城ねこの探訪
『逆⇔神君伊賀越え』に続く『逆⇔シリーズ』第2弾 本能寺から居城の亀山城まで逆の道のりを辿る、総距離20kmの道のりを挑戦
本能寺の変の黒幕は豊臣秀吉だったのか!? 岡山・備中高松から京都・山崎まで総距離200kmの逆の道のりを辿り、真相に迫る『逆⇔シリーズ』最終の第3弾
いろんなところへ謁見、発見
功徳と本を積む/ブックレビュー
ご当地の食べ物/ほぼ、早い、ウマい、安い
逆⇔中国大返し-まとめ- 1日目⇒山崎古戦場~姫路城108km 2日目⇒姫路城~備中高松城92km 秀吉が本能寺の変の黒幕かどうか辿って調べる前は怪しいとみていた ところが、最後まで調べてみて想像を超える行動力と実績を残していたことがわかり想定外連発 結果としてまさかの黒幕否定説に考えに覆った 改めて一連を振り返ってみて、中国大返しからの山崎の戦いは、日本史上屈指の戦であり、ここだけ切り取るのならば秀吉は最も勇敢な武将としてもっと賞賛されるべきとすら思った だが、そ
備中高松城 沼城を出発して約30分後、最上稲荷の大鳥居(1972年建立)をくぐり、目的地に到着 同時に200kmの旅路もこれでゴール(2023/10/8 15:40) この史跡の訪問は縁あって今回で5回目 訪れる時はいつも晴れていたものの、この時は小雨で合戦当時に近い天候を若干体感できた 高松城の水攻め 忍城の戦い、太田城の戦いとともに「日本三大水攻め」の1つとして知られている 堤防の工事には士卒や農民らを動員 高額な報酬を与えることにより東南約4kmの堤防は12
亀山城(沼城)⇒備中高松城 約20km強の距離 車で30分程度、徒歩の場合6h強 備中高松城の方が緯度が高く、もっと北部にあると思っていたが地図で見るとほぼ同一 半日で移動可能な距離だが、 備中高松城発は①6/4午後説、②6/6未明説とあり、 ①の場合、野殿で野営したとも云われている 光秀の密使 光秀が毛利氏に向けて送った密使を秀吉側が6/3夜〜4未明に捕縛して本能寺の変をいち早く知ったことは有名な話だが、その捕縛した場所が野殿に近い庭瀬だったらしい 備中高松の目前
船坂峠⇒沼城(亀山城) 次は宇喜多直家のかつての居城へ 約30kmの道のり 車で30分強、徒歩8時間半強 今更ながら徒歩より約17倍の速さで辿り着ける車ってやっぱり凄い 中国大返しから今日まで442年という年月が経過したが、人類の進化を実感する と言いつつ、信長より30歳上回り、現代まで生息しているサメもまた凄い 沼城(亀山城) 秀吉軍が備中高松城の陣を引き払って撤退し、中国大返しを開始してから最初の休憩ポイント 宇喜多直家が14年間居城し、嫡男秀家にとっては生
姫路⇒岡山 70kmの距離を新幹線でたった20分程度で移動 秀吉たちが生きた時代から考えると言葉にならない 探索2日目はレンタカーでの移動がメイン あいにく岡山駅付近はずいぶん前から予約が埋まっていて、赤穂線に乗り替えてレンタカーを借りに隣町の瀬戸内市へ 大多羅駅 レンタカーを借りに通過した大多羅駅は、 空気階段の水川かたまりさんの生家がある最寄り駅 無人駅で特に何もなかった おおだら、、!? ダイダラ、、、 だから、 よく昔話で登場する「ダイダラボッチ」の伝
2日目くもり 後半いよいよ開始 姫路城 秀吉の中国攻め以前は姫山城といい、黒田官兵衛の居城だった 1577年の秀吉の播磨着陣の際、官兵衛より秀吉に献上し、秀吉の拠点となった 中国大返しの際、浅野長政を留守居役として毛利家の追い討ちに備えていたらしい 江戸時代に入るとかつて尼崎城主だった池田輝政が紆余曲折を経て入城 現在ある現存天守の通り大規模な城郭へと拡張 今や世界遺産 そして訪城するときはなぜかいつも曇り 秀吉は播磨と摂津国境付近に岩屋砦を普請するよう指
明石⇒ 的形 中国大返しが1日30kmというなら庶民の徒歩レベルでも難しくない が、甲冑や武器を携帯するなら話しは別 で、海運を利用して武具等運んだらしい その搬入口がこの的形(姫路) 継いで兵庫津→武庫泊(尼崎)→最後は陸路と水路で高槻に搬出 見事なロジスティック 的形駅17:55到着 逆⇔中国大返しを決行したのは、2023/10/7 辺りはもう真っ暗 対して、秀吉たちが中国大返しで的形を経由したときは西暦だと7/1頃 日は長かったかもしれないが梅雨の時期
兵庫⇒明石 電車では、約20分、徒歩5h強、約20km弱の距離 以前紹介した家康の伊賀越え、光秀の本能寺の変の行軍は1里(4km)単位で進んでいるのに対して、秀吉軍は約5倍以上の速さで進んでいる 実際に通ってみると、直線のひら道なのでこのルートはかなり歩きやすかった 明石城 古来より交通の要衝であったものの、この城は、中国大返しの時はまだ存在せず 江戸時代に入ってから徳川幕府が姫路城に次ぐ西国の外様大名の抑えの城として築城した 現在はJR明石駅北側に位置し、駅ホ
栖賢寺 秀吉が亡君の弔い合戦に臨む決意を示すため、尼崎にある栖賢寺で自身の髻を切った逸話が有名 これで大義名分を民衆に知らしめることができた 摂津衆と合流する前に準備万全 栖賢寺は尼崎城から西へ800m先にあり、現在は廃寺 境内跡は別のいくつかお寺が建立されていた ちなみに秀吉一行が尼崎へ到着したのは、6/11の夕刻であったらしい 髻を切ったのは、その日のうちか、6/12の翌朝か、どっちだろう? 宣伝プロモーションする上で公開する時間もまた重要 合戦前の宣伝の
高槻城(富田) ⇒尼崎城 電車の場合、梅田経由で約1時間、30km強 実際には秀吉が野営した富田は茨木城と高槻城のほぼ中間地点で徒歩の場合、淀川を渡河せず約23km このルートを1日かけ、秀吉は信長の弔い合戦を「宣伝」 摂津の武将を味方に引き入れる"情報戦"をしていたそう 尼崎城 本能寺の変が起きた当時、城主は池田輝政 だが、秀吉が尼崎へ着陣した時、織田家古参の父である恒興はまだ有岡城に在城 丹羽長秀、神戸信孝らもここでの面会はなかったとか 恒興らが秀吉と合流し
山崎合戦古戦場⇒高槻城(富田) 山崎合戦での明智軍の敗因 兵力差がみ挙げられるが後方から柴田勝家らが攻めてくることを警戒して合戦に全兵力集中できなかったことも大きな要因だったようだ 次は山城、摂津の国境を越え高槻城へ およそ10kmのルートを電車で約10分 徒歩3h弱 高槻城(富田) 光秀との合戦前、大詰めを迎えたこの地は、 西国街道から南に位置し、庶民も往来する 交通の要所 また、お伊勢詣りやお遍路など巡礼者も行き交う道でもあったとか まさに天下の趨勢を見極める情報
天王山 秀吉側の本陣側にあり、合戦時は天王山山頂(標高270m)には、黒田官兵衛と秀吉の弟、秀長が入っていたそう たしかにここからの景色なら一望できて戦局がわかりやすい ※写真は、今回の逆⇔中国大返しの道中ではなく、もっと前の別日に撮影 勝竜寺城跡 もともとは細川幽斎の城で、息子の忠興と光秀の娘ガラシャ(玉)が本能寺の変前年まで居城していた 山崎合戦で敗走した光秀は、勝龍寺城でいったん籠城するも秀吉軍の追撃を受け、北門から脱出 本来の拠点である近江坂本城へ逃走する
1日目 山崎合戦古戦場 1582年6月13日、「本能寺の変」を受け、備中高松城の攻防戦から引き返した秀吉と光秀」が激突した古戦場 いったん秀吉陣地跡側のJR山崎駅で下車 阪急京都線に乗り換え、西山天王山駅から徒歩で、古戦場の碑のある天王山夢ほたる公園に到着 古戦場跡は互いの本陣から中間に位置し、ここを中心として半径2km内で攻防が行われたそう JR東海道本線長岡京駅⇆山崎駅間沿いがまさに激戦地 もともと交通の要所だったとはいえ、全く知らずに自身が通過していたこと
本能寺跡⇆亀山城「光秀の本能寺の変」のルートを辿った終わったその日 帰宅する新幹線に乗車まで時間があったため、京都市内にある「豊国廟」へ立ち寄ることにした そこで「逆⇔中国大返し」に入るにあたり秀吉のお墓周辺について少しふれてみようと思う 豊国廟は京都駅から東に3km弱程の所に位置し、京都女子大の裏山にあたる 北側に清水寺があり、その間辺りが「光る君へ」でも舞台となった"鳥辺野" 平安時代以来、葬送の地として源氏物語等で登場し、藤原道長もここで荼毘に付されたそう 他に
「家康の神君伊賀越え」、「光秀の本能寺の変」に続き、「秀吉の中国大返し」を逆ルートを2023年10月7日、8日の2日間に渡って辿ってみました。 電車と車と徒歩で約200kmの旅路。 どんな発見があったのか、近日、公開スタート予定です。
小説現代2022.12月号 講談社発行 お笑い芸人の吉住さんが以前同誌に短編『そそぐ』を出していたことを知り、バックナンバーを購入 アイドルに向けて純粋に情熱的に励行する登場人物らの畳み掛ける悍ましさ にじり寄るかの如く怪異な笑いが迫りくる 小説を読みながらコントを観ているようだった #読了