【小説】『うまれた』第9話
外がまぶしくて、目が覚めた。
わたしはベビーベッドにもたれかかるようにしていた。気が付けば眠ってしまっていたらしい。ベビーベッドの柵の間から、藍奈の眠っているベッドの中に右手を差し入れている。藍奈は両手をあげて、バンザイの格好で眠っていた。深く寝入っている証だ。
時計を見ると、わたしがいつも起きる時間よりも、一時間遅かった。今日は夫が出張に行く日だ。助かった、と思った。普通に出社する日だったら、今頃大慌てで準備をしなければならなかった。
ヒーターと床暖をつけに、リビングに行く。そのまま、朝ごはんの支度を始める。それから、洗濯機を回しに行く。今日は洗濯物も干さなければ。
冷蔵庫を開け、ベーコンが一番先に目に入ったから、今朝はベーコンエッグとサラダにすることにした。
サラダの準備をしたら、手際よく食卓の上を片し、トースターを定位置に置く。
パンはわたしが食べたがっていた近所のパン屋さんのマフィンだ。夫は土日の買い出しの時に忘れずに買ってきてくれていた。トースターの中にマフィンを起き、それから、バターとジャム、ヨーグルト用のはちみつも食卓に並べる。
後はベーコンエッグを焼き、コーヒーメーカーのスイッチを押すだけ、というところで、洗濯機がメロディーを奏でた。洗濯物が終わったらしい。
ここまで、藍奈はまったく泣く気配がない。
めずらしいな、と思いながら、手早く洗濯物を干した。
外の風にあたりながら洗濯物を干すのは、ずいぶんと久しぶりだった。
「……さむい」
厳しい風の冷たさに、ひとり言がもれた。
冬ばれした空の下の、新鮮な冷たい朝の空気は、昨日までの空気を一掃し、外の空気を新しく満ちたものにしてくれているように感じた。常に寝不足で霞がかっていた、重い頭の中までクリアにしてくれるようだった。
すごく寒いけれど、気持ちがいい。
いつも窓の向こうの世界として眺めているだけだったけれど、たまにはこうやって、外の冷たい空気を思いっきり吸い込むのもいいものだ。だって、こんなに気持ちがいい。
干したばかりの洗濯物からは、いつものお気に入りの柔軟剤の匂いがする。
空は雲一つない、白や灰色に似た薄い水色だ。ぺきっと音を立てて割れそうな薄い水色の一枚の大きなガラスに見える。
ぼうっと空を見上げる。次に静まり返った町を見下ろす。キンと冷えた風が前髪をすいた。
そのとき、風の音に隙間を縫って、かすかに泣き声が聞こえた気がした。
「ふあ……っああーん、うわああああん」
はっとして、踵を返して部屋の中に戻った。
寝室に入り、ベビーベッドを見下ろす。
しかし、藍奈はさっきと全く同じ格好で眠りこけていた。
……そら、みみ?
苦笑いをしてしまう。ついに外に出ていても藍奈の泣き声の空耳を聞くようになってしまった。わたしはいつも、藍奈の泣き声をいろいろな場所からかき集めて、拾い上げようとしているみたいだ。
寝室に来たついでだから、夫のことを起こす。出張で家を出る時間が遅いにしても、そろそろ起きてもいい時間だ。
相変わらず、夜泣きに一切気が付かず、眠り始めたら自分が起きる時刻までぐっすり眠ることができる夫だ。
しかし、今日のわたしは、最近のわたしよりずっと優しく夫を起こすことができた。
窓の外の世界は、すべて冷たく新しいものに切り替わっていた。空はできあがったばかり、新品の透き通った水色のガラスのようだったし、吹き渡る風は遠く知らない世界から初めてここへやってきた空気の大きなかたまりだった。自然と、わたし自身もリセットできたような気がする。
今日、夫が出て行ってしまったら、その時から明日の夕方まで、わたしは藍奈と二人きりの世界にいることになる。でもきっと大丈夫。今朝みたいに、朝ごはんの支度をして、その間に洗濯機を回して、メロディが鳴ったら洗濯物を干せばいい。掃除だって適当でいい。藍奈の眠っている時に一つずつやれることをやれば、平気。
不思議な安心感とやる気を感じながら、わたしはもう一度、今度は少し強めに夫を揺り動かす。