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「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK 4DX版」感想会~アニメ10周年記念ファンムービーの魅力~


1 「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK 4DX版」を観に行った話


 先日最寄りのユナイテッドシネマ(気付いたら「ローソン・ユナイテッドシネマ」に改名されていた)の上映スケジュールを見たら、「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK 4DX版」がまだ上映していることに気付いた。「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK」は2024年11月に上映が開始された作品で、2023年にNHKで放送されたテレビアニメ『進撃の巨人 The Final Season 完結編』を再編集したものである。一度テレビで観た作品を映画でもう一度わざわざ観るのはどうかなぁと思ったりもした。しかし、あまりにも暇を持て余し退屈に押しつぶされそうになっていたこと、実はテレビ版の完結篇の前編は見逃していたこと、4DX版ならストーリーを知っていても楽しめそうということで、意を決して観に行くことにした。結論から先に言えば、観に行って大正解だったと言えた。今回は、その成果について報告というか、感想をダラダラ述べようと思う。

2 「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK 4DX版」あらすじ(※ネタバレ在り)


 2009年に別冊少年マガジンで原作漫画連載を開始した時点、あるいは2013年にテレビアニメが放映開始された時点では世間的な『進撃の巨人』という作品の立ち位置は、「巨人」という未知の人類の敵に立ち向かうダークファンタジー作品という位置づけであり、巨人の謎や主人公のエレン達のいる世界の謎を明らかにしていくというストーリーが進むことで様々な謎を解明していくということが作品の面白さに繋がっていったと思われる。しかし、原作の舞台が当初エレン達のいた「パラディ島」から「マーレ国」に移り変わってから、アニメで言えば「Final Season」と銘打たれてからアニメ製作会社も「WIT STUDIO」から「MAPPA」に変更されるなどすることで、色々話について来られなくなった人も少なからずいたのではないかと思う(だからと言って、ここでこれまでの『進撃の巨人』のストーリーを振り返ることはあえてしない。各自確認せよ)。

 そして、今回劇場公開された「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK 4DX版」は、その「Final Season」の終盤から始まる。エレンが始祖の巨人の力を手中に収め「地ならし」を開始し、世界人類の虐殺を始めた所から物語は始まる。一方、エレンの同期である調査兵団の一部とライナーを筆頭としたマーレ派エルディア人の少数連合軍がエレンの地ならしを止めるために飛行船の整備を始める。調査兵団イェーガー派のフロックの妨害により飛行船整備に遅れが生じる。そんな中、地ならしをしている超大型巨人の大群が飛行船整備場に近づいてくる。超大型巨人達の進撃を止めるためにハンジは調査兵団団長の座をアルミンに託し、自ら超大型巨人達の足止めを引き受けることにする。立体軌道装置を繰り出し雷槍(らいそう)やブレードを駆使して超大型巨人を一体、また一体と足止めしていくことに成功する。ハンジさんの立体機動に合わせて4DXの座席も大きく揺れる。私はこの「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK 4DX版」以外にも少なくない映画の4DX版を鑑賞してきたが、今までの4DXのどの作品よりもぶっちぎりで座席が大きく揺れるのを感じた。油断すると座席から放り出されるのではないかと感じた。映画とはいえ4DXの座席でもシートベルトは付けてもいいのではないかと初めて思った。それくらい立体機動のシーンは体感的にも迫力のあるシーンに感じられた。そうこうしている内にハンジさんの衣装も超大型巨人の影響で発火し、やがてハンジさんも力尽きる。そして、ハンジさんの時間稼ぎと作業員達の必死の修復作業が功を奏してアルミン達は飛行船に乗り空へ離陸することに成功する。任務を果たし命を燃やし尽くしたハンジさんは一転して爽やかな空の下でエルヴィン団長などかつての仲間達と再会を果たす(空想の中で)。「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK 4DX版」の中でも数少ない爽やかなシーンであるので印象に残った。


「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK 4DX版」入場者特典の描き下ろしイラストカード。立体機動のシーンは誇張抜きでこんな感じになる。

 最後までエレンと対話することを諦めないアルミン達であったが、あくまでエレンは「お前達は自由だ。俺も自由だ。どちらも譲れないなら、戦え」と対話することを拒絶する。覚悟を決めてエレンを止めるためにエレンがいると思われるポイントに爆薬とアルミンの超大型巨人に変身する際の大爆発を組み合わせる作戦が立案される。だが、エレンの側に居る始祖ユミルがアルミン達の行く手を阻む。始祖ユミルは歴代の「九つの巨人」を無尽蔵に生み出しアルミン達の行く手を阻む。そして、オカピの巨人(「獣の巨人」の一種)がアルミンを奪取してしまう。リヴァイはアルミン救出とエレン抹殺を同時並行で進めることを提言する。飛行船から離脱し調査兵団達は各自戦闘を開始する。何度も死地を超えて歴戦の戦士達となった調査兵団やライナー・ピークの巨人の力をもってしても無数の九つの巨人達の前では為す術もない。あわや全滅するかと思われた調査兵団一行であったが、飛行能力を有する鳥型の獣の巨人の力を覚醒させたファルコとアニ・ガビが遅れて戦場に駆けつけたことで全滅を免れる。再度体勢を立て直しアルミン救出を図る。一方、アルミンは「道」を介してジークとの対話に成功し、九つの巨人達の中から味方を作ることに成功する。そして、リヴァイはついに因縁のジークの首をはねることができたことで、超大型巨人達による「地ならし」を止めることに成功する。だが、それで問題は全て解決しない。エレンに寄生していたムカデ状の巨大生物=始祖ユミルに巨人の力を与えた謎の存在は未だ健在であり、エレンは超大型巨人の姿となって再び進撃する。アルミンは超大型巨人の姿のままエレンを食い止める。一方、謎のムカデ状の巨大生物は巨人化ガスを撒き散らし、ジャンやコニー、ガビを始めとした巨人化能力を持たない一般のエルディア人を「無垢の巨人」に強制進化させる。残されたライナーとアニは絶望の悲鳴を上げる。そんな絶望を終わらせるため、ついに覚悟を決めるミカサ。エレンの本体は超大型巨人の口の中にいることを突き止め、リヴァイはミカサに希望を託し活路を開く。そして、ついにミカサはエレンの首を切断し、全ての因縁を終わらせることに成功する。ちなみに、ここまでの立体機動のシーンでも何度も座席から放り出されそうになった。

 本当の意味で全てが終わり、エレンの口から真実が告げられる。エレンが壁外人類の虐殺に踏み切ったのはアルミン達に自分を殺させ、アルミン達を人類を救った英雄に仕立てることで仲間達を守るためにやったということ、どうやってもアルミン達が救える人類は2割まで、8割の人類をエレンが虐殺することはどうあがいても止められなかったこと、エレンはずっとミカサのことが好きで本当は死にたくなかったこと、それでも人類を虐殺することになるエレンは地獄に墜ちることを免れなかったこと等々…。原作漫画とは異なりアニメ版ではエレンが虐殺に踏み切ったのは「バカだったからだ」と鑑みる所やアルミンがエレンと抱擁して「一緒に地獄に行く」と約束を交わすところは、テレビ放映版でも思ったことだが良い改変だなと思った。

 巨人化の能力も無くなり、完全に無防備になったエルディア人達に対して懐疑的になるマーレ軍の人々。そんなマーレ軍に対し立体機動装置などの装備を外し丸腰で近づき「その気になれば巨人化して反撃できるのにそれをしないのが既に巨人化能力を無くして我々が無害である証拠」と何度目かの「演説」を開始するアルミン。そして、アルミンは自らを「進撃の巨人、エレン・イェーガーを殺した者です」と名乗り混乱する戦局を収めることに成功する。そして、エレンの首を埋葬するために一足先にその場を離れるミカサ。しばらくしてからパラディ島との和平交渉としてアルミン達が親善大使として帰還する。各々が出来る形で平和な世界を取り戻すために静かに「戦い」続けるのであった。

 こうして、いよいよエンドロールが流れ始める。テレビ版と何か変更があるのかと思ったがそんなことはなく、とりあえずミカサやアルミン達が寿命を全うするくらいまではパラディ島は無事であった。それから数百年から数千年、下手すると数万年くらい進んでパラディ島は超高層ビルが建ち並ぶようになり明らかに未来都市として発展していった。だが、アルミン達の平和外交も虚しく、パラディ島と諸外国との戦争は結局免れず、最終的にパラディ島は大爆撃により文明が滅ぼされたようにして戦争が終わる。そして、争いが終わりさらに時間が経過した後で名も無き少年と犬が巨大樹の前に近づいていく。かつて始祖ユミルが巨人となる運命を繰り返すように…。

3 「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK 4DX版」エンドロール後の「ポストクレジットシーン」~『進撃の巨人』における「ファンムービー」の意義に関する考察~


 と、ここまでテレビ映像で観たのと同じような映像が流れた後、エンドロール終了後に「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK 4DX版」のサプライズシーンが登場した(と言っても上映の最初に「エンドロール後に特別映像があります」的なアナウンスが流れたのでエンドロールが流れてからすぐに退場する者もいなかったが)。原作コミックではオマケ漫画として描き下ろしされていた「進撃のスクールカースト」のアニメが上映されたのである。それも、一番最後の「進撃のスクールカースト」のエピソードである。

 ただの学生であるエレン・ミカサ・アルミン(本編の彼らとは別人)が「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK 4DX版」を現実の我々と同じように鑑賞していたところから物語は始まる。映画は終了し、3人は劇場を後にする。ちなみに、映画館の清掃員としてリヴァイがスタイリッシュにガラス張りの入り口ドアを窓拭きしていたり、一般通行人としてユミルが3人の娘と歩いている後ろ姿が映っていたりした。眼鏡を掛けてオタクっぽい風貌をしているアルミンはスマホで観たばかりの映画の感想を読み漁っている。ゴスロリ衣装とメイクをした少し不思議ちゃんメイクをした現代っ娘のミカサは余韻に浸っているご様子である。そして、そんな二人の後ろを歩いて行くエレン(『進撃の巨人』本編とは歩いて付いて行く位置が逆になってるっぽいのがまた印象深い)。ミカサは映画のシーンを思い出しながら「私はよかったと思う。本当に長い物語だったけど…伏線も回収されたし、登場人物ともちゃんとお別れできたから。」と語り満足そうである(可愛い)。一方、アルミンは「そう…ミカサは考察サイト見てないからね…」と面倒臭いオタクムーブをかましてくる。そして、アルミンは感情を爆発させながら「謎は残されたままだよ!なんかさあ…!予想通りなんだよね!もっとさあ!!いい意味で期待を裏切る何かを見せてくれると思うじゃん!?」と叫ぶ。そんなアルミンに対しミカサも向きになって反論する。「それは…!!想像の余地をあえて残したと考えることもできなくはないと思えるし!あえてシンプルに畳んだともとれるし!欠点がある人の方がかえって親しみやすい場合もあるでしょ!?」とヒートアップする(可愛い)。アルミンも負けじと「そんなことで僕の不満や疑問が解消されるわけじゃないよ!!なぜならずっと待っていたからだ!10年前からずっと!この日を!!」と涙ながらに一歩も退かない。アルミンも作品が嫌いなわけではなくむしろ作品を愛してるからこそ不満を正直に吐露しているのだろうと思うとアルミンの意見ももっともだとも思ってしまうし、そんなアルミンも可愛いと思ってしまう。そして、ミカサとアルミンは「エレンはどう思う!?」と問いかける。二人の圧に思わず息をのむエレン。しばらく言葉を探してエレンが発した答えは、「オレは…お前らと映画観れて楽しかったよ…。もし…次回作があったらまた、観に行こうな…」と、映画の内容はどうあれ友達と一緒に映画を見に行けたのが楽しかったと素直な感想を述べる。エレン、映画を一緒に観に行ける友達が出来て良かったな…(誰目線?)。そして、三人は交差点を渡る。街の奥にはパラディ島の大樹が彼らを見守るようにそびえ立っている。そう、この『進撃のスクールカースト』の映像は『進撃の巨人』本編のパラレルワールドでもパロディでもなく、『進撃の巨人』本編と地続きの世界線の話なのだ。特定の世代にしか通じない例えをすると、『進撃の巨人』本編がテレビアニメ『ZOIDS(ゾイド)』だとすると、『進撃のスクールカースト』は『ZOIDS新世紀/(スラッシュ)ZERO』だということである。戦記物・軍記物・冒険譚だった前作から遙か遠い未来の話では、平和な世界での出来事を描いた物語になっているということである。『進撃のスクールカースト』が『進撃の巨人』本編と地続きであることは最後の三人の台詞からも読み取れる。

エレン「しかし信じられねぇよな…。100年前、本当に巨人がいたなんて」
アルミン「どこまで史実を元にしたかは分からないけどね」
ミカサ「あの三人の幼馴染も実在してたらいいのにね…」
エレン「うん…そうだな」

「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK」パンフレット内ストーリーボードより抜粋

 「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK」本編のエンドロールではパラディ島が数百年、下手をすると数千年・数万年経過し文明が発展しきった後で戦渦に巻き込まれ滅亡したことを考えると、『進撃のスクールカースト』は「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK」本編が終わった直後から百年程度時間が進んだ時点での話となるだろう。

 さて、何故この『進撃のスクールカースト』という新規映像が「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK」の最後に差し込まれたのだろうか。下手をすると本編の余韻をぶち壊すことにもなりかねない可能性を秘めているものである。そもそも『進撃の巨人』をアニメでしか追っていない人は原作単行本のオマケ漫画である『進撃のスクールカースト』という『進撃の巨人』の登場人物を(アメリカの学校の)スクールカーストになぞらえた人物配置をしたパロディの存在を知らないのではないだろうか。実際、監督の林祐一郎氏も「スクールカースト」の映像化は蛇足ではないか、せっかくの余韻をぶち壊さないかといった不安があったことを吐露している。しかし、監督は「スクールカースト」の最後に街の奥に例の大樹がカメラに写って終わる構成ならば本編と地続きになるし、ただの独立したオマケ以上の意味を与えることが出来るということを思いついて、サプライズ的なものを付け加えることに肯定的になったそうなのである。

 では、「ただの独立したオマケ以上の意味」とはどういう意味なのだろうか。この意味を読み解くヒントとして、私は田中芳樹原作のスペースオペラこと『銀河英雄伝説』の主人公の一人であるヤン・ウェンリーの台詞が思い起こされた。せっかくなので、彼の台詞を引用してみることにする。一応説明しておくと、引用元の台詞はヤンが敵国の重要要塞である「イゼルローン要塞」を陥落させるために、一番危険な任務をシェーンコップという人物に言い渡すシーンである。その際にシェーンコップはなぜイゼルローン要塞攻略という無謀な作戦を引き受けたのかヤンに問いかける。そして、ヤンはシェーンコップに以下のように返答したのである。

「恒久平和なんて人類の歴史上なかった。だから私はそんなのぞみはしない。だが何十年かの平和でゆたかな時代は存在できた。吾々(われわれ)がつぎの世代になにか遺産を託さなくてはならないとするなら、やはり平和がいちばんだ。そして前の世代から手わたされた平和を維持するのは、つぎの世代の責任だ。それぞれの世代が、のちの世代への責任を忘れないでいれば、結果として長期間の平和がたもてるだろう。忘れれば先人の遺産は食いつぶされ、人類は一から再出発ということになる。まあ、それもいいけどね」
 もてあそんていた軍用ベレーをヤンはかるく頭にのせた。
「要するに私の希望は、たかだかこのさき何十年かの平和なんだ。だがそれでも、その十分の一の期間の戦乱に勝(まさ)ること幾万倍だと思う。私の家に一四歳の男の子がいるが、その子が戦場にひきだされるのを見たくない。そういうことだ」

『銀河英雄伝説1 黎明編』田中芳樹著、創元SF文庫

 「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK」のエンドロールを見れば、結局パラディ島が遠い未来で戦渦に巻き込まれ滅亡する運命を免れることは出来なかったことが嫌でも思い知らされることになる。では、エレンやアルミン達がしてきたことは全く意味が無かったと言えるのか。私はその問いには「NO」ということができる。その証拠がエンドロール後の「進撃のスクールカースト」の映像である。人類の8割を滅ぼした「天と地の戦い」からパラディ島の滅亡までにたしかに存在したパラディ島での「平和」はゆるぎない「真実」である。そのことを10年以上『進撃の巨人』という作品を追いかけてきたファンに知ってもらうためにわざわざエンドロール後に「進撃のスクールカースト」が差し込まれたのではないかと思うのである。上述のヤンの台詞はまさに平和な時代が存在したことを言ってのけている名台詞なのである。偶然だろうが、『銀河英雄伝説 DIE NEUE THESE』においてヤンが面倒を見ている(実際はヤンが面倒を見て貰っている)「一四歳の男の子」こと「ユリアン・ミンツ」の声優がエレンと同じ梶裕貴さんというのが感慨深いと感じさせるものがある。

4 おわりに~「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK」が終わっても~


 「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK」という劇場作品は基本的には原作漫画やテレビシリーズの『進撃の巨人』を追い続けたファン向けの作品ではあるが、出来れば今まで『進撃の巨人』に触れてこなかった人も一度は劇場に足を運んで欲しいと思っている。これまでのストーリーを知らないと登場人物の関係性や立ち位置、細かな設定などが多く作品を十分に楽しみたくても「このシーンはどういう意味だろう」と余計な思考が働いてしまい十分に楽しみきれないかもしれない。しかし、わざわざ劇場版にするだけあって「地ならし」のシーンは本能的な恐怖や絶望感が伝わってくるシーンであり、立体機動を駆使した戦闘シーンや巨人同士の戦闘シーンはストーリーがよく分からなくても臨場感ある迫力に息をのむこと間違いなしである。特に4DX版はこれらのシーンでの席の揺れが激しいので、アトラクションとしても一級品の体験が出来ること間違いなしである。また、戦闘シーンを抜きにしたストーリー自体にしても、何となく「人間同士の争いは単純に正義と悪で割り切れるものではない」ということや「現実の民族紛争も『進撃の巨人』で描かれていることと根本は変わらないのではないか」といった感想が生まれることだろう。『進撃の巨人』という作品はこの劇場版で描かれている完結編やその少し前の「Final Season」から見始めても、現実の世界に存在する戦争・紛争・民族対立・歴史認識といった数多くの問題を考える上での示唆に富んだ「教材」たり得る。また、「Final Season」が始まるまでのパラディ島を舞台にした前半戦とも言える『進撃の巨人』(アニメで言えばSEASON3まで)においても、「人生をどう生きるか」や「覚悟や決断をする上で何を尊重し、何を切り捨てるか」といった哲学的な問いを考える上で印象的な台詞や登場人物の生き様を垣間見ることになるだろう。どのシーズンから『進撃の巨人』を見始めても何かしらの「学び」や「感動」を得られることは間違いない。『進撃の巨人』という大作の集大成として「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK」を観に行くのもいいと思うが、これをきっかけに『進撃の巨人』という残酷だが美しい世界に足を踏み入れてもいいのではないかと思うわけである。

 しばらく「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK(4DX版)」は上映が続くと思われるので(少なくとも私の最寄りの映画館ではそうである)、まだ「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK」を見たことがない人は是非一度は劇場に足を運んで欲しいと思う次第である。そして、いつか「劇場版『進撃の巨人』完結編THE LAST ATTACK」の上映が終わったとしても、10年以上は『進撃の巨人』という作品を引きずって欲しい、もとい『進撃の巨人』という作品の感想を語ったり考察を深めたりして欲しいと思うのである。願わくば、『進撃の巨人』という作品を通じて「平和」について考えるきっかけにして欲しいとも思う。エンタメ大国日本という国が現在まで存在しているのは先人達のたゆまぬ「平和への想い」を抱きながら「次世代への責任」を果たしてきたからだと思う(現実の日本の政治には数多くの課題が残されていることはどうしても否定できないが…)。現代を生きる我々が次の世代への責任を果たすための『進撃の巨人』らしいキーワードを最後に捧げてこの投稿を終わろうと思う。

「心臓を捧げよ」

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