会社を辞めた
昔、私の一つ下の弟は失恋をきっかけにメンタルに不調をきたしていたことがある。その頃勤務先の人間関係もあまりうまくいっていなかったようで、週に一度は平日休日問わず22時頃になると「おまえ今何してる」から始まる電話をかけてきていた。
根暗な姉と違い、所謂「陽キャ」と呼ばれるタイプの弟。電話越しの取り留めのない話の語り口は軽妙で、「俺今鬱なんだよね」「胸苦しいんだよね」と軽い口調で言われても到底信じ難かった。電話の他にも、LINEのメッセージで「苦しい!!苦しい!!!!」などと頻繁に送ってくるのだ。
私は当時それをギャグか何かだと思っていて、電話越しに息を乱しながら「めっちゃ胸が痛いんだよね。うっ、また痛くなってきた。苦しい!」などと言われると、また始まったよと通話を終えることも少なくなかった。それから7〜8年が過ぎ、姉はそれがギャグではなかったことを身を持って知ることになった。
34歳。趣味なし特技なし資格無し技能なし。
私のプロフィールだ。
片田舎で生まれ育ち、地頭は悪いのに記憶力だけは悪くなかった。そのため中学校までは学力で無双していたが、高校に進んでドベに落ちた。
田舎は都会のような私立学校はほぼない。小中学校、高校と、ほぼ全ての子供達が全国一律で定められた学習指導要領に沿って、ある程度固まった価値観の枠組みの中で育つ。私の育った場所では国立大学へ進学することが正義であり、私立大を目指す生徒は傍目にわかるほど教員から腫れ物扱いされていた。私もその正義に基づいて地方の国立大学に進学し、就職とともに地元に戻った。
結論から言って、私はこの9月で10年勤めた会社を辞めた。メンタルが落ち、何も感じられなくなり、最低限の業務しかできなくなった。なぜこの文章を書いているかというと、病んだ原因を責めたいわけでも、自分を可哀想がりたいわけでもない。メンタルを崩すとこうなるという自分の経験を言語化し、次の勤務が始まるまでの約2ヶ月にわたる人生の夏休みを記録して、人生の思い出の一つとして記憶に留めておきたい。
いつかこの稚拙な文章を読み返した時、「あの時は最悪だったけど結果として良かった」「あの2ヶ月は楽しかった」と、きっと振り返ることができると信じている。
「龍の逆鱗」は人それぞれだと思う。何が自分を追い込むのか、何に憤りを感じるのか、ほとんどの人はわかっていないのではないか。勝手な偏見だが、女性のほとんどの逆鱗は「自分の実力如何を問わず、自分の評価が社会的に貶められること」のように思う。
私だってそうだ。もっと深掘りすれば、矜持が傷つき、自分の中で積み上げてきたものが崩れていくことだった。私の仕事は知識も技能も資格も必要ないけれど、経験則や感覚がものを言う。それが崩れ去っていくような感覚に陥り、自分がやっていることが正しいと思えなければできないような仕事なのに、自分の感覚に疑いを持ってしまった。
それからというもの何をしていてもやる気が出なくなった。何度も追加でポイント購入して散財していた電子コミックも、同じような色と系統のものばかり購入して夫に呆れられていた洋服も、ラメが入りすぎていて職場につけていくには不向きだが可愛くてたまらないエレガンスの化粧品も、何もかもほしくなくなった。
見た目に気を遣えなくなり、日焼け止めをぬって眉毛だけ描いてかろうじて外に出ていた。家には寝るためだけにしか帰っていないのに、不思議なことに部屋は散らかっていく。本当の"汚さ'とは物が散らかっていることではなく、食べ物のカスとか埃が湿気と混ざって付着してねとついたフローリングとか、水回りの赤茶けた水垢だとかそういうものだと思う。正直言って大した価値も世の中に生み出せないう⚪︎こ製造マシンといって過言ではない有様だった。
それでもやらなければならない仕事は毎日降ってくる。会社とは雇用主と労働者の関係で成り立っている。労働者は会社に労働力を提供し、会社はその対価として賃金を支払う。労働力を提供できなくなれば、会社は受け取る対価に見合わない社会保険料などの無駄金を拠出することになる。そうなってしまえば、労働者と雇用主は対等な関係であるとは言えない。会社は営利組織のため、結局のところは労働力を献上している者、価値を生み出している者が強い。休んだが最後、私の社内での立場は上司に何か言われて調子を崩した、メンタルの弱い使えない脛齧り虫に成り下がる。
大した仕事もせず、人の仕事の邪魔をしておいて、私をこんな状態に貶めた輩がのうのうと普通に、お咎めもなしに、私より高い給料をもらって働いているというのに、被害者であるこの私が脛齧り虫に成り下がるというのか????そんな馬鹿な話があるか。絶対に許せない。それだけを心の支えにして働いていた。
自然と頭と感情を切り離して仕事をするようになった。業務には判断が伴う。逆に言えば、判断さえしっかりしていれば大したことをしていなくてもとやかく言われない。頭だけでこれは必要、不必要、これは先にやった方がいい、これは後でも構わない。早く終われ早く終われと思いながら、とにかく処理をする。私は自分の仕事がそれなりに好きで、自分の手で仕事をつくり出すことに楽しみを見出していた。出会う人から話を聞くのも好きだったし、どれだけ良いものを仕上げられるか、感情を入れてやっていた。だから頭だけで仕事をするようになると、楽しみも喜びも全く感じなくなった。
半年以上過ぎても改善されず、いつまで続くんだろうかと思っていた矢先に特大の理不尽が降り注ぎ、衝動的に同業他社に履歴書を出して、合格をもらった。
この一連の出来事で驚いたのが、自分の状態である。生まれてこの方精神に異常をきたしたことがないので、精神を患うとはどのような状態なのか想像が及ばないところが正直あった。つまらないとはいえこの数カ月、仕事自体は普通にやれていたからだ。
だが退職に向けた内示が出た直後の休日、快活クラブのカラオケルームで、気になっていた「赤羽骨子のボディーガード」の一巻の冒頭数ページをめくった時、たしかに胸の中で何かが弾ける音がした。感動するシーンでもなんでもないのに涙がこみあげ、嗚咽が溢れてきた。
この数カ月間忘れていた感覚だった。手が震えてきて、心ががんがんに動く気配がした。私はカラオケに行くと、涙活のためによくEvery Little Thingの「恋文」を歌う。なんとなしに本人映像付きで入れてみた。恋文のMVは、娘の結婚式に参加する父親のドキュメンタリーだ。ただでさえ感動するMVなのに、半年間動いてなかった心に感情の激しい荒波が打ち寄せ、涙と鼻水になって顔の穴という穴から溢れ出た。横で漫画を読んでいた夫はそんな私を見てドン引きしていた。
家に帰ってからも、YouTubeで東京ガスのCM集を見まくってドボドボに泣いた。胸が苦しくなり、これは後のことだが止まったことのない生理も止まった。生きてる。私は生きていると思った。生きるとは何かという哲学的な問いに、今ならば感動することだと答える。心が動かなければ、生きているとは言えない。
その後も細々とした仕事をこなしたが、久々に「楽しい」という感覚が少しだけ戻ってきていた。頭だけでやっていた時は普通にやれていたのに、パソコンを取り出して文字を打とうとすると手が震えて悪寒が走り、みぞおちが痛くなるようになった。それでもよかった。この数カ月の死んだように仕事をしていた時よりも断然、全くましだった。
10年勤めた会社を辞めた。
私は才能も根性もなく、志があるわけでもない唯の人なので、多くの学生が学校が居場所の一つであるように、会社が私の居場所だった。家も買って、住宅ローンも残っているし、この地で生きて死ぬものだと思っていた。都会の人や若い人にとっては当たり前の転職も、私にとっては全く当たり前のことではない。子供もおらず共働きで自分のためだけにお金を使っているのに、家に帰ったらだらだらとアマプラやNetflixを延々と垂れ流しているような、三十路半ばのどうしようもない女だ。だがそんな唯の人にも人生があり、物語があるのだと思う。
私は80歳になった時、自分の物語を綴ることができ
ているのだろうか。50年も先のことなどわかりようもないが、今なんとか両足で立って未知の場所に行こうとしているこのタイミングが、起承転結の起と承の間くらいにはなっていることを願いたい。