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多用した石垣が見事な城 太田金山城をご紹介

こんにちは、ゆうさいです。

今回は、関東七名城のひとつに数えられる「太田金山城」をご紹介したいと思います。

この城は、「戦国時代の関東の山城には本格的な石垣でつくられた城はない」という従来の定説を、がっつり覆したほど石垣を多用した城としても有名です。

現地に足を運ぶと、広範囲に整然と石垣が築かれているその迫力に目を奪われます。

この太田金山城は、標高235mの金山に築かれています。

この城を築いたのは、新田氏の一族の岩松家純(いわまついえずみ)さん。

家純さんの家宰には、横瀬国繁(よこせくにしげ)さんや業繁さんがおり、家純さんをよく補佐していました。
しかし、家純さんが亡くなり孫の昌純(まさずみ)さんが跡を継ぐと、横瀬氏は筆頭家老として家中の権力をより大きなものにしていきました。

昌純さんは家中の主導権を奪うべく、横瀬氏の排除を目論見ますが失敗。
逆に横瀬業繁さんの子の泰繁さんによって返り討ちにあい殺害されてしまいまいました。

金山城での実権は完全に横瀬氏に移り、昌純さんの跡に新当主として擁立された岩松氏純(いわまつうじずみ)さんはその傀儡となってしまいます。

筆頭家老の横瀬泰繁さんの子の成繁さんが家督を継ぐと、成繁さんは当主である岩松昌純さんを殺害しついには金山城を奪取。

その後、成繁さんは由良氏と改姓し名実ともに独立し、上野国の有力な国人として名乗りをあげました。

しかし由良成繁さんの領国のある上野国は、武田氏、上杉氏、足利氏、後北条氏といった強大な勢力に囲まれた不安定な場所。

そのため、都度情勢を読みながら所属する勢力を変えながら、生き残りを計らざるをえませんでした。

1573年には、敵対する後桐生氏の居城である柄杓山城を落城させてそれを奪うと、成繁さんは子の景繁さんに金山城を譲り、自身は柄杓山城で隠居生活を送ることにします。

1582年に甲斐の武田勝頼さんが織田信長さんによって滅ぼされると、信長さんの重臣で関東の支配を任された滝川一益(たきがわかずます)さんに他の上野国衆とともに臣従しました。

しかし、その同じ年に起こった「本能寺の変」で信長さんが討たれると、金山城のある上野国を取り巻く情勢は大きく変わります。

これを好機として領土拡大のために上野国へ進軍を開始したのが、既に関東で大きな基盤を築いていた小田原の北条氏。

由良国繁さんは織田方についたまま、滝川一益とともに神流川で北条軍と戦いますが敗北し、その後北条方へと転じました。

北条軍が織田方の厩橋城を攻め落とすと、国繁さんはその祝辞のために北条氏直(ほうじょううじなお)さんへ出仕します。

その際、氏直さんから常陸国の佐竹氏攻めのために金山城の借用を打診をされた国繁さんはそれを承諾。
しかしそれに危機感を持ち反発した家臣達は、国繁さんの母である妙印尼さんを擁立して金山城に籠城しました。

金山城に籠城した勢力は、佐竹氏や佐野氏と結び北条軍と戦いますが、遂に同年の冬に落城。

金山城は北条氏照(ほうじょううじてる)さんに明け渡され、由良氏は柄杓山城へ本拠を移しその地を安堵されるものの、再び叛旗を翻すと翌年には降伏し、柄杓山城はその際に破却。
国繁さんは小田原城へと移されてしまいました。

そんな中、1590年に豊臣秀吉さんによる小田原征伐が開始されます。
北条氏はそれに対し徹底抗戦の構えをみせますが、圧倒的な兵力の前に降伏し滅亡となりました。

由良家は、国繁さんの嫡男貞繁さんと母の妙印尼さんが豊臣方に与して小田原征伐で功をあげたことで、罪には問われず戦後は秀吉さんに仕えます。

後に妙印尼さんに常陸国の牛久が与えられると、国繁さんはその跡を継ぎその地へ移ったため、金山城は廃城となりました。

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