冷蔵庫のカヌレをふたつ夜半の春

【季語】春の夜(はるのよ)三春
【子季語】春夜、夜半の春
【関連季語】春の宵
【解説】朧のかかる夜であり、花の匂う夜である。雨になってもあたたかく、人の心をゆったりとさせる夜である。

「今日は、ありがと。…少し、あがってく?」

去りかけていた僕を呼びとめる声。

「珈琲と紅茶、どっちがいい?」

エントランスの施錠が解除され、急いで入るようにうながされる。

考える間もなく中に足を踏み入れると、程なく施錠された機械音が微かに耳に残った。

カードを軽く当てるとエレベーターのドアが開く。中に入るとそのまま僕たちを8階フロアまで運んでくれるようだ。

「便利だよね、これ。」

カードを顔先でひらひらさせながら屈託なく笑う。灯に照らされた頬がまだほんのり紅い。

「…もう、酔いは覚めた?」

「えー?全然酔ってないよ。」

…嘘をつけ、あれだけふらふらしてたじゃないか。

「心配性なんだね。」

ころころと笑う。よく笑う子だ。

「ここだよ。」

いつの間にかドアの前に着く。

802。

なぜだか心の中でその番号を何度も繰り返す。

「ちょっと待っててね。」

ドアの前に僕を待たせたまま中に駆け込んでいく姿を見送り、そのドアが目の前でがちゃりと閉まるのをたたずんで見ていた。

このまま彼女が出てこなかったら、確実に不審者だよな。

ぼんやりとそんなことを思いながら、待つ。

さっきまで彼女と歩いてきた道が眼下に見える。といっても夜の帳に隠されて、所々回答に照らされたそれが見えるのみなのだが。

遠く目を移す。

多分あの光が集まっている場所に、小一時間前ほどにいたはずだ。僕は、あそこからここまでの道のりを、もう一度反芻していた。

「ごめん、お待たせ。どうぞ」

「よかった。忘れられてたらどうしようかと思った。」

そんなわけないでしょ、とまた、ころころと笑う。本当によく笑う子だ。

正直に言うと、僕はこれまでの人生で異性の家に足を踏み入れたことなどない。

だから、今、これまでに感じたことのないほどの緊張で、もう、どうしたらいいか分からず、ただ言われるがまま彼女の後をついて歩いているのも当然仕方がないことなのだ。

「そこに座ってて。」

指定された位置に腰を下ろして初めて、少しずつ周囲を見回す余裕が出てきた。

暖かな色合いの間接照明で照らされた室内は、白を基調としたモノトーンで統一されていた。

部屋の中央には小さなローテーブルが1つ置かれていて、それ以外に物はほとんどない。壁にプロジェクターで映し出された時計があるくらいだ。

彼女が向かったキッチンは、この部屋とカウンターで仕切られ、そこに背の高い椅子が2脚あって、そのうちの1脚に今、僕は腰かけている。

カウンターの奥の方には小さなノートパソコンが置かれている。そこがきっと彼女のワーキングスペースなのだろう。

キッチンに目を移すと、僕のところからは彼女の様子が全て見てとれる。

辺りがふくよかな珈琲の香に包まれ始め、先ほどまで微かに香っていた白檀香の薫りと溶け合っていく。

鼻歌を歌いながら、慣れた手つきでドリップをしている姿を眺めていると、ふと顔を上げた彼女と目が合う。

「ちょっと待ってね。…ミルクとか砂糖いる?」

ブラックで、なんていえばかっこいいかな、なんて思いつつ、ミルクを頼む。

「へぇ、一緒だ。私もカフェオレで飲むのが一番好き!」

ドリップを終えた珈琲をマグカップに均等に注ぎわけると、レンジで軽く温めた牛乳をそこに注ぐ。満足げな表情の先にあるカフェオレは確かに美味そうだ。

「はい、どうぞ!…あっ、そうだ!ふふふっ」

マグカップをふたつ、僕の前に置くと笑顔を残して冷蔵庫に駆け寄る。中から白い小箱を取り出して、戻ってくると僕の横に腰を下ろした。ふわりといい匂いが鼻をくすぐる。

「これ、美味しいんだよ!食べよ」

見上げる感じが近い。

「これ」が目に入らない。

ああ、何が美味しそうって、あなたが美味しそう。

理性とせめぎ合っている僕の気も知らず、箱の中の「これ」を取り出して満面の笑みで見上げてくる顔にクラクラして、目を逸らしカフェオレをひと口飲む。

「うわっ、おいし!」

本当にうまい。珈琲の苦味が程よくミルクでまろやかになっていながら、これまでに飲んだどのカフェオレより、しっかりと珈琲そのものの美味しさを感じる。

「ほんと?うれしい。これも食べてみてよ、美味しいから。」

そう言いながら自分は指で取ってそのまま、もう口に入れている。

少し黒みがかったそれは、なんだかプリンのような形の、それでいてミスドのフレンチクルーラーのような固さを感じさせるフォルム。ちょっと高級感もあるそれは、今まで僕が食べたことのないものだ。

「もう、遠慮しなくていいよ。ほら!」

逡巡を遠慮ととらえたのか、彼女はそれを手にすると口元に差し出してくる。

「え、え?」

狼狽えている僕の口をこじ開けるように、彼女の指ごと差し込まれたそれは、後から聞いたところによると、カヌレというフランス菓子なのだそうだ。

僕の舌に、よく冷えたカヌレと彼女の指の温もりが触れた。

蕩けるような甘さが、僕の身体を走り抜けた。

カヌレの味よりも、温かな感触がいつまでも余韻を残している。

気がつくと、僕は彼女の唇に自分の唇を重ねていた。


***

この小説は、三人の共同企画参加記事です。

以前書いた官能的でない官能小説「君に触れたい」の続編にあたります。

まだまだ全然官能的ではないですが、やっと唇を重ねちゃいました笑

季語は春の夜でも良かったのですが、夜半の春という子季語を使うことで、より夜の艶やかさが出るかなあと。

カヌレ、美味しいよね😏




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