逆⇔中国大返し-その8-
2日目くもり
後半いよいよ開始
姫路城
秀吉の中国攻め以前は姫山城といい、黒田官兵衛の居城だった
1577年の秀吉の播磨着陣の際、官兵衛より秀吉に献上し、秀吉の拠点となった
中国大返しの際、浅野長政を留守居役として毛利家の追い討ちに備えていたらしい
江戸時代に入るとかつて尼崎城主だった池田輝政が紆余曲折を経て入城
現在ある現存天守の通り大規模な城郭へと拡張
今や世界遺産
そして訪城するときはなぜかいつも曇り
秀吉は播磨と摂津国境付近に岩屋砦を普請するよう指示した記録もあるとか 光秀が摂津も越えて攻めてくることを警戒しての対策だったらしい
「岩屋」というと淡路島にある城かと思ったら加東市にもあった
たしかに地図を見ると山陽道からだけでなく福知山城から光秀の別動隊が攻めてきてもおかしくない
本拠地姫路城に到着した秀吉軍は、6/9朝まで滞留
休養にあてた一日、秀吉は城内に備蓄していた金銭・米穀の数量を身分に応じて配下の将兵に悉く分与したとか
これで籠城の選択はないということはわかるが、かといってこの時点で背水の陣の覚悟かは疑問が湧いた
というのは、中国大返しをしながら同時に山陰、山陽どちらでも海へ逃げるためのルートを作っていたようにみえるからだ
山陽は、前述の通り淡路は再平定、山陰は鳥取は平定済でいざとなれば海へ逃げられる上で、光秀との対決を姫路で決定したように思う
ちなみに丹後の大名、細川藤孝は本能寺の変翌日、「信長の喪に服す」と称して剃髪し、光秀方に与することをさっさと拒否
中立を保ってはいたが、姫路に到着する前から秀吉と連絡は取っていたとか とすると、秀吉方は藤孝の居る丹後田辺城経由で日本海を渡り北陸へ脱出するルートも考えていたかも
写真の通り、秀吉は緊急時用の海上ルートが多数あるのに対して光秀は全くない
このあたりふたりが全く違った価値観で戦略を立てていた一例としてみることができて面白い
秀吉と光秀の年齢差をみると10才以上も離れている
そういう意味では、世代交代の戦いとしてもさらにみることもできるかとも思う
兵庫県
まねきのえきそば
天ぷらえきそば
JR姫路駅構内にある立ち食いそば屋 麺は、『蕎麦』ではなく、カンスイを使用した中華そば(ラーメン)用の麺
つゆは蕎麦用の出汁、天ぷらは具のないサクサク感ゼロの揚げ玉の集合体
天ぷらそばの姿をしたハイブリッドな逸品
姫路駅前付近にあった郵便ポスト サイドには歴代城主八家の家紋が掲載
井伊家を除く徳川四天王の子孫が江戸時代に城主になっていたことに気づく そう言えば彦根城ふきんにはたしか天守が郵便ポストの上に乗っかっているモノを見たことを思い出した