確率は存在するのか
可能性とか確率とかって、本当に存在するんでしょうか?
例えば、何かの事象が発生する可能性・確率は、0.01%の確率ですと言われても、起こったらそれは「起こること」であり「起こったこと」で、なかったら「起こらないこと」であり「起こらなかったこと」じゃないですか。つまり、あえて確率で表すのであれば0%と100%しかないのでは?
じゃあ可能性とか確率って結局何なんですか?本当にそんなものあるんですか?
という事を、ずっと考えていた。
ちょっとした病気にかかって、病院へ行った。そこで、
「大体治りますが、稀に治らないこともありますので、また再検査のため〇月になったら来てください。」
と言われたことが発端で、その時期ネガティブな気分だった私は、再検査の予定の期日が近づくにつれ、「治っていないような気がする」という気持ちが強くなっていた。
それで、例えば、治らない可能性が「稀に」あるということの、「稀に」が例えば10%だったとして、普段の私であれば、
「治らないのが10%ならば、10人に9人治るのだから私も治っているだろう」
と考えていたところを、
「10%だったとして、そんな数字があったところで私は治っていないような気がするし、治っていないなら10%なんていう数字には何の意味もなく、ただ、"私は100%病気である"という事実のみが存在し、ゆえに、結局、"正しい事実"が存在する以上、確率など無意味なのではないか?」
と思い至ったのである。
そもそも、今現在からして、過去の事実を変えることはできない。だから、今時点で未来のことは分からなくとも、その未来からすれば過去に起きた「事実」は確実に存在し、不可変であるという事は、結局出来事は初めから決まっているのではないか?ということに帰結してしまうのである。
更に、そんな鬱々とした気分で歩いているところに、
「戦ってみなきゃ!勝てる可能性は0じゃない!」
なんて少年漫画か何かの広告が耳に入ってきて、またしても、
「でも勝つか負けるかは最終的にどちらかになる、どちらかになるという事は、どちらかになるという事が決まっているという事。ということは、0じゃないとか、可能性があるとか、そんな言葉には何の意味があるのだろうか。」
と、考え込んでしまったのである。
つまり何が言いたいのかというと、「シュレーディンガーの猫」は、確かに箱を開けるまで結果は人間には分からないが、箱を開けた時点で結果が発生するというのであれば、それは事実として箱を開ける前から存在しており、そこに可能性だとか、そんなものの入る余地はあるんだろうか、ということ。
2.
とはいえ、人間はみな、可能性だとか確率だとか、様々な学術の研究だって確率という数字をたいそう大事に扱い、大多数の人間がその数字を信仰しているように感じる。大多数の人間が信仰しているという事は、確率というものが存在するかしないかは別として、なにか「意味」があるはずだと思うのだ。
確率が、同じ事象をたくさん集めて、その束の中からどのくらいの割合でどうなるかを計算しているものだ、という事は分かっているが、そもそもなぜそれを「同じ事象」としてひとくくりにできるんだろうか?
ひとつひとつの事象は、本当に「同じもの」としてまとめられるのだろうか。ひとつひとつの事象が、本当はそれぞれ別のことなのではなかろうか。
だって、前の話に戻ると、私の病気が治らなかったとしたら、ほかに治った人がいたとしても、その人の病気は私にはまったく関係がないのである。私が治ったとしたら、治らなかった人がいたとしても、その事象はひとくくりになるのだろうか。他人の病気と私の病気、Aさんの病気とBさんの病気になんの関係があるというのだろうか。無関係の事象をひとくくりにして、それで何パーセントだとか、みんな本当はそんな意味のないことをずっとやっているんじゃないだろうか、と。
3.
まず、インターネットで調査してみた。可能性や確率というのは、存在するのかどうか。
これは、科学か、哲学かで答えが変わるらしい。
科学、というか、量子力学の世界では、人間には解明し得ない範囲があるという事が分かっていて、その人間にはどうやってもわからないことだけが分かっている部分に関しては、「確率」として表現するしかない。よって、確率は存在する、ということらしい。
ただ、私が気にしているのは哲学の話であり、哲学は神の領域(人間には解明し得ない範囲)に対して、自分はどういう立場をとるのかという、正解のない問いと思考のプロセスなのだと考えている。よって、哲学では確率が存在するのかしないのか、その答えは人間にはわからないが、自分がどちらの立場に立つのか、どう向き合ったらいいのかということの、答えを出したいのである。
つまりは、量子力学が「人間には分からない」と、確率にして切り捨てた範囲について、それでも、その最小単位の粒子が存在するかしないか、右回転するか左回転するかという事には、たとえそれが人間には知り得ない何かだったとしても、原因があり、現象はすべて因果によって成り立つのかどうか、すべてに理由があり、因果で結ばれていると「思う」か、「思わない」かの話、ただそれだけのことなのである。
それで私は、考えているとどうしても、すべてに因果があると「思ってしまう」ので、決定論者に近い思想であり、すべての事象が決まっているのであれば最早、確率とか可能性というのは意味をなさないし、存在しない概念という事になるのである。なぜなら、確率の統計を構成するその一つ一つの事象に対してそれぞれの原因・理由があるということは、それぞれは全く個別の事象であり、まとめて確率にすることができないというか、まとめたところでまったく意味がないこととなってしまうからである。
4.
次に、友人Aに話してみた。
「確率とか、存在すると思う?」あれやこれやを説明して、聞いてみた。
決定論というのは、人間の意志、行為など、人間の意志による自由だと考えられているものも、実はすべて何らかの原因によってあらかじめ決められているという考えで、すべての事象はその前に起こった出来事によって決定づけられているという思想である。
私も、未来は分からないけれど、死なない限りはその想定される未来の時点に私が存在することとなる。
そうなったときにはすでに、その時点からする過去に対しては一切の変更は加えることができない。
そしてその融通の利かない不可変さはは、「あの時こうしていればよかったかも」「あの時こうしていたらどうなっていたんだろうか」ということを考えることの無意味さそのものである。
「あの時...」のように考えることが一切の無意味であり、何の役にも立たない無駄であることから、未来について考えていても、最終的には「すべて決まっていたのではないか?」というところに落ち着いてしまうのである。
「でもさー、その決定論は逃げの思考だよね。」
「うん。」
「だってさ、なんかあったとしても、全部決まってたんだからしょうがないってことでしょ?」
「確かに。でも、絶望の思考でもあるよ。」
「なんで?」
「だって、どんなに頑張っても、未来は決まってるんだから、何をしたって意味がないって。」
「あー。」
「未来を見るか、過去に対して使うかでも変わるね。」
5.
その後、友人Bに、聞いてみた。
「Bって決定論者?」
と、直球で質問をしてみた。
「出た」
と返される。私の思考を理解してくれていることが、「出た」によって伝わってきて嬉しくなる。(褒められていないので、喜ぶべきところではない。)
しばらく考えたのち、Bは、
「どちらかと言えば、決定論よりかな」
と言い、しばらく話すうちに、
「分岐する並行世界が存在すると思ってる」
という事を話してくれた。Bによれば、自分が何かを選択するたび、選択しなかった方の選択肢を進む自分の世界も同時並行的に進んでおり、だからすべてのパターンの自分が同時に別の世界線として存在していると考えている、という事だった。
何か大きな決断をするときに、どちらも自分は選んでいると考え、後から後悔しないよう、「この私はこっちに行くから、そっちはよろしくね」という気持ちでいるらしい。
目から鱗だった。まさかそんな回答が返ってくるとは思っていなかった。
だから、自分の自由意思は存在しているし、運みたいなものもあるけれども、全ての状態の自分が同時に存在しており、この自分はこの世界線にいるだけ、という意味では、決定論ではないのかもしれない、と。
私は、「この私が無限の私の中でこの世界にいることは、偶然であり単に確率というもので、理由なくそうなったのか、無限の世界があるとして、この私が今この選択肢の世界線にいることは、決まっていたのではないか。」と言うと、一旦移動することになった為そこで議論が中断した。
その後、「じゃあ、その人の行動があらかじめその前に起きた出来事によって決まっているってことは、世界5分前仮説とかは存在しないってこと?」
と聞かれて、その人の行動の因果がその人にあるとは限らない、という事の説明をしようと思ったのだが、頭痛がしていて考えるのが辛く、その話はそこで終ってしまった。
6.
私が説明下手なので、友人Bの理解では、「その人の行動やその人の身に降りかかることは、すべてその前にその人が起こした行動によって決定づけられている(何が起きても自分の責任でしょ、という方向の思考)」
ということになっていたのだが、決定論は、すべての因果は決まっているため、むしろ個々人に降りかかる責任は存在しない。
世界5分前仮説だって起こりえる。
私とBがあの時あの場所にいて、お互いを友達だと思って会話していたのは、その5分前に起きた世界の生成によって、原子や分子の配列、電子の動きによって発生した現象であり、私やBには何の責任もない。ただ、物質がそのように構成される因果があっただけだ。それは変えようがなかった。そういう運命(決定)だった。
何故5分前に世界が出来上がったのかも何かしら物質が爆発したからとか、何かの因果があった。というように、出来事はそれ以前の出来事に原因を持っており、本当の「原初」の時点ですべてが決定づけられた、という理論なのである。
ただ、私はこの説明を考えている時に、無意識にこのような言葉を使った。
「世界5分前仮説が正だったとして、私とBがあの時あの場所にいて、お互いを友達だと思って会話していたのは、"たまたま"その時に原子だか電子だかの配列がそうなったから。」
と。
ここにおいて、「私とBがあの時あの場所にいて、お互いを友達だと思って会話していた」に対する因果は、「その時に原子だか電子だかの配列がそうなったから」と決定づけられていたが、ではなぜ「原子だか電子だかの配列がそうなった」のかという事は、"偶然"、つまり決定論が否定する可能性や確率などの不確定事項ということになる。
決定論であれば、「世界生成のときの爆発が起こった際に起こった風が物質を飛ばす流れによってそうなった。」「なぜ爆発が起きたかと言えば...」というように、"たまたま"などという概念の入り込む隙はないはずである。
だから、私は決定論者ではなかったのだ。
7.
では私の使った、"たまたま"の正体は何なのだろうか。
それは、「興味の範疇外」である。
先の世界五分前仮説で言えば、5分前に世界が誕生したとして、私はどうしてここにいて、友人と思える相手とこうして会話をしているのだろうか、というところにまでは興味があって、理由を知りたいと思う。だから考えて、原子や分子の配列、電子の動きによって発生した現象であるかもしれないと考えたが、さらにその先の、どうしてそのように原子や分子が配列され、電子が動いたのか、という事についてはどうでもいい。私には関係がないし、興味もない。この、興味の範疇外を都合よく済ませる言葉が、「たまたま」であると思った。
また私は、「原子や分子の配列、電子の動きによって発生した現象であるかもしれない」と考えたが、これが可能性である。
可能性は、例えば未来のような、人間には不可算で、でも興味の範疇外として「たまたま」で片づけることができないものに対して予測をつけるためにある。
友人風に言えば、人間に考えうる限りの、すべての分岐する世界線のなかでこの私がどの世界に存在しているのかを知りたいという欲求のたどり着く先が可能性だ。
可能性というのは未来に対して使うことが多いように感じるが、たとえ決定論が正しくて、すべてが決まっていようとも人間には分からない未来に対して、こう決まっていてほしい、こう決まっているかもしれない、ならばこうしたいと志向するための希望の光である。
確率という概念は「分からなさ」の表出であり、未知を恐れる人間が、「確率」で分かった気になろうとしている、もしくは、知ることが可能な限り、限界まで知ろうとする努力のことだと思う。
知りえない、ということを頭で理解していても諦め切れなかった私たちの足掻きだ。
だから、私は、たとえ世界がすべて決まっていたとしても、どうでもいいやと思えるようになった。
「たまたま」でもいいし、「可能性」だっていい。どっちにするか、どっちにもしないかは、私が勝手に決めていいことなのだから。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?