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心地よい関係は、人と人の中間地点にあるのかもしれない

自分にとっての100点と、相手にとっての100点はぜんぜんちがくて、自分だけが100点を目指そうとしてもうまくいかないし、相手の100点を叶えてあげるだけなのも、自分の人生を生きていないみたいになる。

どちらかというとわたしは、相手のことを考えていたようにも思うけど、外せないところは首を縦にはふらない頑固なところもあって、相手がどうだったかはさておき、自分としては無理のない範囲でやってきた。気がする。

でも、ときどき、自分の本心から相手のことを考えていたはずなのに、だんだん息切れしてしまうことがあって、やっぱり自分か相手か、じゃだめなんだろうなと思った。

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目の前の人を思うとき、その人の力になりたいと思ったとき、わたしは進んで、全部の気持ちを相手に傾けてしまうようなところがきっとある。相手のことばかり考えすぎて、自分の心を無色透明にしてしまうのだ。でもいつか、相手が望んでいると思ったことをただしているだけの自分に、違和感を持ってしまう。


わたしが好き勝手にやったことなのに、いつの間にかわたしの心が望んでいないのだ。でもふたたび相手の方に向き直って、その人の気持ちに共感しきってしまうと、嫌な気持ちもなく、むしろ困っているなら仕方ないね、と自然に相手のことばかりになってしまう。

反対に、自分のことを考え始めたら、100%自分のやりたいようにしかできなくなる。自分としてはまわりのことを考えているつもりでも、振り返ってみると、自己中心的すぎたなと思うことがあって、そういうときは、半ば無意識に自分ばかりになっているのだろう。

人間関係に50点や50%がほしいのに、やけに極端だ。

きっと、思いを込めて、何かを伝えて、わかってもらうという過程をすっとばして、自分の気持ち0%か100%しか考えていないわたしが悪いのだと思う。

「伝える」ところから、50点と50%ははじまるのだ。だって、私の中の選択には、0か100かしかないし、50がどこかもわからない。なぜかというと、相手の0と100がわからないから。

これは、どんな人間関係でも同じはずなのに、家族や恋人との関係になった途端うまくできないのは、人間関係が近しければ近しいほど、「伝える」という行為があまりにも重要で、でも同じように難しいからかなと思った。

あとは、過ごす時間の長さや親密さによるところもあるのだろう。別に過ごす時間が短ければ、少しの間だけ我慢するか、それでも無理だったら距離を置いたらいいのだけど、家族や恋人とはそうもいかない。我慢にも限界があるし、距離を置くにしても、その関係性の中途半端さに白黒つけたくなるのだ。

まあそもそも、我慢も、距離を置くのも、50点にすることができているわけではなくて、どちらかの100点しか目指せない状態に、無理やり折り合いをつけているにすぎないのだ。

好意は相手の100点に合わせることじゃないし、自分の100点に合わせてもらうことでもない。
でも、なんとなく、好意や思いやりゆえに、どちらかだけの意思で関係性が支配されてしまうことって、結構よくある話、な気がしている。そして、ずっとどちらかかが0点で、どちらかが100点になっちゃうから、だんだん息苦しくなるのだろう。

もしくは、お互いがずっと相手のためだと思い合っていて、でも本当の相手のためをわかっていないために、こんがらがっちゃうこともあるのかな。

とにかく、目の前の相手と自分の0点から100点まで交換して、50点を探っていけるようになりたい。そのためにはまず、自分の0点から100点を相手に建設的に届けないといけないし、そのためには自分のことをちゃんとわかっていないといけない。
そして、相手の0点から100点をちゃんと引き出して、受け止めることも必要なんだろうな。

こういうのが何も考えずにできちゃう関係を「相性がいい」っていうのかもしれない、とふと思った。


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