【義胸を買った】左胸ちゃんの再就職に向けて
ここ2週間ほどひどい鼻づまりでぐっすり眠れていなかった。
そのせいでいつも以上にボーッとしていた。
いや,そのせいだけでなく,月曜深夜にスウェーデンから大荷物で帰ってきて(16キロのトランク,4キロのトートバッグ,7キロくらいのリュック,あと蚤の市系の可愛い陶器を手荷物で運ぶための頑丈紙袋,5キロくらいか?の計4つ),翌朝からできるだけ何食わぬ顔で仕事をしようとするトライアルを続けたので,時差ボケと疲れもあってボーッと具合は点滴での抗がん剤治療中に匹敵するほどだったかもしれない。
その流れで家の鍵を落として,それにまつわり東奔西走した。鍵をなくしたことに気づいたのが夜だったので管理会社が直接対応してくれず,緊急手配のホテル宿泊となった。夜中の11時にファミマで黒Tシャツ,黒ショーツ,ピンク靴下, クレンジングシート,水1リットルを購入してススキノの,指定されたホテルまで自転車をこいで行った。
なんて日なんだ
鼻づまりは続いているが耳鼻科に行く暇はなかった。
金曜は仕事で研究に関するプレゼンがある。管理会社の対応時間は1人暮らしの勤め人にとっては非常に限られている(平日10:00-17:00)。にもかかわらず,容赦なく合い鍵も「貸してやるけど営業時間中に取りに来い」という。
ボーッとした頭でもなんとか計画を立てた。
朝:大学〜家の道をもう一度見直す,捨てたゴミとゴミ置き場の周辺も
昼まで:プレゼンリハ,リサーチ,その他仕事
昼から夕方:会議に出てプレゼン,急ぎの用を片付けて(いつもなら土日にまわすが今週末は職場全体が停電のため後回しにできないものだけ),管理会社へ17:00に間に合うように自転車で行った。鍵を受け取り,その足で合い鍵屋へ。合い鍵作っちゃダメときいてたが,今回は「入居者様ご自身で作って,できたらこちらを返却ください」という。なんだ,作っていいのか。と思って2本注文した。
夜は20:00からオンラインカウンセリング。(私がする方,つまり仕事)
その前に,あまりに空腹でくたくたにつかれていたのと,帰国してからまだスーパーに行けてなかったのとで,自分を励ましながらコープに寄って帰った。19:00に,無農薬にんじんとりんごが届いた。R君が以前から手配してくれていたもの。「帰国する週に届くようにするから」と,私が健康的な食生活を持続できるように考えて送ってくれているものである。これも受け取り,冷蔵庫に入れなくてはならない。
ミッション一つ一つは簡単そうなことでも,たくさん重なると全部の些細なことが大変になる。
落ち着け落ち着け・・・と自分に言い聞かせながら
アボカド・納豆・トマト・カツオのたたき等,ご飯,味噌汁を用意して食べた。急激に眠くなってきたが寝落ちしないようにタイマーをかけて数分だけマットの上で横になる。
それから仕事。1時間5分,大変な人の話を聴き,いろいろ問いかける,考える。
カウンセリングは不思議な仕事だ。私自身がどんなに疲れていても大変でも,そのとき身体を縦にして相手の話を聴く意思と体力さえあればできる。集中するからか頭が疲れるけど,終わったあと気持ちは前向きだし身体はなんとなく活性化している。
明日は自分のセルフケアだ。
と思いながらなんとかお風呂に入って,汗をかいてから寝た。
相変わらずひどい鼻づまりで,何度も目が覚めた。
翌朝(土曜日),耳鼻科に行った。
起きて,にんじんりんごジュースを作って飲んで,自転車に乗って。
混むと聞いてついでに何か用事をしてやろうと思い,クリーニングに出そうと思っていた服の袋も担いで行った。
初めて行く耳鼻科(近くでレビューがまあいいところ),幼少から耳鼻科にお世話になりっぱなしなので(軽い難聴,耳管解放症,中耳炎,外耳炎,扁桃腺炎,鼻中隔狭窄など),耳鼻科に行くのは,やり方をよく知ってる競技に参加するような感じでまあ,初めて行く所だとしてもリラックスして行ける。
行ったらすいてるように見えたけどめちゃ込みすぎで60~90分待ち,みんな自分の順番がくるまでどこかに行ってるらしい。
私はまあへとへとだったので,もうそこで何分でも待つことにした。その決断を大きく後押ししたのは,ソファの角っこ,しかも本棚を前にしたせまい隅っこの場所に坐れたことと,その本棚にちょっと読むのにちょうど良さそうな漫画が揃っていたためである。
見たことのある漫画もあったが,あえて全然見たことがなかった少女漫画にした。友達がいなくて暗くて貞子と呼ばれる高校生女子(コミュニケーションは得意ではない様子,成績はよく,損得勘定をしない,人から言われたことも字義通りに受け取りやすい,正直者…職業病で見立てると>>IQとASD傾向が高め、という特性あり、暖かい家庭で育ったためか,泣いたり悩んだりしても根本的には世界も自分自身も前向きに捉えていて健康度が高い)と,友達がたくさんいてもてすぎて揉めるから誰も告白しないようにしようという協定ができたほどの男子(とにかく爽やかな名前だったが,なんだったっけ)の恋愛ストーリーだった。
ボーッとした頭でストーリーを追う。いやなやつが出て来たときは警戒心が高まる。とにかくうまくいってくれ,ややこしい話にならなくていいんだ。
5冊くらい読んだところで名前を呼ばれた。
80分くらい経っていた。80分って,漫画5冊しか読めないのか。
ともかくこの2週間待ちわびた耳鼻科にやっと来られた。
期待して診察室に入るとM先生は静かに丁寧に話す方だった。
耳の中の写真はきれいで耳垢もない。
鼻の中を見てものすごく詰まってるけどほっぺたは痛くない?というので
"痛くない,ほっぺたが痛いという意味も分からない"と言った。
M先生は一応レントゲンを撮りますので,移動してくださいと言った。
"分かりました,鼻の処置はしていただけますか?"と私は言った。
M先生は処置したらくしゃみが出るけどいいですか?と言った。
(いいに決まってる,私はこれを2週間待っていたのだ)
M先生の処置はなかなか上手かった
(とれない鼻水を吸うために長い管が鼻の中に入れられる行程があるのだが
これ,ときどきすっごく下手な人とかすっごく上手い人とかいるのだ)
2週間ぶりに鼻が奥まですっきりして,私は機嫌がよくなった(セルフケアのたまもの。私のおかげで私の機嫌がよくなる)
なかなか,この日記は義胸までたどり着かない。
レントゲンの結果,私の鼻水はほっぺたの方には溜まってなかった。
つまり蓄膿ではなかったということらしい。
色々と薬を処方してもらった。ああ耳鼻科に来られて本当に良かった。
このあと更に,薬局,うどん屋木の葉天狗,クリーニング屋,大学に寄って冷蔵庫のものと楽器を回収してから,義胸屋に行った。
長くなりすぎるので間を割愛して義胸屋の話に移る。
私が義胸屋というのは,ワコールの乳がん手術後対応下着ブランド,リマンマのことである。
リマンマ のリはRe, 再び,みたいな意味だろう
マンマは赤ちゃんの言葉でごはん≒おっぱい,という意味かもしれない
つまり「おっぱい再び」という意味のお店だと思っていただいて差し支えない(私見ですが)。
昨年の5月末に右胸の切除手術を受け,6月初旬に退院した日に,
初めてリマンマに行った。
そのときは,このリンクに記載されてる「術後間もない方用」のブラウンとピンクを買った。3ヶ月くらい経って傷口の痛みが減ってきたら,もう少ししっかりしたブラジャーに買い換えるのがおすすめ,とのことだったが,
私はもう1年以上,この「術後間もない方用」のブラ2枚だけでやりくりしてきた。
その結果どうなったか?
ブラのサイズが変わってしまった。
サイズが変わったと言っても,そもそも片方,おっぱいがなくなったんだから,もうサイズも何もないでしょ?いま頃,何言ってるの?
おっぱいが揃っている人たちは,そう思うかもしれない。
しかしそんなことはない。
私にだって,もう一つのお胸がある。
(ちなみに,この「お胸」という呼び方は主治医のまね。私は所構わず「おっぱい」と呼んでいたが,あまり人前では「おっぱい」という言葉を言わない方がいいみたいな空気をちょっと感じるので,
主治医の使用ワードである「お胸」を自分の語彙に取り入れた)
とにかく取り去られた右胸ばかりにフォーカスが行きがちだが,
まあちょっと,いちど立ち止まって私の左胸の気持ちを考えてみよう。
ビシッとしたブラデリスF-G70の中で過不足なく平和に収まりふんわりとおっぱいらしさを提示するという仕事を誇らしげに果たしていた私の左胸。
その仕事が突然奪われ,「リマンマじゅつごまもない方用」というほとんど包帯以下のホールド能力しかない下着の中でゆらゆら適当に遊んどいてくれ,無期限だ,理由は聞かないでくれ。と言われた(かのような)私の左胸の気持ちを。
突然の変化に遭遇したのは,右胸も同じだったのではないか,という意見もあるかもしれない。しかし私は,右胸に関して言えば,がんを内包した時点で,この出来事の受け止め方は左胸とは異なっていたと思う。
それは,反逆群に乗っ取られた乗り物は誰のものか?と考えるようなものである。
乗っ取られて乗り物ごと取り去られた,私の右胸。
あいつは何も言わなかったから,気持ちはついぞ分からないままだが,
少なくとも右胸自身はここ2-3年,「何か異変が生じている」ことには,
ひそかに,しかし確実に,気がついていただろう。
そう,私の右胸はがんの発生を知っていて,
(胸だけに)その秘密を胸に秘めていたのだ。
それは私の身体全体を守るためだったかもしれない。
私の右胸ちゃんはインベーダー(がん)の発生と増殖を誰にも知らせず,
一人で抱え込み,他器官に助けを求めることも,
警告することもできないままひとりで乗っ取られた。
晩年はあきらめと裏切りを内包したような気持ちで,日々の労働(ブラの中に平和に収まりふんわりとおっぱいらしさを提示する業務)に従事していたのかもしれない。
胸の擬人化が過ぎる?
まあ、もう少しだけ続けさせてください、
なんせ右胸が何かの病気の当事者で失われた存在であり,左胸はそのきょうだい児のように感じられるのである。
右胸ちゃんは連れて行かれた。
がんから私達全体を守って,犠牲になった。
しかしその左に残された左胸ちゃんはどうだろう?
右胸と対になっていたばっかりに,いつもの生活を奪われたまま,ろくに説明も受けず,
いつまでこの使い古したパジャマみたいなブラジャーの中,さらにぶかぶかの服で隠されていればいいんだろうか。
この子にいちどちゃんとした説明と,
そろそろ新しい生活への手助けをしてやってもいいのではないか?
左胸ちゃんは別になんの病気にもかかっていない。健康な乳房なのにもかかわらず,
右胸ちゃんがいなくなったというだけの理由で,
私はこれまで左胸も胸扱いしてこなかったのだ。
なんなら右胸ちゃんがいなきゃ左胸ちゃんなんていても意味ない,
こんなのおっぱいじゃない,ただのこぶとり爺さんのようなこぶだ,
いなくなった方が,いっそすっきりするはずだ…なんて思ったことが,
一度や二度,無かったとは言い切れない。(ごめん,左胸ちゃん)
というわけで,久し振りにリマンマに行ってKさんに採寸してもらったら,アンダーバストが70から75に増えていた。
ショックである。
また,リマンマのブラはそもそもEまでしかないということ,
アンダーが増えたこと,ならびに左胸ちゃんも1年以上「じゅつごの方用」の煎餅布団みたいな中でのんべんだらりとしていたせいか,
DかEで大丈夫なんじゃないかと,採寸したKさんは言うのだった。
しかし私は,私の胸というのは平素はのんべんだらりとしているように見えて,しかるべきブラの中に入れると立派にふるまうことを知っていたので,注意深く試着を繰り返し,左胸ちゃんはどんな仕事がしたいのか,またできそうなのか,再就職の意向を聞くかのように調べていった。
その結果,元々右胸ちゃんがいたところにはシリコンの200gほどのパットを入れることに決まり,ブラはワイヤー入り,カップはE,フルでなく3/4にした。
これはつまり,左胸ちゃんが過去の最前線の仕事までは行かずとも,
8割方,前職に近い職業に復帰する意思を示したということである。
シリコン200gというパットは,私の右胸の代用品だ。それは義足や義眼のようなものだ。
(私のじいちゃんは義眼と入れ歯を外して就寝したものだ,私はその横に,私の義胸を置いて眠りたい)
ぎりぎり目ん玉が飛び出ない程度には高額だったが(私見です),
私はそれを私に買ってあげた。
私の左胸ちゃんの再就職祝いだ。
パットにはメッシュの少し安いのや,シリコンでも3/4カップ用とフルカップ用があった。サイズも1から6まで色々あり,左右の形を作り分けたものもあれば,左右どちらでも入れられる二等辺三角形に近い形のもあった。色々付けてみて,値段のことも気になり迷ったが,
俺ぁよくわかんねぇけど,ちゃんと試してみて,
いちばん,本当にお前がいっちはん,いいと思うやつにしな。これから毎日使うんだからよ。
自己内の,江戸っ子親父キャラの人がそう言ってくれたので,
私は遠慮するのをやめて,お金の心配もいったん置いて,Kさんと相談しながら,
一番自分が落ち着く形と付け心地になるものを探した。
Kさんは,同じものでも,違うものでも,
どれでも何度でも試させてくれた。
私が「すみません,お手数かけます」と恐縮するたび,「何回でも試してみてください。納得するのが大事だから」とKさんは言うのだった。
がん治療で「本人の納得」という言葉は何回も出て来たが,
患者がそもそも,あきらめるものがほとんどで,
満足など得られない条件しかない中,
何とか「納得」という感覚に辿り着くために,
こんな風に,誰かが辛抱強く,相談につき合ってくれることは,
とても必要で有効なことなのだと分かった。
おかげで,新しいちゃんとした下着を選ぶことができた。
初めて来た日は,「術後間もない方用」のブラと,ふわふわした綿でできているパットを二つ買って帰った。
退院した日に電車に乗って来たから,
まだ身体は痛くて,油断したら泣きそうだった。
それから今まで,えぐれた胸、大きな傷、乳房切除とリンパ廓清後に動きづらくなった腕、
感覚もなくなった右胸周辺の皮膚、放射線治療で黒ずんだ箇所、ホルモン治療開始後に増強した肩凝りで前屈みになった姿勢、体重増加などなどの悪条件に囲まれ、私は自分のおっぱいについては,「今更,なんのために,誰のためについてるんだろう」
くらいに,ただそこにいて捨てられる日を待つだけの粗大ごみのように,余計なもののように思うようになっていた。
ブラも使い古して,何度も洗った綿のパットもどんどん縮んできていた。
職場でトイレに立ったときなどに鏡を見ると,かるい綿のパットは実際の胸の位置から大きく上にずれて,それもなんだかぺったんこになっていた。
それでも自分は悲しいとも思わず,ただぼんやり
(なんだかなあ・こんなんじゃなかったんだけどなあ・なんなんだろうなあ)と思うだけだった。
そんな心境から,心機一転,
久し振りに採寸してもらって,ブラを新しくしてみよう,
右胸の位置に入れるものも,もう少しきちんとしたものを探してみよう,
そう思えたきっかけは何だったんだろう。
これまでの私は,私の右胸や,髪の毛や,女性ホルモンに満ちていた頃のしなやかでみずみずしい身体や,よく眠れて便秘知らず,太ることもなかった苦労知らずの状態(つまり”若くて健康”という状態)が、一度に失われたことを悼み,喪に服しているかのようだった。
こんな風な(元の自分に戻りたがるような種類の)
ブラやパットを買おうとは,少しも思いつかなかった。
そういうことを目指すのは,余計に悲しくてバカなことだと思っていた。
何も望まず,術後まもない方用のブラを胸にあてて,
大きめのトップスを着ていれば,誰も私の胸なんか気にしない。私も気にしない。気にならない。そんな風に思ってたんだ。
だけど,なぜかここ最近,
左胸ちゃんをきょうだい児のようにいたわる気持ちが芽生えた。
左胸ちゃんに,以前と同じようにはいかないとしても,出来る範囲で美しい形,姿勢でいられるようなサポートを,手に入れてやりたいと思うようになってきていた。
帰り道,自転車をこいでたら,なんだかぎしぎしする。
降りて調べると,後ろのタイヤがパンクしていた。
(ああ疲れた)
と私は思った。
(いろんなことがあって疲れた)
(今日は耳鼻科とリマンマしか行けなかった)
たしかに,そう私は思った。
だけど,あとで振り返ってこうして書いてみると,まあまあ色んな事できた方じゃないか,と思える。
耳鼻科に行けたおかげで鼻は通って快適になった。
ちゃんと鼻呼吸できるようになって,しっかり眠れるようになった。
クリーニング屋にも行けたし,夏しか開いてないうどん屋にも行けた。
なにより今回,リマンマに行ったのは,
なくなった方の胸のためではなくて,残っている胸のためだった。
残っている方の胸が胸らしく見えることをサポートするために,対になる右側に,200gというある程度の重量を持つシリコンパッドを買った。
きれいな形でまあまあ好きになれそうなデザインのブラジャーを買った。
それはこれから,この身体で生きていく自分のためだ。
左胸に合わせて下着を選んだのは,
私がこれからは,自分のことを病人扱いしない
周囲の人から病人扱いしてもらうことも求めない
という決意でもあるような気がする。
不具合を元に戻すという作業は,
そもそも不具合が無ければ必要のない行程で,
あまり生産的ではないかもしれない。
耳鼻科も下着購入も,ただの不具合の復旧ではあるが,
それができたことは,私にとって良かった。
自分で自分の話をよくきいてやることができた。
自分に親切にすることができた。
失ったもののことでなく,
残されたもののことを考えて行動することができた。