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負の連鎖を断ち切るのは、今、ここの、わたし。

子どもの頃は、親や周りの大人との関係が、「生きること」と直結していました。

親に見捨てられたら、親に見放されたら、わたしは1人じゃ生きていけない。

そう感じながら暮らしているうちに、親に何でもかんでも従うこと、周りの家族の顔色をうかがうこと、自分の本音を消すこと、それがわたしの生きていく術になっていました。

周りを優先しすぎて、いつの間にか自分の本音もわからなくなってしまったし、
自分の意見なんていつも無視していたから、自分の本心を伝えること=命を危険にさらすこと、くらいの認識でずっと生きてきました。

そして、血の繋がった家族なんだから本当はもっと仲良くできるはず、助け合えるはず、という思いもありましたね。でもそれが、うちの家族は全然できてなかったから、いつも、とても悲しかった。

いつもよそよそしくて、他人行儀で、窮屈で。上っ面だけの会話しかしないし、見栄ばっかり気にするし、何かと「してやったよ」と押し付けがましいし。

なんでこんな不機嫌な大人ばかりのこんな家に、わたしは生まれてきたんだろう、と嘆いたことは数知れず。

でも結局、こんな家族に囲まれ、こんな環境に生まれたからこそ、気付けたこともたくさんあるなぁと、今となってはようやく思えるようになりました。


この現代社会で生きていると、支配・管理と服従の意識が、とても根強く存在しているのを感じます。

特にわたしは昭和終盤に生まれて、バリバリ昭和を生きてきた大人たちに囲まれて育ってきたので、その意識はかなり強く刷り込まれてきました。

でも、今の子どもたちはそうではなくて、自由奔放で型にハマらない、そんな質の子が多いように思います。

そんな子たちに、今の大人たちは、自分たちが無意識でやってきたように、服従を求める。支配・管理することで、自分の力を認め(させ)ようとする。
そんな古いパターンが、いろんなところで見られている気がします。

もちろん、わたしもそうでした。いかに息子を、わたしの思い通りの「いい子」にするか。この子が「いい子」に育つかどうか、育てられるかどうかで、わたしの能力、評価が決まる。そう信じていました。


でもこれって、「わたしにとって都合のいい子」にしたいってこと。わたしの言うことをなんでも聞いて、優等生で、気配りができて、優しくて、整理整頓ができて…

結局のところ「わたしにとって都合のいい子」とは、わたしの頭の中の「いい子」のこと。それって、小さい頃にわたしが目指していた人のこと。大人の顔色をうかがって、空気を読んで察して、社会にうまく適応していくこと。


あれだけ苦しかったのに、わたしはまた、自分の子を、自分のような思いをさせようとしていたってことなんです。

だけどこれは、自分が自分の親に育てられた方法しか知らないし、比べる対象がないから、そういうもんだと思い込んでしまっているところもありますよね。

いざ自分が親になって、子どもを育てる立場になって、自分がされたようにしかできないのは、ある意味仕方ない部分もあるとは思います。

でもそこで、今まで自分が受け取ってきた過去のデータを捨てて、上書きしてしまえるか。
誰か他の人に、違うやり方を、素直に求めに行けるか。
あきらめずに、向かいたい方へ進み続けられるか。
そのために、自分と、自分の核の部分と、向き合い続けられるか。

それがとても、重要だと思っています。

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