や!どや? この温泉!
宿屋の主人の醍醐味は「や!どや?」といって、お客様を良い意味で驚かす事だと思っています。
いろんな意味で最先端の貸切温泉が有馬温泉で誕生しました。
つくった本人としては日本一の風呂だと自負しております。
フォローの上、コメントを頂いた、先着20名の方をご招待いたします。
(2024年3月31日で締め切りました。期間内に頂いた方は、御所坊の予約係までご連絡ください。ご用意いたします。)
どこが最先端で日本一やねん!
プレート直結の有馬の温泉を加水、加温することなく適温で源泉かけ流し
循環回路が無いので毎日換水することで、保健所的には殺菌剤の使用が不要。ケミカルフリー。但し、清潔に保つ必要があり、場合によっては殺菌剤を使用しなければいけない。
高温の温泉を使用して、古典的な入浴法の蒸し風呂を設置。ボイラーはシャワーのみに使用するので、限りなくカーボンフリー
街中故、景観は望めないが、有馬の歴史、文化をを伝えるモザイクアートを壁面に使用。
有馬の湯の発見と光明皇后の湯屋
風土記には、大国主命と少彦名命が薬草を探している最中に、傷ついた三羽のカラスが川で水浴していた。しばらくすると傷が癒えてカラスが飛び去った。よく見ると塩湯が湧いていた・・・というのが有馬の発見物語です。
有馬温泉の温泉寺や湯泉神社にカラスの絵や彫り物がありますが、足は3本です。いわゆる八咫烏です。
八咫烏は神武天皇を導いたといわれる烏です。
その三羽の八咫烏をモザイクアートで描きました。
今でこそ、大きな浴槽をつくることは可能ですし、ボイラーで湯を供給することは可能ですが、昔は大きな鍋に湯を沸かして、その蒸気利用して蒸し風呂として利用していました。奈良の東大寺や光明皇后所縁の法華寺などに蒸し風呂の湯殿があります。
光明皇后はある日、誓いを立てて「千人施浴」を始めます。
千人目に、身体のただれた人がやってきます。皇后は身体を洗ってあげますが、その人は「身体が痒いから、舐めて欲しい」と言ったのです。
皇后は言われるように舐めると、舐めた所から黄金に輝き、薬師如来となったのです。
そんなことで、各地の温泉地では薬師如来が奉られています。
有馬温泉に来たら、まず温泉寺の薬師如来に参り、湯に入るときは般若心経を唱える。そして決して不埒な事をしてはいけないというのが、昔からの決まりです。
有馬千軒
1596年、慶長伏見の大震災が起こり、秀吉公が有馬温泉を復興しました。
その復興事業の一つとして、入浴客の世話をする湯女に禄高を与えました。これは徳川三代まで続きます。
1600年の関ケ原の合戦以降、有馬は徳川の天領になります。
五街道が整備され、全国から有馬温泉に人々がやってきて、多くの温泉紹介本が出されます。
1685年に発行された有馬山小鑑に街の様子が描かれています。
その絵をモザイクアートでつくりました。
左手には有馬温泉の恩人、行基菩薩の木像、仁西上人の木像を乗せたそれぞれの輿が描かれています。
これは毎年正月2日、入初式(いりぞめしき)と呼ばれる儀式で、有馬の初湯を両上人に備える儀式です。
1775年の入初式の記録では、御所坊四郎兵衛が入初式の段取りなどを仕切っていたようです。そこで四郎兵衛さんもきっちり描いています。
右手に描かれているのは、一の湯、二の湯。
有馬の昔から湯が湧いていたところで、現在の金の湯の所です。
おんぶされた病人がやってくる。
棒を持った湯女が入浴の時間管理をしています。長湯の人がいれば棒でたたいて「はよあがり!」と催促しています。
そんな有馬の様子が描かれています。
これらのモザイクアートは時間の関係で手先の器用なバリ人の力を借りてバリ島で完成させました。
湯女
各坊舎には湯女(ゆな)と呼ばれる女性がいました。
そして大湯女と小湯女と呼ばれ、大湯女は各坊舎の世襲制の名前が与えられていました。
御所坊の湯女は「まき」です。
江戸中期は「有馬千軒」と呼ばれるほど、有馬は活況を見せ、全国から旅人が押し寄せてきました。お目当ての一つが湯女。
各坊舎の湯女はアイドル的存在で、湯女の名前を読み込んだ歌が詠まれ、ブロマイド、浮世絵がお土産物に登場しました。
有馬手引草には
「釣簾まきて行きにみとるゝ御所すだれ」と御所坊の湯女のまきが詠まれています。
このようにして有馬温泉が賑わいを見せると、日本各地の温泉地が、にわかに湯女を置くようになり、その湯女が過剰な接待をして、湯女が良くない女性に思われるようになってきました。
有馬温泉の湯女は京都の芸妓と同様、公家社会からの伝統と格式を誇っていました。その湯女が現在の有馬芸妓に受け継がれています。