『わたしのしあわせ』が、あるところ。
ただただ、「安全に、無難に生き延びる」ことだけ考えていた子どもの頃。いや、本当は42歳になった今までもずーっと、無意識のうちに、自動的に、そのモードを発動して生きてきたんだと思う。三つ子の魂なんとやらで、自分の意識の奥深〜いところに、しっかりとこびりついているんだろうなぁ。
最近、いろんなことを目にしたり感じたりして思うのは、その「とにかく安全に、ただ無難に」というやり方で生きていると、ものすごく苦しくて窮屈だなということ。とても、胸の奥の方が、なんかもやもやするのだ。
周りの流れから、浮かないように。周りの意見から、はみ出ないように。そうやって型にはまろうとして生きていると、どんどん『自分』が死んでいく感覚になる。呼吸がどんどん浅くなって、文字通り息をひそめて暮らさなければいけない気がしてきて、どんどん息苦しく(生き苦しく)なっていく。
わたしは、効率的で、合理的で、生産的なことには心底興味が湧かないか、一時的にやれたとしても、後から心と身体がドッと疲れるか。そのどちらかだな、と思う。
やれば、できる。使えば、便利。
やろうと思えば、やれなくもない。
むしろ、人よりできてしまうことだってある。
そういうことを、本音とか本心を無視して我慢してやってきたから、「あーやりたくないなー」と感じるより先に、「仕方ない、やるか」と言い聞かせて動き始める。そんなパターンがものすごく多いことに気付いた。
「やりたくないなー」と思ったら、やれなくなるじゃん。
「やりたくないなー」と自覚したら、ますますやりたくなくなるじゃん。
「やりたくないなー」と思ったって、やらなきゃいけないことなんだから。
「やりたくないなー」と思うけど、人よりできるなら、わたしがやるしかないじゃん。
そうやって、変に大人ぶって生きてきたし、なんなら今も、そうやって生きている自分がいる。
社会に対して反応して、適応するように、対処できるように、そこに心を砕いてきた感じ。そう、「砕いてきた」って言葉がしっくりくる。
でも「心を砕く」のは、あんまり気持ちのいいものではない。どうせなら、「心を注ぐ」とかの方がいい。わたしの心のまま。わたしの感じるまま。
効率的で、合理的で、生産的なことがよしとされているし、社会はみんなそれを目指しているし、そもそも、そこを目指すべきだって教えられてきた。
だけど、気付いてしまったんだ。
わたしは非効率的で、非合理的で、非生産的なことが好きで、そこに幸せを感じるんだってことに。
「やりたいことは?」と聞かれて思い浮かぶのも、
「どんな自分で生きたい?」と聞かれて、その自分が何をしてるだろう?と思いを巡らせてみても、
お金にもならない、ただの自己満足で、やらなくても死なないことをしている自分。そんな自分でいられることが、わたしの幸せなんだなって、しみじみ思った。
より効率的に、より合理的に、より生産的に、というこの社会の流れの中で、そこには、わたしの感じる『幸せ』は見つけられなかったし、これからもきっと、見つからない。
ということは、わたしの幸せは、賞賛もされなければ、スマートでもなく、華々しく注目されもしないことの中にある。
地味で目立たず、手間も時間もかかって、お金にもならない。それでいてじんわり心が満たされて、穏やかで、元気になる。
実はそれこそ、本当の意味で【効率的】で【合理的】で【生産的】なことに繋がっていくのかもしれないな、と思ったりする。
せっかくこの身体を持って生まれてきたのだから。
幸せになろうね。幸せになるんだよ。