見出し画像

ハレの誓いとケの誓い



不幸
とは三巴です。

水天宮より

両翼(ニ)だけあっても
飛べないのですね。

眞ん中に本体が無ければ
両翼の眞価は発揮でき得ません。

本体と両翼があればこそ
自由に空を飛べます。
子供にエサを運べます。

三巴とは三位一体のこと。

水天宮より

コインの裏に不幸が在れば
コインの表に幸せが在ります。
表裏在るコインには
必ず“高さ“という本体が在るのです。
この【“高さ“こそ愛】です。

一番目立たないけれど
高さこそ表と裏という両翼の本体です。
大事なもの程、見えにくいのです。
つまり
幸・不幸の本体は愛となります。

コインの高さが表裏を繋ぐ眞ん中です。
そして高さこそ本体です。

コインの表裏だけを見て
コインの大きさは測れません。
コインの表裏だけ立派な装飾でも
ものすごく薄っぺらいコインならば
すぐに壊れます。
金属であっても穴が空きますし、
すぐに風に飛ばされもします。

幸・不幸だけを見るとはそういうことです。
どんなに幸せそうに見える成功だけを見ても、
どんなに不幸に見える壮絶な体験だけを見ても、
そこに愛を見出さないならば
それはただの装飾なのです。

装飾を創り上げたことへの顔晴りを否定しておりません。
ですから
『顔晴っていない人などいない』
というのですね。

祭りとは神樣への感謝の意。

神樣への歓びの御報告として感謝を体現するのが祭りです。

感謝としての歓びをより分かりやすく神樣に表す為に、祭りではことさら色鮮やかな衣装や賑やかな音樂が用いられます。
村をあげて町をあげて。

ハレの舞台として祭りは在るのですね。

結婚式というハレの舞台も
御報告の場じゃないですか🤗
親族や身近な方々への二人の結婚の御報告の場です。

結婚する二人の誓いというのは
二人で完結している筈です。
しかし結婚式というハレの舞台で誓いを立てるのは、御報告の意味があるのですね。
(※男女という両翼は二人で何を育てますか❓🤗)

神樣への感謝というのは
心の中では
日常の中でしている筈なんです。
それが無意識であったとしても
“生きている“そのことが感謝です。
ハレの舞台ではない
ケとしての日常を生きている。
それはそのまま感謝なのです。

毎朝の家の神棚に向かっている時や
神社に参拝した時というのは
一つのハレの舞台です。
つまりそれというのは祭りです。
感謝の御報告です。
歓びを神樣に体現しているのです。
ハレの舞台で誓いを立てているのですね。
結婚式の誓いと全く同じ原理です。

役行者は幸神(サイノカミ)信仰だったそうで
幸神(サイノカミ)から
『ああ、幸せか❣️』
と思いました。
僕の人生の中で不幸にフォーカスしてきたので、
僕一流の(🤭)眞逆に極振りしたんですね。
それで名前もすぐさま幸十に。

ただやはり幸神なのですね。
言葉を換えても荒神(こうじん=幸神)としてあって、そこには必ず【神】がいました。
つくづく大切なもの程、見えないものです。

神樣は僕たちの命のルーツ。
今を命として生きる魂の先祖・先達です。
今を生きている僕らとは
彼らにとっての➖子宝➖です。
ですから
可愛く思ってくれるし、
可愛いからこそ厳しく在るのです。

可愛い子には旅をさせるように。
可愛い我が子を千尋の谷へ突き落とすように。

先祖は子孫が可愛いのです。
親心という愛由來の思いがそこには在るのです。


岡山県の西大寺会陽。

二本の宝木(しんぎ)をめぐる裸祭りです。

宝と書いてシンと読むのは神の意味だからだと僕は思います。
宝とは神。
子宝としての僕たちもやはり神。

人(ジン)から
我(が)を手放していくと
神(シン)という宝(シン)になります。
濁点が我(が)です。
濁りが我(が)なのです。

神社に在る鏡(カガミ)から
我(ガ)を手放していくと
神(カミ)になるのと同じです。

鏡に映るのは我。
『映るあなたも神ですよ』
というメッセージには
『映るのはあなたという我ですよ』
という意味もあります。
神とは目には見えないもの(三)ですから、
鏡に映るものは現象である(八)であると。
現象には限りがあります。
『有限な命を大切にして下さいね』
というメッセージがあり、
そこには
何の為の命か?
何の為に人として生まれているのか?
という命題があります。
映り出された我を見て
色々な角度から
我(が)を意識することに繋がるのです。



人として生まれることで
マインドによる我が付きます。
我の浄化の過程が人生です。
やがて源の神に戻ります。


ワンネスとしてある魂の濁った水は
一滴の水としてこの世へ。
一人の人として人生の中で我の浄化をすれば
一滴の水は純粋な魂となってあの世に戻る。
そのことがワンネスの魂を浄化することになります。
よりワンネスの魂を綺麗にしたいと思えば
より多くの人を世に出す必要があります。
これが世界的な人口増加だと僕は思っています。

これが
人(ジン)から濁点を取ると神(シン)になることです。
濁りとしての我(が)を取る為に
人間は我と向き合うことになっているのです。

我が分からなければ
浄化できないですから。

我を知る為に
他者も現象も現状も在るのです。


宝木(しんぎ)は陰陽の意味があって
二本なのですね。

二本=日本

日本という國は
陰陽の両翼の國です。

両翼は何を本体としますか?

➖愛➖です。

両翼を担う日本が愛を運びますから
地球全体の愛は日本に掛かっているのです。
日本という両翼は
日本の人を運ぶのです。
眞ん中に日本人がいるのです。
日本人が愛という本体です。
日本人の愛が國の両翼(幸不幸の歴史・資質)を使って翔けば
子供(子宝=人)にもエサ(愛然)を運べるのです。
愛を与えられるのです。
➖日本人が愛であればこそ➖

愛を育てるのに
幸も不幸も必須ですから、
愛と幸と不幸とは三巴。

皆、等しい価値を持ちます。

コインに表が在る時、
必ず裏も高さも在ります。
どれも欠けません。

三位一体として世は在ります。
天地人も同じです。

どれが欠けても空は飛べない。
愛が愛として愛を配れないのです。

日本國の幸・不幸という資源から
日本人は現在進行形で學んでいます。
我を學んでいます。
他の國や現状や現象と比較しながら
我を學んでいるのです。
それは個々人に顔晴っていない人などいないことが証明しています。
見えないかもしれませんが、
人は皆、顔晴って生きている。
その両翼から我を學ぶという顔晴りこそが
愛の愛び(まなび)です。
愛がエネルギーです。
愛という中心のエネルギーが在るから
幸・不幸の両翼から愛べるのです。
學びも愛びも共に大切なもの。
繰り返しますが
皆、顔晴っているのです。
そして愛としての自分軸を立てながら(縦糸)、
愛を自身の回りへと広げていくのです(横糸)。

縦糸は天へ地へ。
横糸は人へ命へ。

核に在るのは吾なる自分。
核に在るのは和なる日本。


仁とはニンベンに【ニ】と記します。

人の両翼とは【ニ】(2)です。
陰陽とは【ニ】(2)です。
結婚とは【ニ】(2)です。

【ニ】(2)で統合は完結しません。
個人レベルでもパートナーシップでも。

【ニ】は【三】であってこそ
【ニ】の役割りをまっとうするのです。
個人でもパートナーシップでも。

個人が統合するは
自己統合の為です。
自己統合をして自己が無い事はないのですね。
(※自己の聖長の過程は続くものですが)

ですから
【仁とは愛である】のですね。
人が陰陽であれば、それは愛なのです。
しかし、仁(ジン=人の未完成な愛)は神(シン)ではない。
だから人(ジン)は生きるのです。
感謝を込めて御報告して振り返りながらです。


三になって終わりではないのがミソです。

三とは志なのです。

三とはまだまだ序章に過ぎないのですね。



冒険は続きます😆




今日はここまでに🦒


最後まで御読み戴き
ありがとうございました😊✨


またねっ👋



祭統 白宇
SHIR㊉W

名前は原点回帰しました💫

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?