法学部から見る古文・漢文必要論

1 古文・漢文不要論の出立点


 定期的に「古文・漢文不要論」というのがメディアやSNSに取り上げられることがある。この「古文・漢文」は「数学(特に取り上げられがちなのは三角関数や微分・積分)」や「美術・芸術」に置き換えても同じことが言えるだろう。要は「将来役に立たない教科を学校で教える必要はない、むしろ将来役に立つ他の有意義なこと(納税の仕方、社会保険に関する知識など)を教科に加えろ」ということに尽きるのだが、とりわけ古文・漢文がこの「将来役に立つか否か」の槍玉の筆頭にあげられることが多いように思われる。実際、日常的に日本語を用いる中でわざわざ古文・漢文調で対話を試みる者はいないし、実用的な文章をもっと学生のうちから読ませる機会を増やすべきと法的な契約書を大学入学以前に読ませようとする試みもあると聞く。

2 私の立場~一個人としての見解と、法学徒としての見解~


 この手の議論について各々の意見・主張はあるだろうし、どの立場に立つとしてもいくらでも積極的な理由付けはいくらでも出来る(逆にただただ「貴方の感想ですよね」で終わる話も同じくらいある)ので、私個人としては積極的に必要・不要の立場を明示することはしない。何を以て必要・不要とするかはその人の立場や思想・信条・趣味によって千差万別だからであるし、そうして導かれた結論を積極的に否定する権利が私には無いと思っているからである。

 もっとも、大学の4年間と法科大学院での3年間、そして司法試験浪人生活の約5年間と法律を学んできた者としては、法律学を(少なくとも大学の教育課程で)学ぶことを考えているのであれば、最低限の古文・漢文の文法・句法・単語を学んだ方が良いと助言しておくことにする。なかなか表には出てこない情報だと思うのだが、大学で法律学の授業を聴くと古文・漢文の文法・句法といった知識が当然あることを前提に授業が展開されるからである。そのことを実感するのは昭和初期や大正時代、場合によっては明治時代に出された判決文の紹介や解説レジュメ・文献を参考に授業が展開されているときだろう。

 大学で古文・漢文の知識を必要とされるのは文学部の日本古典を中心に研究されている教授の授業くらいと思われるかもしれないが、意外にも法学部生にも最低限度の古文・漢文の文法・句法知識が要求される。では、具体的にどの程度の古文・漢文の知識が要求されるのか見ていくこととする。

3 法学部の授業で当然の前提とされる古文・漢文知識


(1)昭和初期以前の判例読解


 大学の法学部で法律の授業をするとなると具体的にどのようなことを学んでいるのかと疑問に思ったことはないだろうか。よく誤解されるのは六法に記載された条文を丸暗記するというものであるがそれはただの都市伝説である。勿論、ある程度重要な条文の要件や効果を記憶しておくことは大切ではあるが、それだけが全てではない。法律学で重要なのは、法律に書かれた文言をどのように「解釈」することが妥当な結論を導けるか・より説得力のある結論を導けるかということである。

 例えば、刑法199条の殺人罪を例に取れば、「人を殺した」という行為の中に溺れている無関係の子供を見殺しにするといった行為は含まれるか、といったものがある。通常、「殺した」という行為に含まれるのは「拳銃の引き金を引く」、「紐で首を絞める」、「ナイフで心臓を突き刺す」といったような積極的な行為であることに異論は無いと思われるが、今回のような見殺しにするという「消極的な行為」も殺人の実行行為に含まれるのかという問題がある。この問題がより具体的に現れるのは、殺意を持って子供に食事を与えずに子供を餓死させた親には殺人罪が適用されるのか、それとも保護責任者遺棄致死罪に留まるのかというケースであったりする。

 こうしたケースを解決するのに六法の条文をただ眺めるだけでは解決しない。条文に書かれている文言を「解釈」し事実を法律に当てはめて妥当な結論を出す必要がある。そして、この解釈として参照されるものとして、過去に裁判所が出した判例というものが存在する。この判例は元の条文の文言から乖離しないように、また将来に向けても安定した妥当性のある結論を導くために出されるものである。そういうわけで、条文に書かれた文言がどのように「解釈」されるのか、過去の判例を参照するという作業がしばしば発生する。

 この過去の判例を参照する際に大学受験で要求された古文・漢文の知識、具体的には古文・漢文の文法、句法、語彙の知識が必要になってくることがある。現代語訳により判決文が書かれるようになった昭和の中後期以降の判決文を参照する場合には古文・漢文の知識は要求されないが、昭和初期以前の判例を読み込む必要がある場合には先程挙げた古文・漢文の知識が暗黙の内に要求される。令和の現在でも通用する法理論が明治時代や大正時代、昭和時代といった古い時代に確立されていることを確かめる必要が出てくるのだ。特に大学のゼミで民法の損害賠償理論や民法・刑法問わず因果関係論などを研究することになったときなど痛感することになるだろう。すなわち、明治時代から昭和初期の日本の文豪が残した仰々しい文体の文章、あるいは漢文の書き下し文のような文体の判決文やそれに準ずる参考文献を読む必要があるのだ。そして、雰囲気だけでなく実際に使われる語句、用法も古文・漢文の知識が要求される。具体的には、「能はず」「得ず」「~に如かず」「正に~すべし」「~せざるべからず」「苟も」「雖も」「而して」「蓋し」といった語句の読み方・用法くらいは当然に理解していないと当時の判決文を正確に理解することは困難である。そして、大学の教授はこうした古文・漢文の知識は受講生は当然知識があるものとして講義を進めるので、こうした語彙の細かい意味についてわざわざ時間を割いて説明することもない。なので、大学受験勉強をする際に古文・漢文の勉強を疎かにすると法学部に入学してから困ったことが起こることがあり得るのである。

※もっとも、「蓋し」という用語は漢文で習う場合と法律学で用いられる場合には意味が異なることに注意が必要である。漢文の知識で言うところの「蓋し」は「想像するに」「思うに」といったような意味合いで用いられることが多いが、法律文章で見られる「蓋し」は「なぜならば」といった理由を説明するための接続後として使われていることになっている。この「蓋し」以外にも法律用語は日常用語と同じ文字を用いていてもその意味内容は法律専門用語としての特殊な意味を持ち合わせていることもあるので学習の際には注意が必要である。

(2)手形・小切手法


 現代の日本で施行されている法律のほとんどは現代仮名遣い(日常用語で見られるような言葉遣い)で表記されていることの方がほとんどだが(それでも独自というか特有の言い回しは見られたりする)、その中で唯一と言っていいほど旧式の・漢文の書き下し文のような文体で書かれた法律が存在する。それが手形・小切手法である。大まかな法学部のカリキュラムとしては「商法」の中で最後の方に設置されている分野の法律(会社法→商法→手形・小切手法)である。マニアックな法律であるが、司法試験予備試験でも出題された実績のある法律なので、司法試験受験生(予備試験受験生を含む)としては全くノータッチで見過ごすわけにはいかない厄介な法律である。手元に六法があれば手形小切手法を検索して実際に条文がどのように規定されているか確かめればいいし、ネットが使えるのであれば「手形小切手法」で検索を欠ければe-Gov法令検索というサイトなどでどのように規定されているかハッキリ分かる。7,80年前に制定された日本国憲法や120年ほど前に制定された民法が現代仮名遣いで表記されているのに対して、手形小切手法は漢字と片仮名のオンパレードである。現代仮名遣い表記だと「みなす」「~しなければならない」「この限りでない」「できる」といった現代の法律文書の表現も手形小切手法に係れば「看做ス」「~スベシ」「此ノ限ニ在ラズ」「得」といった具合である。現代日本で漢文の書き下し文を見かけるのは手形小切手法の条文くらいだろうと思われるのがよく分かる。

 手形小切手法は条文数自体はとても少なく、準用も多い条文の作りにはなっているので覚えることは比較的少なく実はコスパよく学べるおいしい法律でもあるのだが、手形小切手法の原文を見ながら学習を進めるのは漢文の書き下し文になれていないと些か大変かもしれない。大学入試で漢文を勉強したことのある受験生は法学部に入学した場合再び書き下し文と再会することになるが、大学入試で得た苦労は大学入学後に報われるとフォローを加えることにしておく。現実的な手形小切手法の学習のアドバイスをすると、先に現代語訳の書かれている基本書・参考書・解説書・講義を先に参照した上で原文の法律を読むと理解が効率的に進むと思われる。

4 法学部を目指す学生へのメッセージ


 法学部を目指して受験勉強の日々を送っている学生の中には「今自分のしている勉強が一体何の役に立つのか」と悶々とした日々を送っている者もいるかもしれない。特に自分の受験科目が世間では「不要」と言われてしまっていたら気分よく勉強できたものではないだろう。しかし、法学部に進学した人生の先輩である私が断言する。法学部の受験科目に古文・漢文が要求されているのならば最低限の文法・句法・単語は押さえるべし。大学入学後の講義において大学入試で培った知識を暗黙の内に使うことになるのだから。

 また、現代においては漢文を学ぶことのハードルも昔ほど高いことではないとも思うのだ。学習さん降雨書が充実しているというのももちろんであるが、現代ではYoutube等で無料で効率的な学習(古文・漢文に限らず)をすることが可能となっているからである。現役で大学受験勉強をしている学生に限らず、これから学び直しを考えている全ての人にお勧めしたい学習環境が開かれている。積極的に学ぶ主体性があるのならば、是非これらのサービスを積極的に活用して欲しいと思う次第である。少なくとも、私がここでゴタゴタと書いてあることよりよっぽど有益かつコンパクトに良い情報がたんまりと載っているはずだから。

5 最後に~「情報」摂取のタイミング~


 今回は「古文・漢文必要(不要)論」という流れから、法学部で法律を学ぶなら古文・漢文の知識は必要だよという投稿をさせてもらったが、古文・漢文に限らずありとあらゆる「情報」について最後にダメ押しの補足を付け加えようと思う。

 ここでいう「情報」とは「勉強」とか「常識」「教養」「今緊急で必要な知識」など何と言い換えても通用することなのだけれど、この「情報」というのは自分から積極的に目的を持って探しに行かないと欲しい目的の情報は得られないというところに特徴がある。一方、コンピューターやSNSなどのサービスの発展によってこうした「情報」は簡単に手に入るようになったとも言えるが、そうした情報は自分好みの情報ばかりで本当に自分が入手すべき情報であるとは限らないし、緊急に情報が必要となる事態に陥っている場合には精神的にも余裕がないためにその情報の善し悪しを判断できずとんでもない情報を掴まされることもしばしばあったりする。株式取引やNISA、iDeCo、仮想通貨(暗号資産)などの取引に手を出している人なんかは身に覚えのあることも多いのではないだろうか。

 こうした情報は余裕のあるときに落ち着いた状態で吸収するなり取捨選択する訓練を実施した方が良いと思うのである。これは古文漢文に限らず数学なり芸術なり宗教なり、金融教育などでも同じことが言えよう。

 「古文・漢文不要論」はあまりにも現在の自分の立場だけで物事を判断している視野狭窄状態に陥っているからこその無責任な問題提起ではないかと思うのだ。勿論、時間的・物理的制約があるからこそ学ぶ内容の吟味はしなければいけないだろうし、学ぶ過程ももう少し合理化を進められる余地はあるのかもしれないが、「今・現在」以外の可能性を担保することが教育の役割ではないか。将来何が起こるか分からないからこそ過去から学ぼうという姿勢も大事ではないか。「古文・漢文不要論者」の中には自分の受験生時代に時間的制約の厳しい中で古文・漢文という苦手科目に少なからず付き合わされた恨み辛みから不要論を唱えているのかもしれないが、そうした呪縛から解き放たれた現在において改めて学び直してみると当時は発見できなかった新たな知見を発見できたり面白さに目覚めることがあるかもしれない。

 学びは10代の若者の専売特許というものではない。学びたいと思えばいつでも学べるものなのだ。だから金銭的に、経済的に、社会的に余裕が出てきたときこそ、「不要」と思われていたものに目を向けるベストタイミングなのかもしれない。


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