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過去の自分を抱きしめてあげたい。一緒に苦しみたい。

8月。大好きな夏。

今までと違うのは、学生としての夏ではなく、社会人としての夏であるということ。

社会人一年目の夏を心穏やかに迎えていることに、かなり驚いている。



今年の4月1日、社会人の仲間入りを果たした私。

ずっと社会が怖くて仕方なかった。入社前日の3月31日までは、会社なんてすぐにでも辞めたいと本気で思っていた。まだ入社すらしていないのに嫌だった。辞めやすいようにと、スキルが身につきそうなIT業界を選んだくらいだから。

社会という場そのものが怖いわけじゃない。働くことも嫌じゃない。

社会に出て、傷付くことが嫌だった。そこに適応できないであろう自分自身を直視することが怖かった。うまく生きていけないかもしれないと思い知らされることが怖かった。

そして何より、何でも勝手に怖がって勝手に苦しんでしまう自分自身の弱さが一番嫌だった。社会に出て、その弱さに向き合わなければならないのが嫌だった。ずっと目を逸らして逃げてきたものだったから。


大学生の頃のそうした感情はよく覚えている。昨日の事のように思い出せる。思い出せば胸が苦しくなるし、泣きたくなる。

だけど、思い出せるだけ。
今、そうした感情を抱くことはあまりない。
全くないとまでは言えないけれど、少なくとも、そういう思考に苛まれて夜眠れないとか、不安で全身が強ばるとか、緊張でお腹を下すとか、そういうことはだいぶ少なくなった。


他人の優しさが苦しい


先日、就活で悩みに悩んでいた時期の日記を読んだ。

何に対してもやる気が出ない。無気力。何もしたくない。恐怖。不安。緊張。人と関わりたくない。そんな思いに襲われて、眠れなかったり、何度もお腹を下したり、涙が止まらなくなったり、声や体が震えたり、全身が強張ったりしていた日々のことが綴られていた。

泣きそうになった。当時の自分を抱きしめてあげたいと思った。自分に対してそんなふうに思ったのは初めてだった。

泣きそうになったって書いたけど、この文章を書いている今、泣いている。言葉にするとつい感情が溢れてきてしまう。

当時の自分に、大丈夫だよって言ってあげたくなったけど、多分慰めの言葉は届かない気がする。何と声をかけても「でも」「だって」「私なんて」としか思えないだろう。

だから、ただ黙って抱きしめてあげたい。当時の自分は共感を求めていたんじゃないかなと今なら分かるから。

家族に話してもそもそも理解されない。カウンセリングの先生に話しても、理解や慰め、アドバイスはもらえるけど、共感はもらえない。そのことが寂しかった。

きっと私は、自分と同じような人に出会いたかったんだと思う。自分みたいな人が、仲間が他にもいるんだ、って認識したかった。その人に「大丈夫だよ」って思えたら、自分にも「大丈夫かも」って少しは思えるかもしれないから。

結局、他の誰かにどれだけ「大丈夫だよ」って言われても、最終的には自分で「大丈夫だ」って思えなきゃ意味がなかった。何をするのもしないのも自分で決めなきゃいけないから。

当時は他人の「大丈夫」が全然響かなかった。外から何を言われても、それがどんなに優しい言葉であっても、ただただ苦しくなる。こんなに優しくしてくれてるのになんで私はこうなんだろう……ってむしろひたすら落ち込む。人の優しさが苦しかった。

私は公平や平等といった価値観を非常に重んじている。何かを貰ったら何かで返したい。でも、自分が落ち込んでいるときって、人に優しさを返せる余裕がなかったり、優しさを受け取った自分自身を許せなかったりする。

当時、外側から励ましてくれる人じゃなくて、内側で、一緒に落ち込んでくれる人がいたら、どれだけ救われただろう。それこそnoteをやっていたらまた違ったかもしれないな、と今思った。


悩む自分を切り離す


人の優しさに苦しんでしまう性格自体は、今でも全然直っていない。つい先日も、会社の先輩の優しさと自分の情けなさに苦しんで一日中落ち込んで、会社で何度も涙が出た。周りの人にバレないようにと気が気じゃなかった。

お昼に公園でお弁当を食べていたとき、(このまま会社に戻らずにずっとここにいたいなあ)ってほんのちょっとだけ思って、また泣いた。

けど、当時と明確に違うのは、その悩みはその悩み単体として切り離せていること。

就活の時は、世の中、他人、自分、日々の生活、人生……あらゆる全てに対して「もう嫌だ」と感じていた。

きっかけは「就活」という一つの出来事だったはずなのに、一日中ずっと、就活のこと、今後の人生のこと、自分自身のことが頭から離れなくて、夜は眠れないし、趣味もできなかった。
何をしていても常に罪悪感に襲われて苦しかった。

でも今は違う。
現在進行系で抱えている悩みはたくさんあるけど、そこから「会社行きたくない」とか「辞めたい」とか「死にたい」とかいう思考には至っていない。
楽しいことは楽しいこと、悩みは悩み。別で考えられている。

この思考は、小説家の平野啓一郎さんが提唱する「分人主義」という考え方から受けた影響が大きかった。

「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と呼びます。

「分人主義」公式サイト より引用


平野さんの著書『私とは何か――「個人」から「分人」へ』という本で、私が印象に残っている部分。
(2024年8月18日現在、Kindle Unlimited対象本なので、会員の方はぜひ。)

貴重な資産を分散投資して、リスクヘッジするように、私たちは、自分という人間を、複数の分人の同時進行のプロジェクトのように考えるべきだ。学校での分人がイヤになっても、放課後の自分はうまくいっている。それならば、その放課後の自分を足場にすべきだ。それを多重人格だとか、ウラオモテがあると言って責めるのは、放課後まで学校でいじめられている自分を引きずる辛さを知らない、浅はかな人間だ。学校での自分と放課後の自分とは別の分人だと区別できるだけで、どれほど気が楽になるだろう?

平野啓一郎. 私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書) (pp.69-70). 講談社. Kindle 版.


昔の私は、一つの悩みをすべての自分に引きずっていたように思う。家庭内で色々と問題があった時期は学校でも落ち込んでいたし、前述したように、就活の悩みも生活すべてに影響していた。

だけど、今は、悩んでいる自分と何かを楽しんでいる自分は別の分人なんだって思えている。悩みを抱えている間は何かを楽しんじゃいけない、なんてことはない。

それも、「会社での自分」と「家庭での自分」といった大枠だけに留める必要だってない。

「会社での自分」の中でも、例えば「先輩に自分の意見を上手く説明できず悩んでいる自分」と「先輩と楽しく話しているときの自分」は同じじゃない。

上手く話せない自分を省みて改善に努める行為と、先輩と楽しく話す行為は両立していい。そのことにようやく気が付けた。


本当は人が好きだった


もう一つ、当時の自分に言いたいことがある。
あなたは、本当は人のことが好きなんだよって。

大学4年間は、とにかく人との関わりがなかった。最初の2年間はコロナで完全オンラインだったし、後半2年間は登校も少なかった。部活もサークルもバイトもしてなかった。

人と関わるのが苦手だから避けていたという自覚はある。だから、ずっと忘れていた。社会人になってから思い出した。ああ、そうだ、私は人が好きなんだった。

私は超内向型人間で、人見知りだし、あがり症だし、頭の回転も遅いし、喋るのも下手だし、とにかくコミュニケーション能力が全体的に低い。

だけど、コミュニケーションそのものが嫌いなわけじゃない。

だって、同期とご飯に行ったとき、すごく楽しかったんだよ。朝までカラオケなんて人生初だった。人前で歌うこともずっと苦手だったのに、すごく楽しかった。

会社で先輩と話すときも楽しい。懇親会だって、すごく緊張して苦しかったタイミングもあったけど、人の話を聞いているときは楽しかった。

高校時代も、大好きな先生や同級生が沢山いた。友達は少ないけど、周りの人のことは好きだった。

ずっと人が怖いと思っていた。けど、本当は「人が集まる場が嫌い」なんじゃなくて、そういう場でうまく喋れない・気を配れない「自分のコミュニケーション能力の低さが嫌い」なんだと気が付いた。そういう自分を直視することが嫌だった。

会社に入るまでは「できることなら一生誰とも関わらずに一人で生きていきたい」と本気で思っていた。それは「コミュニケーションを取りたくない」のではなく、「コミュニケーションを上手く取れない自分を見たくない」気持ちの現れだったんだ。


だけど、これは結果論でしかないけど、大学生のあなたが思っているよりもずっと、周りの人はみんな優しいよ。人の優しさに助けてもらいながら、何とかコミュニケーション取れてるよ。ゆっくりでも大丈夫なんだよ。無理に話さなくてもいいんだよ。

同期の子に良い影響を受けて、あんなに苦手だった質問も、たくさんできるようになったよ。ずっと生活リズムの悪さに苦しんでたけど、朝型になって、時間の使い方もうまくなったよ。


まあ、繰り返しにはなるけれど、これは結果論。もし当時の自分にこれらを語れるとしても、何も響かないと思う。「あくまであなたの環境の話でしょ?」って思うだろう。

頭では理解していても、実際に自分で経験して実感しなければ納得できない性格なのは、私が一番よく分かっている。

だからこそ、抱きしめてあげたい。

当時の自分の苦しみを理解できるから、その苦しみを一緒に抱えて、何も言わずにただ苦しみたい。一緒に死ぬほど落ち込みたい。もし、自分の苦しみを分かってくれる存在がいたら、少しは楽になったんじゃないかなあ。



なんだかまとまらないけれど、きっとこういうことを過去の自分に思えているということは、少しは成長したというか、大人になったんだろう。

こんな今の自分のことも、いつかの自分が抱きしめたくなるんだろうか……。

2024年8月18日 しろくま

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