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自分の感覚より上に、誰かの言葉を置いてはいけない。


習ったそのケアが悪かった、わけではない。
その講座で学んだことが役に立たなかった、わけでもない。


結局のところ、

わたしが自分の感覚を採用しなかったこと。
たとえ講師と言えども、その人の言葉を、自分の感覚よりも優先して上に置いていたこと。
わたしが自分の違和感を放置して、我慢し続けていたこと。
それを自覚できなかった、自覚しないようにしていたこと。

そういうのがよくなかったな、と思います。

振り返ると、やっぱり、後半苦しかったもん。必死で合わせに行っていたもんなー。ここまで来たら食い下がるぞ、見捨てられてはいけないと、最後はもう、意地になってた感じもある(^^;;


その方とやり取りすると、なぜか、頭を使わないと会話ができなくなるんです。「頭を使わない、感覚優先で」「考えるな、感じろ」ということを学んでいたにも関わらず(^^;;


どんな言葉を使ったらいいか、揚げ足取られないか、また在り方がなってないって言われないか、失礼なこと言ってないか…

「在り方がそうだから、そういう言葉が出る」と言われていたから、ものすごーーーく使う言葉に慎重になりました。そのこと自体は決して悪いことではないと思うし、実際、本当に言葉にはずしんと重みがあるものだから、取り扱いには要注意、なのはわかっていたつもりだったんです。


だけどそれが続いた結果、自由にのびのびと言葉が使えなくなり、その方とやり取りするのが、ものすごく億劫になりました。


そうすると「わたしと向き合うと、本当のところを見透かされるのが嫌なのでは?取り繕ってる自分を見つけて嫌になるのでは?」なんて言葉が返ってきて、またさらに言葉が出しづらくなり…という繰り返しでした。


まぁね、言われてることは、本当だなぁと思いつつも、なんでそこまで言われなきゃいけないのかなぁ、とうっすら思ったりもしていました。でも、そんなこと思っちゃいけないよね、今はわたし、生徒なんだし。と、本音をまた抹消してたんですね。


こうやって書くだけで、やっぱり背中が重い感じがしますね(^^;;   当時からもう、今よりもっと、身体に力は入っていたのだろうなぁと思い返しています。



嫌なものは嫌。
ダメなものはダメ。
許せないことは許さない。


そして“無条件で相手を上に、自分を下に置く”という意識を、自分の中から無くすこと。それが支配と管理、依存と服従の意識を生んでしまう、自分で作っている、存在させてしまう、ということでもあるので。



今のメンターの方に、以前言われました。わたしの持っている力は、同調しないことだと。


「同調圧力」をかけた、かけられた、が問題になっているこの社会ですが、同調しないことで、本当の意味で尊重し合えるし、協力できるんだなーと。


社会的にどうなのかは関係なくて、人としてどう生きるか?
人としてどう関わり合うか?だと思っています。

親と子だろうが、
先生と生徒だろうが、
上から下へ、ではなくて
隣へ。


対等だと思いながらも、子どもを前にするとつい反応して、わたしも同調圧力、かけちゃってるんじゃないか!?と思うことも時々あります。


心と身体に余裕がないほど、自分の望みはなんだったっけ?というところから離れてしまうほど、そうなっちゃうのかなーと感じています。


本当の望み、わたしも見失ってしまったり、「そう言えばそうだった!」なんてことがよくあるので、日々意識してピン留め📌しておこう!と思いました。


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