2024年のわたしに向けて、手紙のような祈りを。
クリスマスも過ぎてすっかり年末ですね。
2023年の終わりという事で、なんとなく徒然に2024年に向けて、いま想うところを書いてみようと思った。
めっちゃ個人的な散文です、すみません。
最近見たwebCMで茨木のり子さんの詩が音読されていて、その素晴らしさに改めていかずちを食らったような衝撃を受け、唸ってしまった。
『自分の感受性くらい』という詩。
引用をどれくらいしていいのか分からないので、もしかしたら長すぎるのかもですが……。本当にめちゃくちゃに刺さる。
これは茨木のり子さんが他者に対して発したものという訳でなく、ご自分へ喝を入れるべく書かれた詩のようなのですが、
とても、とても、身につまされます。
時代が違うとか、なんだとか、言い訳できない、
人間としてひとりで凛と立つための、尊厳に満ちた言葉の数々に、うちのめされる。
なにかいやなことが起こると、
誰のせいとか周りのせいとか会社のせいとか
景気のせいとか時代のせいとか……、
私たちはつい言ってしまいだが。
己を顧みて、その行いを、自身の心の在りようを、本当は自分でいくらでも良いものにしようと努力したり、
他者から付けられた傷でさえ己の心の在りよういかんで、いくらでも建て直したり、
わたしたちはできるのに、
誰かのせいに責任転嫁しようとしていないか。
そうして、楽をしようとしていないか。
わたしが選んで、
わたし自身が他のだれでもなく自分で人生の手綱を握って、
自分の人生を生きている限りにおいては、
その周辺で起きたことに対して、自分の感受性くらい、自分の感情くらい、自分自身で守れ。
と。
本当にそうだよな、と思う。
実際、いやなことされれば凹むし、理不尽に傷つけられることも、不条理な差別も生まれながらの不幸もあるし、
そりゃ常にご機嫌ではいられないけど。
少なくとも、
わたしの心を守るために、わたしは最善を尽くしたのかと、
わたし自身をつねに充分にケアして、他人のせいにせず胸を張って自分のこころを大切にしてきたのかと、
省みることは、とても大事だと思う。
誰かの幸せが妬ましく感じるなら、それは自分の甘えた言い訳にすぎないと、私は思う。
だから私はあまり誰かを妬ましいと思った事がない。
いや、違った。
私は昔、ある人の事をめちゃくちゃ壮絶に羨ましく妬ましく思った。
でもある時ガツンとその感情が甘えた言い訳だと思い知らされて、
それ以降、他者を妬ましいと思わなくなった。
中学高校の多感な6年間程、両親の愛を集中的に受ける姉のことが凄く羨ましくて、
ずっとずっとそれはもうめちゃくちゃに妬んで生きてきて、
(https://note.com/shirokumalove/n/n90a6a6fe14bc ←最後らへん参照)
大学になって親元を離れてようやく圧迫や過干渉から逃れられたから、
初めてそこで、自分の感情の形や、自身の感受性のあり方がわかって、
自己肯定感というものが少しずつ分かりかけてきた。
それまで何ひとつも歪んだ所を心に生むことなく大切に育てられたんだろうなという人や
生まれ持って自己肯定感高そうな人が、無邪気にのびのびと自由に振舞うのを見るたびに、
心のどこかで
「よかったですね。あなたはそういう事が認められる親御さんの下で育てられたんですね、幸せですね。でも私はそうじゃないんです。
悲しいけど歪んだ所がたくさんある人間だから、あなたのような幸せな人とはきっと分かり合えないと思う」
と、勝手にこころのシャッターを下ろして、コミュニケーションを諦めて、卑屈の塊でしかない事を心の中で思っていた。
そしたら、ある曲の歌詞が、私の卑屈な心を、それはただの甘えた言い訳だと、心臓を真っ二つに切り裂くように衝撃をもって教えてくれた。
(こんなに引用して大丈夫なのか、いまいちわからないのですが・・・)
自分が中高のときに愛されたかったと、愛して欲しいと素直に両親に泣いて求めなかったのは、自分。
言った所でたとえそれが叶わなくて傷つけられたとしても、私がわたしの心を守るために行動していたら、
少なくともわたしの心だけは私を好きでいられたはずだ。
ひとりで勝手に傷ついて閉じこもっていたから、余計に孤独になった。
周りに分かってもらわなくていいからひとりで生きていく、なんて、ただの甘えた言い訳じゃないか。
まっすぐな心で接してくれる周りの人に、
自分を分かってもらおうともせず、
自ら距離を取って、そもそも関わろうともしない自分は
なぜ勝手にその人を「わかってくれない人」と決めつけているのか。
本当にわたしのこころが欲しいものは、
この世界にある愛で、
私が今していることはまったく逆じゃないのか。
そんなふうに思った。
自分が世界を、勝手に、
「綺麗なものじゃない、怖くて傷つけられるもの、心を許したら何されるか分からないもの」
と決めつけて思い込んでるだけで、
実際に世界がどんなものかなんて飛び込んでみないと分からない。
色んな人がいて、色々傷つけられて、苦しむかもしれないけど、
それ以上にたくさんの得るものが、かけがえのない素敵なものが、この世界には山ほどあるんだ。
綺麗事を信じるのは、それを貫くために自分から立ち向かう行動を起こさなきゃいけないから苦しいけど、
その価値があるって信じて生きる方が、少なくともずっと、私はわたしを好きでいられる。
そう電撃が走るように思い至ってから、
私は人のことを妬ましいとか、誰かのせいで不幸になったとか、
人生を誰かに台無しにされたとか、
何か酷い事をされた相手をずっと恨むとか、
そういった事を一切思わなくなった。
誰かのせいじゃないし、誰かのせいにするなんてむしろ癪だと思う。
だって、私の人生だから。
わたしのこころの手綱は、私自身にしか握らせたくない。
きっと私にとっての正しさが、誰かにとっての正しさと一致しないことなんて多々ある。
でもみんなそれぞれの正しさを胸に生きてて、だからそれぞれ正しくて、で結果として、ぶつかる事も争う事もある。
けど、私がそれにめげずに、わたしのこころに素直に、より温かく素敵に感じるほうの光が指す方向を向いてたら、
同じように、周りに同じ気持ちの人が集まってくるというのも、本当にある。
それでも私は精神的に強くないから、
心かぱさぱさに乾いていくことはままあるのだけど、
色々な好きなことをすることで、
己でなんとか乗り越えようと努力する。
踊ったりピアノを弾いたり、昨日より少しだけ、去年より少しだけでも
成長していたら、成長しなくても続けていられるだけでも、
それだけでめちゃくちゃ幸せ。
もちろん、息子が昨日より今日、日々心も体も成長していくのを、
こんなに近くで見られている事も
本当にかけがえなく幸せ。
中高のときのこころを完全に閉ざした自分からしたら、
幸せ過ぎて鼻血が出そうなほどにぜいたくな幸福だ。
何が言いたいかというと、
ままならない事があったとしても、私は、
わたしのこころだけは絶対に、自分で変な形に歪めたりせずに、
守りたい、守っていたいと思う。
「わずかに光る尊厳の放棄」
という言葉があったけど、
どんなに鬱になって弱っても、
シングルになって大変でも、色々な病気になって辛くても、
私は、世界の綺麗な部分を信じるわたしのこころをゆがめたり、誰かのせいにして逃げたり、決してしなかった。
そのことだけは誇りに思おうと思う。
だから、来年の私がどんな状況に置かれているとしても、
今の私からあなたに、手紙を書くように、「あなたのこころに素直に、どうか歪むことなく、感受性を守って欲しい」と祈る。
2024年の日々も、
角野隼斗さんの音楽にワクワクしてドキドキして、
めちゃくちゃ夢中になって、
時には癒されて慰められて、
見たこともない刺激をどんどん受け取って、大感動して。
そして、仲間とダンスを踊って、好きな曲をピアノで弾いて、
子どもをめちゃくちゃ大切にして、
そんなふうに幸せに過ごしていけたらと心から願う。
2023年、ありがとうございました。
2024年のわたしも、あなたも、どうか幸せでありますように。