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私の善
私は、よく「みんなが幸せでありますように」と心の中で唱える。
「みんな幸せだといいね」と口に出すこともある。
これは本心で、誰かが苦しむ世界は私にとって辛い。
みんな幸せならば私が嬉しい。嬉しいというよりも、安心する、に近い。
けれど、「みんなしあわせ」なんて実現し得ないことは分かっているし、現実的にかなう事とも思っていない。
それどころか、目に見えない遠くの国で起こる悲劇には目もくれず、募金をするでもなく、勉強をするでもなく、何もせずのうのうと生きている。
「みんな幸せでありますように」と心で唱えるたびに、私の心の中にはみんな幸せな世界が、ふわりと浮かぶ。
その安堵と心地よさで唱えているだけなのだ。
目の前に幸せでない人がいるときに、「みんな幸せでありますように」なんて願えない。
明日にはこの人が幸せになりますように、が精いっぱいだ。
私の視界に不幸が入ったから、一瞬だけ世界の不幸について勉強をした。
私の視界に不幸が入ったから、困っている人を放っておけない。
だけどそれは、あくまで「私の世界」に、不幸が存在してしまっているという事実を抹消したかったから行動しただけにすぎない。
もっと広い世界の不幸をきちんと拾って消していこうなんてことはできない。
何故なら解決できないことが分かっているし、できれば、他人の不幸を見たくない。自分が苦しくなってしまうから。
私の世界に不幸を感知しなければ、私の世界は「みんな幸せ」の世界でいられる。
私はそれを必死で守っているだけで、そんなに褒めてもらえるような、人間じゃないのだ。
褒められるたびに違和感があって、なんとなく居心地が悪い。
私は私のためにしか生きていなくて、それなのに。