクセルワークは心なしか緩やかだった。15分も走ると古い街はもうなくなって、つまらなくて便利な、いつもの町が僕たちを取り囲んだ。
それから1ヶ月も経たないうちに、僕らの恋は終わってしまった。
「ごめんね、でも無理でしょ、私たち。」
西武池袋駅の改札前で彼女からの電話は一方的に切れて、携帯を握りしめたまま、最終の電車の中で、彼女の部屋のことを思った。
静かな海と、何もない部屋で寝転がる彼女。白磁の花瓶。透けるような細い髪。やさしくまわりこむきれいな光。
こうやって僕はまた頭の中でひとつ思い出を作って、壊して、丸めて、また思い出したりして、どうにかして彼女の部屋と、フローリングに横になった小さな背中を忘れないようにするのだろう。本当に忘れたくないのは、そんなものなんかじゃなかったのに。
<了>