近江国の名門、佐々木六角氏が居城とした「観音寺城」をご紹介
こんにちは、ゆうさいです。
近江守護の佐々木六角氏が居城とした巨大城郭「観音寺城」をご紹介したいと思います。
観音寺城は滋賀県近江八幡市にあります。
安土城も目と鼻の先にあり、1日あれば両方の城跡も堪能できます。
観音寺城へ行くには、観音正寺下の駐車場まで車で登り、そこから長い階段を登り、観音正寺の奥の山道を進んでいくと10分ほどで城跡に辿り着けます。
ちなみにこの山は、冬季は通行止めとなっていますので、車で訪問する際はご注意ください。
観音寺城跡に到着すると、誰もがその遺構を見ただけで、名門といわれた佐々木六角氏の最盛期の勢いや威厳をじわっと感じることができるくらい、立派な石垣が沢山遺されています。
観音寺城石垣ひとつひとつの曲輪は大きく数も多い。
さらに曲輪を取り囲むように築かれた石垣の規模や使われていた石の量にも驚かされました。
城のつくりや規模は七尾城、雰囲気は三雲城に似ているなぁというのが個人的な印象です。
観音寺城は築城年は定かではないものの、南北朝時代には北朝方の六角氏頼さんがこの城に篭ったことが「太平記」に記されていて、既にその頃には城か砦のようなものが築かれていたといわれています。
応仁の乱では、城主の六角高頼さんが西軍に属したことから、東軍についた同族の京極持清さんに三度攻められ、この観音寺城を舞台に激しい攻防戦が繰り広げられました。
第一次、第二次の戦いでは、攻め手の京極軍に敗北するものの、第三次の戦いにおいては六角軍が京極軍に勝利します。
その後も六角高頼さんは、幕府軍の怒りを何度も買い、その都度追討を受け観音寺城に攻めこまれています。
そんなこともあり六角氏は、幕府の追討軍が観音寺城に迫ると、城を放棄して甲賀の地へと逃れ、そこからゲリラ戦を繰り広げるという戦法を多用するようになりました。
城にはたくさんの石垣がつくられていますが、攻め手のからの「防御」というよりは、どちらかといえば「権威づけ」としての意味合いが強かったのか、あまり城としての防御力は期待されていなかったのですね。
14代六角家当主の定頼さんの時代になると、六角氏は全盛期を迎え栄えます。
しかしそんな時代も束の間、定頼さんの跡を継いだ六角義賢さんの時には、「野良田の戦い」が起こり、北近江で勢力を持った浅井長政さんに敗北したことで大きく失速。
さらにその息子義治さんが家督を継ぐと、重臣として人望のあった後藤賢豊さん父子を城内に呼び寄せて謀殺するという事件を起こします。
この事件は、後に「観音寺騒動」とよばれ、六角家中の分裂を招き、遂には一時的ではあるものの、六角親子共に観音寺城を追われることになりました。
その後、家臣の蒲生氏や三雲氏の仲介により、再び六角義賢・義治さん父子は観音寺城へ復帰しますが、以前までの勢力を得るまでには至りませんでした。
そんな中、1568年には織田信長さんが、足利義昭さんを奉じて上洛のため岐阜城を出立。
六角領の南近江へ入りました。
信長さんは、六角氏へ再三にわたり使者を送り、上洛を助けるよう要請しますが、最終的にはその使者は追い返されてしまいます。
これにより織田軍は、観音寺城とその支城となる和田城、箕作城へ進軍を開始します。
戦闘は、箕作城の方で開始。
六角氏は、木下秀吉(後の豊臣秀吉)さん率いる織田軍の攻撃を受けつつも粘り強く抵抗しましたが、最後は夜襲により1日で落城。
箕作城の落城を聞いた義治さんは、観音寺城で迎え撃つことはせず甲賀へと逃走。
この時、観音寺城の支城には18の城があったといわれていますが、当主を失った支城は1城を除き残りすべて降伏しました。
唯一抵抗しようとしたのが、日野城の城主蒲生賢秀さんです。
しかし、織田方の武将として参戦した義弟の神戸具盛さんの説得によりついには降伏を決意します。
その忠誠の証として、蒲生家から織田家へ人質として送られたのが、賢秀さんの嫡男「鶴千代」。後の蒲生氏郷さんです。
その後六角氏は、観音寺城に戻ることはなく、城は織田方の所有のまま廃城を迎えたと考えられています。