【雑談】誰にも言えない。
家族に一人、親戚に一人、御世話になっている方にお一人。
リアルにて、自分が『白鉛筆』として活動していることを知るのは、この御三方のみです。
今のところ、その他の知人に自分の活動を教える予定もつもりもございません。
(本当は例外が一人いるのですが、この方のお話はいずれまたどこかで)
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自分が創作をするようになったのは、小学一年生の頃。
「創作」と言っても、ノートに鉛筆で落書きのような漫画を描き始めたのがスタートです。
それでも、オリジナルの世界を表現しようとしていたことには変わりなく、その楽しさに夢中になって取り組んでいました。
当初から創作物を見せる相手は選んでいましたが、自分にそういう趣味があることは隠さずにいました。
教室で同志に向けてノートを広げているところに、時折興味を示したクラスメイトが覗き込んでくるような状況。
「すごいね」、「面白い」。
彼ら彼女らから受ける賛辞を真に受け、創ったものを広く展開しようとすることもありましたが、結果として思ったような反応をもらえず、傷つくこともしばしばでした。
その傷の痛みに耐えることの、なんと辛く孤独なことか。
これはあまり人に見せるものではないな。
そう悟り、それら自分の趣味嗜好をひた隠しにして過ごすようになったのは、中学生になって以降のことです。
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裸の自分を晒す。
不愉快な比喩かもしれませんが、創作物を他人に見せることは、そんな行為と類似しているように感じます。
無から有を創り出す上で、原資となるものは生身の己しかない。
よって創ったものには、嘘偽りない剥き出しの自分がどうしても含まれてしまう。
その意味で、裸の自分と同じである、と。
それを他人の目に触れさせる。
普段、社会生活で関わりのある方に、自分のヌード写真を見せる様を想像してください。(繰り返しになりますが、不愉快な比喩で申し訳ございません)
ともすれば一生癒えね傷を負いかねない、とても危険な行いであるように思えます。
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人格というのは衣類のようなもので、実生活でそれを着用しないことには、凍え傷付き倒れてしまう。
白鉛筆はそのように考えています。
薄着になることはあっても、容易く裸になるわけにはいきません。
ですが、noteの世界(に限らずバーチャルの世界)では、基本的にリアルの自分を知る人は存在しない。
「あの人は意外とこんなことを考えるのか」
「いつもあんな風に振る舞っていながら、本質はこうなんだな」
そんな風に、実在の自分ありきで作品を見られることもありません。
先ほどのヌード写真の例で言えば、顔が映っていない状態で公開するようなもの。
ある程度の羞恥は覚えながらも、雑念なく自己を解放できる気がします。
(もちろん、公表したものに対し無責任でいてよい、という意味ではございません)
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安心して自己表現ができる。
更には、その表現を受けとめてくださる方がいる。
noteという場に出会い、自分の精神は大きな安定を得たように感じます。
だからこそ、ここでの活動について、リアルの場では誰にも言えない。
下手なことをして、この安息を奪われたくない、というのが本音です。
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恐らく自分が自発的にnoteを離れるときが来たとすれば、それは『白鉛筆』に実像が伴ってきたとき。
「白鉛筆は意外とこんなことを考えるのか」
「いつもあんなことを書いていながら、本質はこうなんだな」
そんな目線が気になる日が来たら、新たな自由を求め旅立つときなのかもしれません。
その日が来るまで、よろしければお付き合いを。
いつもありがとうございます。
白鉛筆でした。