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「自分の感覚」が指し示すほうに進んできた先にあったのは、昔ながらの日本の暮らしでした。

日本の暮らし、に
興味があります。

日本の精神性、人間性、に
興味があります。
いいなって思います。

ふとした瞬間にそれに触れると、
ホッと落ち着く感じがします。


ハレ(晴れ)と ケ(褻)
特別な日 と いつもの日
で言ったら、ケ の方。

ふだんの、ふつうの、日常的な。
暮らしの中に、何気なく、それでいてしっかりと息づいているもの。


わたしは今までいろーんな学びをしてきました。
とは言うものの、振り返ってみれば単なるセミナージプシー、講座ジプシー、資格ジプシー、だったようなところもあります。

自分には何にもない、価値がない、足りない、不安、怖い、そんな気持ちをいつも抱えていました。

そんな欠乏感、不足感を満たしたくて、セミナー受けて、講座受けて、資格勉強して、自信をつけたり安心したりしたかったんですね。


でも結局それは「一時的な快楽」とか「その場しのぎの薬」みたいなものでしかなくて、期間が終わればまた不安がやってきて、足りない、まだ足りない…となる。本当に何年も何十年も、その繰り返しでした。



それが少しずつ変わってきたのは、とある方からコーチングを受けてからなんですが(またそのことは改めて詳しく書いてみます)、

そこからの約7年、
「自分の感覚」というものを自分の行動の指針にするようになり、
無意識のうちにギュッと握り締めてきた思い込み(とか信じ込み、前提、設定、価値観、信念、などの言葉で表されるような)をいくつも取っ払ってきました。

そしてそれと並行して、自分のからだを、できるだけベストな状態(ベストなパフォーマンスができるような準備ができている状態)にととのえておくことの重要性も、実際の暮らしの中で経験しながら実感してきました。


そんなこんなで、自分の(からだの)感覚を意識するようになり、行動の指針や原動力にするようになって、それまでとは違うものを選んだり、興味を持ったりするようになっていきました。
本当は、元々興味はあったけど、「そんなもの価値がない」「そんなもの意味がない」と勝手に却下してたんですねー。

それが、
日本の褻(ケ)の暮らし
です。

日本の褻(ケ)の暮らしの中に、先人の方々の経験から得た叡智がどれほど詰まっていたんだろう、と思います。

和服を着るだけで、からだ本来の使い方ができたり、家の掃除や布団の上げ下ろしでも筋力を使っていたり、和式便所しかり、ご飯と味噌汁、漬物のセットとか。

それがいかに素晴らしかったからって、今この時代に全てを巻き戻して、文化も巻き戻すわけにはいかないかもしれないけど、

できることからやってみると、こころとからだは本当に正直だから、落ち着くんですよ。満たされる。思考でパンパンだった頭も、すっかりスッキリするし。こころとからだは、ちゃんとわかっているんだなと思います。

それが社会から、日常から無くなっていくにつれて、こころもからだも軸を失って不安定になり、こんな世の中、人間になってしまったのかなーなんて思う今日この頃です。

わたしも過去、適応障害と言われたり、薬がないと眠れなかったり、うつっぽくなったり。
そんな経験からも、感じています。

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