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【小説】『うまれた』第10話

 調子がおかしくなり始めたのは、夫が出張にでかけた、その日の夜十一時くらいからだった。
 

 六時ごろに夜ごはんを食べ終え、寝る前すべてのことを終えたわたしは、藍奈をダブルベッドの横に置いて、早めに布団の中にもぐりこんでいた。
ダブルベッドで夫がいない今日は、かなりスペースがある。昼間いつもそうしているように、夫がいない今晩は、バスタオルを引いて、藍奈を横に寝かせてみることにしたのだ。初めて、一晩、藍奈を大人のベッドで寝かせることにしてみた。それが自分に許可できるくらい、わたしは疲れ切っていた。
 なにより、昼間、藍奈と一緒にベッドで過ごしてみて、わかったことがあるのだ。一緒のベッドで眠ると、藍奈の息遣いが近くに感じられるから、泣いたときにすぐに気が付くし、おむつ替えも抱き上げるのも、簡単にできる。横にいてあげるからか、藍奈の寝つきも良かった。だから、今回、より一層自分の睡眠時間が確保できること、藍奈が機嫌よく過ごしてくれることを期待して、夜も藍奈と一緒に大人のベッドで眠ることにしてみたのだ。
 ほんの数時間前はそうだったはずなのに、今、藍奈は泣き止まない。藍奈が泣き止まないのはまあ、いつものことだとしても、一つ困ったことが起きていた。わたしの右胸が、気が付けば熱と痛みをもっていたのだ。
 調べてみると、これがどうやら乳腺炎、らしい。
 でも、ひどくなるとカチコチに硬くなり、自分でしぼることもできなくなる、という。痛いには痛いが、自分で胸を絞れないほどではない気がする。
 乳腺炎とまではいかないけれど、なりかけているのかもしれない。
 そういえば、眠る前、藍奈に授乳するとき、無意識のうちに左ばかりあげていたかもしれない。右胸を最後にあげてから、かなり時間が空いている。ベッドにもぐりこんでから、添い寝していたからか藍奈もめずらしくよく眠ってくれて、三時間が経っていた。その間、わたしも完全に眠っていたから、右胸の中で母乳がたまりにたまって、硬く張ってしまったようだ。
 どうすればよいのか、対処法を調べると、ひたすら、たまっているほうを赤ちゃんに吸ってもらうのが良いらしい。
 そうとわかってからは、藍奈に右胸を飲んでもらおうとするが、藍奈は体の向きが嫌なのか、それともたまりすぎた母乳の味が不味いのか、右胸からは飲もうとしてくれない。
「お願い、飲んで……」
 右胸の痛みに耐えながら、藍奈の口に右の乳首をくわえさせるが、藍奈は全力で嫌がって、まるでこのままでは死んでしまうとでもいうような声で泣き叫んだ。
 時計を見る。もう深夜一時半だ。わたしがかたくなに右を飲ませようとしているから、藍奈はもうかなりの時間、母乳を飲んでいない。
 お腹、減っているでしょう? だから泣いているんでしょう?
 藍奈の泣き声はもはや超音波のようになっていて、うあああああ、うあああああ、と新生児特有の音と振動をもってこだましている。
 しまいには、乳首を近づけるだけで体全体を振り絞って出したような、ぎゃあああという声を発するようになってしまった。
もう、わけがわからなくなっている。
いったん、落ち着かせようと、藍奈を抱き上げて、寝室の床を歩き回る。抱き上げた瞬間、右腕を持ちあげただけで、脇のあたりに痛みが走った。
「っつ……」
 痛みで目をぎゅっと閉じる。
 痛みをこらえながら、歩き回っても膝を屈伸させて上下に揺らしてみても、藍奈は顔を真っ赤にして、体を火照らせ汗をにじませて、力の限り泣いている。
 当然だ、藍奈は今、抱っこじゃなくて、おっぱいを求めているのだから。
 もう、いったん、諦めて、左胸から母乳をあげてしまおう……。
 ベッドに腰かけて、左胸を差し出す。藍奈はフガフガ言いながら、右胸をあれほど嫌がっていたのがウソのように、左胸に吸い付いた、が、左胸もそれなりにはたまっていたから、母乳の出の勢いがよかったらしい。
 藍奈はすぐにガホっと咳き込み、口を離した。思いっきりむせたようで、ひえーっと変な音が小さな体から聞こえてくる。
「あ、待って」
 慌てて、タオルで胸をおさえるが、うまくいかず、パジャマがびしょぬれになる。授乳ブラを直そうとしたが、とたんに藍奈が苦しそうに咳き込むから、ブラはそのままに急いで小さな背中を何度もさする。
 首が座っていない藍奈の小さな頭が危なっかしく揺れる。
 そうと思えば、思いっきりのけぞって、体をピンと張って、より一層にひときわ大きな声を上げた。うわあああああああ、うわああああああ、と力強い泣き声がほかに物音ひとつしていない部屋の中を響き渡る。藍奈、と呼びかけるわたしの声が完全に藍奈の泣き声にかき消され飲み込まれてしまう。
 だめだ、このままじゃ。
「藍奈、ごめんね、ちょっと待ってね、今しぼるから」
 抱いていた藍奈をそっとベッドの上において、大きめのタオルで右胸を覆ってから、ぎゅっと指で押し込んだ。硬い、しこりのようなものがある。それをぐりぐりともみほぐすように押し込む。
 痛みのあまり、目を開けていられなかった。ぎゅっと閉じた目から涙がつたう。
 産んだ後も、まだこんなに痛いことが残っていたなんて。
 歯を苦縛りながら絞り続けていると、少しずつ、普段の柔らかさが戻ってきた。タオルはもうしぼれるほどびちょびちょだ。新しいタオルにかえて、今度は左胸を少ししぼる。それからまた、右胸をぐいぐい押して柔らかさを取り戻していく。
 その間、藍奈はずっと泣いていた。
 ようやっと痛みがましになったので、藍奈を抱き上げる。縦抱っこで背中をとんとんとたたき続けると、少しずつ、藍奈の泣きが落ち着いてきた。
 藍奈の泣き声が止み、体全体で呼吸を整え始めたところで、そっと右胸を差し出した。藍奈は抗うことに疲れたように、ぱくっと出されたものを口に入れた。そしてぐいぐいと力強く吸い始める。
 おそるおそる右胸を触ると、もう、ふにゃりとしたいつも通りの感触だった。藍奈の吸いの力強さに半ば感動しながら、今度は左胸を差し出す。こちらもまた、夢中で目を閉じて吸いついてくれる。
「ごめんね、もっと早くしぼってあげればよかったね、ごめん……」
 小さな声で語りかけながら、母乳を吸う藍奈をぎゅっと抱きしめた。
 吸ってしまえば、あれだけ泣いた後だから、藍奈は疲れてすぐに眠りについた。
 しかし、両方の胸を吸って、寝落ちした、と思ったのもつかの間だった。
 わたしのすぐ横に寝かせると、びくっと体を震わせ思いっきり伸びをした。その瞬間、大きな音が響いた。藍奈の目が驚いたようにぱっちりと開く。
 ああ、オムツを替えなければ……。
 寝落ちしてくれたかと思ったのに。
 藍奈はうんちで不快なオムツのせいで、再びみるみるうちに泣き顔になっていく。
「待ってね、今、オムツ替えてあげるから」
 オムツを替えて、綺麗にする。それでも、藍奈は泣き止まない。いやいや、とぐずぐず泣き続けている。
 一応、胸を差し出してみたが、首を左右に振って顔を思いっきりのけぞらせた。さっきあれほど母乳を吸っていたから、お腹いっぱいなのだ、当然の反応だ。
 縦抱っこをして寝室をぐるぐると歩き回る。屈伸運動もしてみる。ハンモックで揺られるように横方向にゆらゆらと揺らしてみる。
 いつもは少しずつ小さくなる泣き声が、まったく、小さくならない。
 素足で冷たい床を歩いているから、つま先は氷のように冷たく、感覚がなかった。しかし、藍奈を抱いているからか、体全体が寒さでこごえるようなことはない。
 腕の中で、うわあん、ふわああん、と泣き続ける藍奈を見つめる。
 生まれたときとずっと同じ声質、聞き続けてきた泣き声。
 小さな手、小さな足。目をぎゅっと閉じて、顔をしわくちゃにして涙を流す、泣き顔。
 ここ何週間も、ずっと見続けてきた、涙をしぼりだす顔だ。
 それなのに、わたしは藍奈が伝えたいことが、わからない。
 「ごめんね、藍奈。ごめんね……。ねえ、泣かないで。ごめんね、お願いだから……」
 わたしの意味のない言葉が、藍奈の泣き声にかき消されて、誰の耳に届くこともなく消えていく。
 暗闇が、藍奈の泣き声だけで満たされていく。冷たい夜の静謐な空気は跡形もなく消えていた。
 藍奈とわたしの二人だけのお城の中は、わたしの存在などほとんどないに等しかった。藍奈というたった一人の赤ん坊の存在によって、夜の熱帯雨林の中のような生命の息遣いと熱さが、泣き声にのって部屋中に波のようにうねりながら、広がっていった。
 この子は、どうしてこんなに泣くのだろう。
 わたしは、どうしてこの子を泣き止ませることができないのだろう。
 藍奈はなんて言っているんだろう。なにをしてほしいんだろう。
「ごめん……藍奈……」
 わあああああん、ふあああああああん、と小さなこぶしをぎゅっと握りしめて泣き続ける藍奈。しかしわたしはもう、抱っこしているのも疲れてしまった。
 そっと、ベッドの上に置いてみる。 
 当然、藍奈は泣いている。
 泣き続ける藍奈を見下ろしていると、じわじわと、涙がにじみ出てきた。鼻の奥がつんと痛み、目の先が熱くなる。
 藍奈の汗と涙で湿った空気に、わたしの涙が混じり始める。二つの涙のさざ波が交差しながら、部屋中にいきわたり、壁にぶつかり、揺らぎながら上へ下へ、右へ左へと、満ちていく。
 わたしはどうしたらいいんだろう。
 藍奈の母親のはずなのに、どうして藍奈を泣き止ますことができないんだろう。
 ねえ藍奈、わたし、あなたがなんて言っているのか、本当にわからないの。
 臨月前になってもギリギリまで働いていたから? 
 体調不良と片付けて、折り合いをつけて仕事を優先していたから? 
 新しい体の不調が出てくるたびに、お腹の中にいる藍奈の存在と対峙していなかったから?
 こうなってしまった現状の、過去の原因を探し求めて、どんどん自分を責め立てる。
 わたしはひとりぼっちだ、と、思った。
 二十八年間、生きてきた自分自身は、どこにもいない。
 わたしが良く知っているわたしは、母乳がでることはなかった、胸が硬く痛くなることもなかった、腰が痛くなることもなかった。
 赤ん坊の泣き声の空耳をしょっちゅう聞くこともなかった。
 お腹だけでなく、いたるところにあんなに余分な肉がつくこともなかった。
 大好きなコーヒーを自分から避けることもしなかった。
 生演奏を聴きにコンサートへ通うことを、我慢することもしなかった。
 今のわたしは、全然知らないわたしだ。
 わたしは誰なんだろう。
 ここはどこなのだろう。
 どうしてここにわたしはいるんだろう。
 何もわからなくなった。子どもに戻ってしまったかのように、嗚咽を漏らして涙が流れる。
 藍奈の泣き声がとまらない。そして、それは、わたしも。
藍奈のスコールのような熱い大粒の涙の波と、わたしの嗚咽の混じった涙の波がこの薄暗い部屋で追いかけっこを始めている。混ざり合って、溶け合って、生命の濃さを保ちながら、空気がより一層本物の海の湿度、しょっぱさと似たものとなっていく。
 何を泣いているんだろう。
 なんて情けないんだろう。
 わたしは誰って、藍奈の母親に決まっている。世界中でたった一人の母親だ。
 もう、母親になってしまったのだ。わたしはこの子が大人になるまで、なんとしてでも育てなければならない、守らなければならないのだ。
 わたししか、いないのだ。
 ベッドの上で体を硬直させて泣き続けていた藍奈を抱き上げる。
 二人分の涙でいっぱいになった部屋の中は、冷たい灰水色をした果てしない海原だった。
 そこにポツンと小さな船があるのだ。その船には、この海原の波を左右する命がのっている。藍奈だ。藍奈をよくよくのぞきこむと、雷鳴がとどろき、大粒の雨が落ち、熱帯植物が多い茂る密林がある。それらに潜む多様な生き物たちの息吹。姿形を直接見ることはできないが、様々な可能性をもった命の存在がある。
 藍奈とわたしだけが、この船の乗員だ。
 自分自身も全く知らない世界の海を、わたしは何よりも重たい命、藍奈を抱き続けながら、一人、オールを一生懸命にこぐ。
 もう、船はとっくのとうに出てしまった。その船にわたしと藍奈は乗っている。わたしはこぎ続けるしかない。
 行先もここがどこかもわからないが、藍奈を乗せて船出してしまった今、この船が冷たい海底に沈まぬように、波に飲み込まれて生命の熱さが掻き消えないように、わたしにはこぎ進み続ける。それしか、手段がないのだ。

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