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YESの樂園で逢いましょう
白黒思考というのも
僕にとってそれは
樂しむ為にあったと 今 思います
極論と極論
それはたとえば
生きる か 死ぬ か
富裕 か 貧困 か
従順 か 反抗 か
一人 か 全員 か
全てに意味がある か 全てに意味が無い か
徹底的にやる か 全くやらない か
このような極論の
どちらかに傾き続ける場合
そこには迷いが無くて
確固たる自分らしさとして
それは機能します
揺るがない自分軸は
不屈の信念として
力強く人生を歩ませます
僕の場合では
貧困に傾く時
従順に傾く時
一人に絞って愛し愛されることに傾く時
そこに重い苦しみが伴いました
いわゆる陰の底打ちをする時
陽に転じます
陰からの揺り戻しにあいながらもです
しかしながら
あくまでも僕の場合になりますが
眞ん中に留まり続けました
極論と極論の眞ん中とは
統合と云えるものかもしれません
バランスの取れた中心かもわかりません
僕の場合
そこに面白みを感じませんでした
常識人になりきれない
大人になりきれないことで
新たな問題が浮上もしました
それでも
僕が極と極の眞ん中に居続けたのは
ジレンマという
もう一つの選択肢を樂しみたかったからです😊
極振りしたからこそ
それぞれの極の良いところも悪いところもわかります
片方の極を選び切れなかった
双方の良いとこ取りもできなかった
いや
できなかった
というよりも
やはり
どちらも選ばない
という選択肢を選んでいたのです
映画『マトリックス』でたとえるならば
赤いカプセルと青いカプセルを差し出され
僕はどちらのカプセルも飲み込みませんでした
そのことを僕は樂しんでいたのです
そしてそのような自分に対して
僕は心の底から➖YES➖と言います
自分の全ての感覺と感情を受容する時
人生の全ての出來事を受容することになり
世界の全ての現象を受容することになります
痛いも苦しいもエクスタシーも
喜怒哀楽も欠乏感も満足感も
葛藤もジレンマも自己矛盾も
それら自分で感じ取る全てとは
世界の森羅万象と同じことで
起きたこと
起きていること
起き得ること
一切合切を樂しむことを目的として据えるのならば、全てが全てに幸せしか感じ得ないものとなります
極と極に
僕はもう一つの極を創りました
そしてそこで遊んでいたのです
人生という命を使って贅沢に❤️
極と極を破壊して
新たな極を創造し
その樂園のような極の中で
僕はとことん樂しんでいました
そこは聖地と言って良い
そこはエデンと言って良い
全てを受容する時
全ては許容されます
自己受容は自己許容
それはそのまま世界に対しても当てはまります
理解とは愛の別名です
それは
自己理解がそのまま自己愛となり
そのような自己愛が
自己受容と自己許容になりましたからわかります
自己承認は自己賞賛に
自分に対する尊重を思えば
自己賞賛は自己礼賛に
そして
僕は世界丸ごとに対して礼賛しています
僕自身が
決して喜びだけを人に求めなかったように
僕と出逢う人は必ずしも
僕との出逢いに喜びのみを求めていたとは思いません
マインドレベルではそうだとしても
スピリットはそうではありません
ですから
世界には貧困も別離も戦争もあります
世界を全て受容して
世界を全て許容して
世界を全て礼賛して
そのような愛をもって受け止めた時
僕は人に出逢いたいと思うのです
人は世界は
僕にあなたに
スピリットから出逢いたがっている
僕はこのことに
愛という理解を示します
樂園の扉を共にくぐりましょうか😆
そこは矛盾すら樂しみにできる
➖YES➖の樂園
祭統 白宇
SHIR㊉W
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