黒田官兵衛も通った城「御着城」をご紹介
こんにちは、ゆうさいです。
播磨国の山陽道を抑える要衝の地に築かれた御着城。
地図をみると、城跡の中心に山陽道が貫通するようにつくられていますが、築城された当時はどうだったんだろう?
さすがに城は迂回するように通っていたのかな...といろいろ想像してしまう御着城を今回はご紹介したいと思います。
この御着城ですが、1519年に播磨国守護の赤松氏家臣の小寺政隆によって築かれました。
ただ発掘調査の結果、その前身となるような建物跡みつかり、城が築かれる前から何らかの施設があったようです。
小寺氏は御着城が築かれる前の居城は、現在の姫路城のある姫山にありましたが、政隆もしくはその子の則職の代に、御着城へ居館を移したといわれています。
政隆はその後、細川高国と連携した浦上村宗の播磨侵攻で城を攻められ自害するものの、翌年の「大物崩れ」で浦上村宗が赤松政祐・細川晴元・三好元長連合軍に討たれると、政隆の子の則職は御着城守として返り咲きました。
1577年、織田信長の家臣羽柴秀吉が播磨に侵攻すると、則職の子の政職は家老である小寺孝高の進言もあり織田方に通じます。
しかし、その後に三木城の別所氏や有岡城の荒木村重に同調するように織田方を離反すると、1580年に羽柴秀吉に御着城を攻められ落城。
落城した御着城は、その後間もなく廃城となりました。
現在、御着城の二の丸は広大なグラウンドとなっており、内堀跡には、姫路藩が1828年に架橋した石製の太鼓橋が移設され、当時の石橋を間近で観ることができます。
また、同じ御着城跡にある黒田家廟所には、黒田官兵衛の祖父、重隆公とその妻が並び祀られています。