近江国を分ける境目の城「鎌刃城」をご紹介
こんにちは、ゆうさいです。
今回は、近江国を南北に分ける地につくられた境目の城、「鎌刃城」をご紹介したいと思います。
1300を超える城郭が築かれたといわれる近江国。
そんな近江は戦国時代、江北と江南に分かれ幾度となく争いが繰り広げられていました。
江北は佐々木京極氏や浅井氏、江南は六角氏が治めていましたが、その国境付近に築かれた城が、この「鎌刃城」です。
この城は、勢力争いにより、その時々で城主も入れ替わる「境目の城」として有名ですが、その規模だけでなく堅固さにも驚かされました。
鎌刃城の山の麓には、浄土宗総本山の「蓮華寺」があります。
この寺は、後醍醐天皇の綸旨を受けた足利尊氏らによって攻められた六波羅探題北方の北条仲時が、東国へ落ち延びる途中に敵方に囲まれ、この寺の本堂前で一族郎党432名とともに自刃したお寺としても有名です。
鎌刃城の築城者や時期は不明ですが、応仁の乱以前から存在していたそうです。
古い記録では、1472年に近江国の守護大名、京極持清さんの家臣、今井秀遠さんが六角方だった鎌刃城主の堀氏を攻めたことが記されています。
その後も京極氏・浅井氏と六角氏がこの城を巡って争奪戦を繰り広げるものの、1560年には鎌刃城主の堀氏は浅井氏に帰属。
この城は浅井領の南端の前線基地となりました。
1570年に織田信長さんの勢力が近江へ迫ると、堀氏は一族の樋口氏とともに織田氏に降ります。
しかし、すぐに浅井長政さんの攻撃を受け、鎌刃城は浅井氏に奪われてしました。
その後、「姉川の合戦」で浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に敗れると、それ以降は堀氏が再び城主となり織田方の城として存続しました。
平穏になったと思われた鎌刃城でしたが、1574年に堀氏が突如改易となり、その後のこの城についての記録は残されていないようです。
そんな遠くない時期に廃城となったのかも。