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物語で勝手に経済学 番外編 〜失われた平行世界〜

はじめに

本稿では、物語で勝手に経済学その1~その4(終)では書ききれなかった内容について追加考察して参りましょう。すでにこの物語を読んでいただいたものとして進めてまいりますのでご注意ください。また、改めてですが個人的な考察ですので経済学上の正確さに欠ける点についてもご了承いただければ幸いです。

それでは、早速考察を始める前に一つの図を示しましょう。今更の図示ですが、物語はこの図の考え方を基に進めていきました。実を言うとこの図は流体力学の検査体積の考え方をもとにしています。物流を流体現象に見立てており、A領域が検査体積にあたります。また、物質の流れは緑色の矢印で、貨幣の流れをオレンジ色の矢印で示しています。

名称追加図

この図は経済学を学んでいない理系人間である私が作ったので、各矢印の名称に違和感があるかもしれません。勝手に経済学はまだ進行中であります。

さて、流体現象は基本的に複雑系(カオス)となるため、将来予測が非常に困難であり、初期条件が少し違うだけでも思いもよらない結果につながるという性質があります。私は経済の仕組みやゲーム理論などに代表されるプレーヤーの行動原理も同様ではないかと考えました。そして、そのように複雑な流体現象でもある特定の条件下では解析解や一般解が求まることがあります。無限平行平板とか定常流などですが、つまり複雑で将来予測が困難なことでも正しく不変な条件(時間発展しない、ある地点での空間変化がゼロである などなど)が決定できれば分かりやすく、予測しやすい状況になりえるのです。
ご安心ください、どこまで厳密に流体現象との相似性があるかなどについて考えていくつもりはありません。ただ、そういうものだとみなした時に経済現象における「条件」とは何を指しているのだろうかと思ったのです。この物語を記述してみて、最後まで悩んだのは 労働者の幸せの形はどういうものなのだろうか? という根本的な疑問でした。そして、私はこの問いの答えが「条件」に当たるのではないかと思ったのです。

ちょっと長くなりましたが、本稿ではこの「条件」についていろいろなものを上げていきたいと思います。どれがいいかな~とか他にも新しいこんな条件がいいな~ などを考えるきっかけになったら幸いです。物語では選ばれなかった未来です。


ソフト経済維持型『無労働』ハード経済成長モデル

とはいえ、まずは物語がどんな結末を迎えたのかということから始めましょう。
簡単に解説すると、図の中から労働の矢印が無なりました。これは自動機械によって仕事がなくなったからです。しかし、経済成長はし続けるという資本主義社会は失われていないものとしています。なので人々は資源を求めて宇宙開発を行っているわけですね。これが成長モデルです。ハード経済の成長のためには、消費の矢印の量が増えなければなりませんので、資源の採掘を拡大しなければ「資源」が増えないのです。さらに、物語ではソフト経済もまだ活発に活動しているようです。今のような金融市場が成長を続けながら維持されている様子を示しています。労働の矢印がなくなった瞬間、直ちに労働対価の矢印も失われてしまいます。したがって、人々の収入は不労所得からしか得られません。この不労所得は自然の所有量に比例するはずですので、持たざる者は何も得られなくなります。それを補うためには図の右上に存在する「譲渡」の作用によって再分配が発生しなければなりません。このことはソフト経済が維持されることを示し、ソフト経済があるからには金融市場も存在・成長しようとする活動も維持されるだろうという考え方です。また、別のアプローチでもソフト経済の必要性を導くことができます。物語で人類の発展の経路をたどると十分に蓄えた貨幣が無ければ投資による発展が起こり難いだろうと推測しています。つまり、ソフト経済活動が維持されなければハード経済の成長(採掘技術の開発やその自動化に至るプロセス)が起こらないだろうと考えることもできます。
以上のことから、物語ではソフト経済の譲渡の作用によってサービスなどを媒介に貨幣を譲渡(物語ではゼロサムゲームの奪い合いと表現)しつつ、ハード経済も発展させながら「譲渡」以外の労働は行っていないという状態を未来像として記述しました。これらを全部詰め込むと

ソフト経済維持型『無労働』ハード経済成長モデル

という長ったらしい名前になるわけですw
今の経済の仕組みの延長線上で労働者が最も楽になれそうな新しくもない平凡な未来像になってしまいました。
ただ、大切なのは『無労働』の部分です。その他はそれをどう実現するのかという付属品ですので、『』の部分についてちょっと考えていきましょう。


無労働

読んで字のごとく労働をしないということです。とはいえ、これにも種類があると思います。私が想定しているのは、労働を禁止するか しないか ということです。一部の人間は「人間は社会的な生き物であり、社会へ参加する・貢献するために労働はなくてならない」と主張します。マズローの欲求階層という考え方がありますが、この中での自己実現に当たる考え方でしょう。これからすると禁止するのは行き過ぎなのかもしれません。なぜなら、その自己実現の欲求を達成する方法が失われてしまうからです(本当にそうだとは言えませんが、多くの人がそう思うのでしょう)もちろん私も禁止する必要はないと考えています。

ではその逆はどうでしょうか? 

全員が(もしくは働ける人は全員)働かなければならない、つまり労働を義務であるとするとどうでしょう?無労働とはこの義務に反することを意味します。
例えば、労働しないことに対して罰則規定を設ける(奴隷制度でいえば鞭打ちをする)と当然強制労働になります。そして労働しなければ生活できないような仕組みにするとそれは間接的に労働を強いる間接的強制労働に当たるのではないでしょうか?このような強い言葉を使うと拒否感を抱く人が多いかもしれません。しかし、今日の日本の生活保護の考え方はこの間接的強制労働に当たると私は考えています。この点で物語の社会は現代日本と決定的に異なります。

物語が向かった無労働は労働の義務はない社会でありながら、労働を禁止もしない社会となりました。もう少し具体定期に言えば、労働をしなくても生活できるものの、労働をすることで成果を得ることはできる社会であります。では労働をしなくても生活できるとはどういう状態でしょうか?
私は2つの状態を想定しています。一つは商品が無料になること、もう一つは不労所得を共有することです。図を見てみましょう。単純に生活をするということがハード経済における消費をすることだとしましょう。労働がなくなれば、労働対価が無くなるので普通は代金を払うことができなくなります。なので、商品が無料になり、代金がゼロになれば、引き続き消費をすることができますね。一方で労働対価が無くなっても不労所得の矢印は存在しています。これを全員に分配すればそれでも引き続き代金を払うことができるというわけです。

商品無料型無労働

もう少し考えていきましょう。ベースはやっぱり図を考えることになります。商品が無料になれば、オレンジ色の矢印は失われてしまいます。なので、実は不労所得もなくなってしまうのです。不労所得とは自然を所有しているものがその権利分だけ代金の一部を徴収しているようなものです。これが無くなってしまうということは、自然の所有者は儲けが無くなる、もしくは自然というものが人類共通の財産であるというような状態となります。このような状態では貨幣が存在しようがありません。貨幣もなく、自然を所有しても意味がないとなれば、だれが自動機械を開発したり維持したりするでしょうか?もっと言えばだれが行政サービスを提供するでしょうか?おそらく、無政府状態、貨幣のない原始的な生活への回帰などに向かうと想定します。物語では記述しなかった平行世界の一つですね。

不労所得配布型無労働

物語ではこちらの社会を想定しています。こちらもやり方によってさらに細分化できるかもしれませんが、単純に考えれば、不労所得のすべてを共有するのが共産主義、生活するのに十分な量だけを共有するのがベーシックインカム、全く共有しないのが社会保障がゼロの社会となるでしょう。不労所得をすべて共有してしまうと、商品無料型と余り変わらなくなります(厳密にいえばソフト経済での市場原理が働く分だけ幾分共産主義の方がましだと思いますが)なので、物語では部分的に共有するベーシックインカムのような制度を想定していました(具体的に記載はしていませんが) 共産主義社会も物語では記述しなかった平行世界の一つですね。


小労働

ここまでの話で私の言いたかったことは大体終わりです。あとは備忘録として考えたことだけは残しておきましょう。
物語では一足飛びに技術開発が進み、突然ハード経済における労働が無くなりました。しかし、もちろんそう簡単に自動化は進んでいきません。小労働はその通過点であると想定しています。ただ、物語の中でも少し記載しましたが、産業革命以降、人類の機械技術は発展を続け、自動化は当初想定していなかった領域にまで拡大しつつありますが、小労働社会には向かいませんでした。確かに現代社会では過勤務規制がどんどん厳しくなり、先進国の多くは労働時間を規制する政策をとっているようですが、逆に言えば強制しなければなかなか労働時間が減少しないメカニズムになっているようです。
小労働社会を無労働社会へ向かう通過点(連続的変化の一点)であると仮定すると、その問題点は無労働社会と同様なのかもしれません。不労所得の分配方法が適切ではないのです。生活保護に代表されるように現代社会に数ある社会保障制度のほとんどは労働していることを条件としています。これは労働が義務であるという三大義務に基づいているためだと私は考えていますが、この考え方は無労働社会と完全に対立しており、その効果は恐らく小労働社会に向かわない障害になっているでしょう。しかし、実際には労働しないことに対する罰則規定はありません。三大義務に数えられておりながら、実際に不労所得だけで生活することを容認している現代社会においてはこの障害を取り払うことはそんなに難しいことではないと私は思います。単純にベーシックインカムを導入すれば解決する話です。もちろん、小労働社会を目指すなら ですが。


最大消費

ここまでは労働という視点で労働者の幸せを考えてきました。図にはまだまだ矢印があるので、別の視点でも考えていきましょう。因みに労働者にとって労働は少ないほどいいに決まってますので、労働を増やすことを目的にするような社会は考えなくてもいいということにしておきます。
さて、では次に「消費」の方に着目してみます。生活が豊かであるということは一般的には一人当たりの消費量が多いことを意味しますね。この消費を最大化していくことが幸せだと定義するとどうなっていくでしょうか?

最大ハード消費

図の中で「消費」といえばハード消費のことを意味しています。一番下の矢印です。単純なようですが、これにももちろんいろいろな種類があるかもしれません。私が着目するとしたら「最大」とは何を意味するか?ということです。重量や数量の最大化を意味するのであれば、人間は時間も限られてますし、大きさもそんなに違わないので極限があるように思えます。なので、その極限に向かって、消費できるだけの収入(労働対価もしくは不労所得)を増やしていけばいずれ到達するでしょう。これも平行世界の一つです。名前を付けるなら物質量型ハード経済主義といったところでしょうか?
もう一つあるとすれば価値の最大化という考え方もあるかもしれません。もっとわかりやすい言葉でいえば性能ともいえるでしょう。こちらは私の想像力では極限まで見通すことはできません。もしかしたら青天井なのかもしれませんね。おそらく、資本主義社会が当初想定していたのはこちらの方であり、一般的に最大消費といえば性能も含めたこちらの状態を指すでしょう。あえて名前を付けるなら物質価値型ハード経済主義でしょうか?
物語では労働は禁止されておらず、ソフト経済は引き続き維持されています。そして、ソフト経済の働きによる投資はハード経済の成長も促し、物質価値型ハード経済主義的側面も持つような社会を想定していました。なんとも贅沢な考え方ですが、物質価値を求めるという人間の性質は維持されると考えているのです。
ただし、その道は物語のようなものだけではないと思います。そして様々に考えられる発展の経路の中に、もっといい平行世界があるかもしれません。

最大ソフト消費

ハードがあるならこちらも忘れないでおきましょう。図では右上に譲渡として描かれているのがソフト消費です。勝手な言葉の定義なので大変恐縮ですが、一般的には譲渡というのは見返りを求めないものです。なので、この図では物質と交換しないという意味で「譲渡」と命名しているものの、サービス・コンテンツ・芸術など物質を媒介としないような売買もこの「譲渡」に含まれると考えていただければと思います。
ではもし仮に、物質的な商品よりもこのようなソフト商品を優先し、寝食を忘れて没頭してしまうような経済があったらどのような姿になっていくでしょうか?(ちょっとドキッとした人もいるのでは?)
余りにもSFちっくな考え方なので没案になりましたが、こういう平行世界も考えていました。例えば、人類は肉体を捨て去り、情報社会の中でコンテンツを消費・提供しあいながら永遠に生きていくことになりました。
などという結末はいかがでしょうか?

循環型社会

続いて、敢えて物語では排除した重要な考え方を示しておきます。戦前からずっと議論し続けている人類共通の課題です。産業革命以降の爆発的な消費の拡大とそれに伴う人口増加は簡単に自然が生み出す資源量を枯渇させると多くの人が危惧しました。コレを解決する考え方が循環型社会です。図に戻って考えてみましょう。循環というのが何を意味しているのかと言うと、もちろん物質の循環です。つまり、自然から出て行く資源の量と自然に帰ってくる消費の量が等しいことを意味します。そして、ここがもっとも重要なのですが、戻ってきた消費物を資源に再生産しなければなりません。コレが難しいのです。
熱力学用語でエントロピー増大の原則というものがあります。物凄く簡単に表現すると、壊れた花瓶は自然に元に戻らない ということなのですが、物質は基本的に拡散していき逆の現象は仕事をしないと起こらないのです。消費というのはマクロで見ると物質が使用できない状態になることですが、この理論に照らし合わせると拡散して元に戻らないことを意味します。つまり、再生産は自然には起こらないもしくは物凄く長い時間がかかったりエネルギーや労働力が必要になるのです。現状の技術力では、このエネルギーや労働力のコストが高すぎて、自然に落ちている資源を拾うより割高になりがちです。
この割高なコストを解決する方法は次のようなものが考えられるのではないでしょうか?
①ハード消費を全くしない
②最低限のハード消費に抑え、それを叶える技術開発を行う
③とにかく自動化、低コスト化の開発を行う
④循環は諦めて資源採掘技術を上げる
残念ながら物語で選んだ結末は④になります。その他は全てハードの消費が減少もしくは一定となり、拡大していかないと考えたからです。①がSFちっくな最大ソフト消費の社会、③は自動化による無労働社会、②は最後に説明する生存主義となるでしょう。

生存主義

では最後に②について私の考えをもべていきましょう。
生存権という考え方がありますが、ハード経済の根幹である消費のベースは生存のための消費です。当たり前なことのように思えますがコレを優先させるという考え方です。何と比べて優先させるのかというと消費の拡大、つまり経済成長よりもということです。まあ私が勝手に言ってるだけですがw 物語の中でも出てきましたが、労働時間でいうと時間一杯働いて消費を最大化させるのではなく、生存できる範囲で止めるという考え方です。普通の人は余り受け入れられないかもしれませんね。
コレは産業革命以降のところでも少し記述しましたが、失われたもう一つの未来像です。自動機械の導入と発展によって、人類は生存に必要な物資の入手コストを下げ続けて来ました。このときに皆が消費を優先させるのではなく、また経済発展を優先させるのではなく、生存とそれに付随する人間らしい生活を優先していれば、資源の枯渇をここまで心配せずともの生活を維持し、爆発的な人口の増加も抑えられたかもしれません。今からこのような選択をしても遅くは有りません。技術の発展とともに労働時間は減少していき、生活は質素なものになっていくでしょう。食品や衣料品は画一的な物になっていくかもしれません。
もしかしたら、シリアルやサプリメントだけの食生活になってしまうかもしれませんが...

最後に

如何だったでしょうか? コレが物語を描きながら私が考えていたことです。色々な条件を考えてみて、そこから予測できる未来について考えてみましたが、どうも極端な状態を想定してしまうのが私の癖のようです。ただし、物事は極限と極限の間に存在します。極端な未来には辿りつかないだろうと油断していると、知らない間にそちらに引っ張られてしまうかもしれませんよ。今の日本が間接的強制労働になっているように...
そんな事はさておき、もし本当に誰もが納得する条件(主義と言っていいと思います)が存在し、それが採用されれば未来は複雑ではなくもっと予測のつく社会となるかもしれません。そうすれば誰もが課題を認識し、一丸となって解決に取り組める。私はそんな日本を夢見ています。


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