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逆⇔中国大返し-その5-

栖賢寺
秀吉が亡君の弔い合戦に臨む決意を示すため、尼崎にある栖賢寺で自身の髻を切った逸話が有名
これで大義名分を民衆に知らしめることができた
摂津衆と合流する前に準備万全

栖賢寺は尼崎城から西へ800m先にあり、現在は廃寺 境内跡は別のいくつかお寺が建立されていた

ちなみに秀吉一行が尼崎へ到着したのは、6/11の夕刻であったらしい
髻を切ったのは、その日のうちか、6/12の翌朝か、どっちだろう?
宣伝プロモーションする上で公開する時間もまた重要
合戦前の宣伝のうまさで言えば、ある国のかつての軍隊のことを思い出した

一方、光秀は近江方面の攻略が一段落した9日、勅使下向の返礼と称して安土より上洛
光秀入京の際、公家や町衆が群がって出迎えたとか
光秀は吉田兼見を通じて朝廷に500枚、京都五山・大徳寺等を含むと700枚の銀子を献上し、さらに地子銭免除の特典を発行
前哨戦での秀吉vs光秀もいろいろあった

尼崎⇒兵庫
電車の場合、経由で約45分、約30km弱
高槻⇒尼崎間に似た近い距離間
改めて地図を見てみると尼崎より高槻まで行くなら伊丹経由の方がルート的に近いはず
ここまで(本能寺の変から6日目)くると作戦の優先度を速さより慎重さへと切り替えているようにもみえる

尼崎駅から阪神線に乗車、神戸三ノ宮でJR神戸線に乗り換え兵庫駅

兵庫城跡
荒木村重が信長に謀反を起こし、その征伐をした池田恒興が村重の後釜として摂津国の領主として入封
村重が居た花隈城には入城せず、1581年に兵庫津に築城 当時は天守もあったとか
秀吉は6/10夜にここ兵庫で充分に休息し、翌6月11日朝に出発したらしい

ここでの中国大返しに関する情報は宿泊したことしかわからなかった 
池田恒興の統治下なので、宿泊地として提供した=恒興はこの時点で秀吉側に付くと決めていたと考えられる
というか、秀吉は恒興が味方になるのはともかくとして『光秀側に付くことはない』という確証は何年も前から持っていたのかも

ちなみに現地にあった案内板によると、兵庫城跡地は明治時代に兵庫県庁を建立
その兵庫県庁に伊藤博文が初代内閣総理大臣になる以前、初代知事として1年間赴任したらしい
今は住宅やショッピングモールが立ち並び
跡形もないが、他にも平清盛が遷都とした福原京もあったりと史跡として色々と凄いところ

米澤穂信著 黒牢城
本能寺の変から4年前
荒木村重を取り巻く有岡城内で起こった事件をテーマにしたミステリー小説 秀吉や光秀とはどう関わりがあったのかとか村重の人となりについては、今回とは別にいつか掘り下げて調べてみたいと思っている

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