薩摩国島津77万石の居城「鶴丸城」をご紹介
こんにちは、ゆうさいです。
九州の名門にして、数多くの戦いで有名を馳せた島津家の77万石の居城、鹿児島城(鶴丸城)。
今回はそんな鶴丸城をご紹介したいと思います。
鶴丸城は、九州の大大名でもある島津氏が居城とした城としては、なんだかあまりに質素な印象の城です。
城山の麓に築かれたこの城には本丸と二の丸しかない単純構造で、防御面に課題のある「屋形づくり」の城なんです。
江戸時代には、加賀の前田家に次ぐ石高を誇った大名が、なぜこのような城を築いたのか。
様々な理由が考えられるそうです。
ひとつは、関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し戦ったにも関わらず、旧領を安堵してもらった幕府へ恭順の意をしっかりカタチで示すため。
もうひとつは、「城をもって守りとなさず、人をもって守りとなす」という島津家の精神によるもの。
その他、財政面を考慮してなど様々挙げられます。
いずれも納得の理由ですが、個人的には結構財政事情が厳しかったからというのが本音じゃないかなぁと思ってしまいます。
理由は3つ。
①表高は77万石だけど実質石高は35万石程度だったこと
②参勤交代の往復距離が長く莫大な費用がかかること
③藩の総人口の1/4が武士だったこと。
ただ、中には民衆に重税をかけて豪華な城をつくって見栄を張る大名もいたわけですから、さすが島津家、素晴らしい心掛け。
また特筆すべきは、島津氏はこの鹿児島城を中心に藩独自に構築した外城制度を活用することで、周囲の外城との連携を強めて藩全体の防御力を高めていたことです。
甲斐の武田氏も同じような仕組みをつくりあげていましたが、島津氏もひとつの城に頼らず自国を守るための仕組みをしっかりと構築していました。
そんな鹿児島城ですが、築城されたのは1602年の島津家久さんが当主の時代に遡ります。
叔父であり前当主の島津義久さんの娘を娶り、19代当主の座についた家久さんは、この地に城を築くことを決めます。
ただその裏では、実父の島津義弘さんとの間で、築城場所について意見な対立があったようですが、家久さんは、自身が考える新しい時代に相応しい城と城下町の構想を貫き通し、現在ある城山の麓に築城を開始しました。
ちなみに義弘さん側の主張は、財政面や海上からの防御面を重視し、7代当主の元久さん以来8代にわたり島津家が本拠とした清水城を居城とするものでした。
さすが多くの修羅場を経験した義弘さん、主張にもすごく説得力があります。
築城をはじめると同時に、武家屋敷と町人町を分け、城の西を南北に流れる甲突川の改修や海岸の埋め立てるなど、家久さんは城下町の形成にも力をいれます。
それ以降も島津家は、代々鹿児島城を居城とし続け、この城を中心にして更に城下町を発展させていきました。
その中でも、26代当主の重豪さんと29代当主の斉彬さんは有名で、重豪さんは武士や郷士の子を学ばせるための造士館や演武館などの施設の建設。
斉彬さんは反射炉建設や洋式軍事工業を興し藩政改革に取り組みました。
しかし明治維新後の西南戦争により、城は石垣と内堀のみを残し、本丸や二ノ丸の建物などは残念ながらことごとく失われてしまいました。
鹿児島城の「詰めの城」となる城山は、島津歳久さんの孫である常久さんが亡くなって以降、聖域とされ立入禁止区域に指定されていましたが、この西南戦争時に西郷軍と新政府軍との激戦地となりました。
今でも城山では西郷隆盛が身を隠したと伝わる洞窟を見ることができます。
また、この城山からの桜島をのぞむ眺望は目を見張る感動を覚えますので、鹿児島城に行かれた際はぜひ立ち寄ってみてください。