歯科医院で知った報われる努力と続いていく冒険
私は虫歯になったことがない。
ただ、それは努力によるものではなく、何もせずとも虫歯にならなかったというだけである。
若い頃は歯を磨くことすら適当で、口の中のケアのことなど考えもせず過ごしていた。
それでも虫歯はできなかったので、特にそのことについて問題は感じていなかったし、気にもとめなかった。
しかし、30歳を超えたあたりで、歯磨きをしているとやたらと口の中が出血するようになってきた。
痛みなどはなく、しばらくはほっておいたが、ある日突然、歯科医院にでも行ってみるかという気持ちになった。
別に問題はないだろうと思いつつ、まあ何事も経験だし行ってみるかというような謎の上から目線で、近所の歯科医院に予約を入れた。
歯科医院に行く前は、「虫歯がなくていい歯ですね。出血も普通にあることなので大丈夫です」くらいに言われるだろうと、妙な自信をもって楽観的な気持ちでいた。
ところがこれが大きな間違いだったのである。
まず、歯のレントゲンを取り、椅子に座るように促されると、目の前に私の歯のレントゲン写真が示された。
それを見ながら歯科医の先生は難しい顔をしつつ「歯石がかなり溜まっていますね。歯周病の一歩手前か、もうほぼなりかかっていますね。歯医者にどれくらい行ってないですか?」と言う。
私の歯に関する妙な自信と、楽観的な予想は音もなく崩れ去った。
先生は「この状態だと一度に歯石を取ることは難しいので、何度か通ってもらいます」と私に宣告する。
私が苦し紛れに「虫歯になったことがないので、歯は大丈夫だと思っていました」と伝えると、先生は「虫歯になりにくい体質だっただけですね。ちゃんとケアしないと、本格的に歯周病になって大変なことになりますよ」と言う。
私は自分の歯について、甘くみすぎていたことを知り愕然とした。まさか歯周病になりかかっているとは思いもしなかった。
何回か歯科医院に通い歯石を取ってもらい、とりあえず歯はきれいになった。
ただそれだけでは不十分だと先生は言う。
「毎日のケアが大事なので、これからは歯磨きをちゃんとすることはもちろん、歯間ブラシとデンタルフロスもやって下さい」とのことだった。
歯間ブラシもデンタルフロス(俗に言う糸ようじ)もこれまでの人生で一度もやったことがなかった。
私には必要のないものだと、勝手に決めつけていた。
実はそうではなかったらしい。
歯磨きに加えて、歯の間をきれいにしておくことが、歯周病予防に大切なことのようだ。
先生は歯間ブラシとデンタルフロスのやり方を丁寧に教えてくれた。最初はうまく歯の間に入らないし、痛いし、血は出るしと苦痛だったが、慣れてくるとできるようになってきた。
先生は私が苦戦しながら、歯間ブラシやデンタルフロスを歯に通す練習をするのを励ましつつ、見守ってくれた。
この先生は物事をはっきり言うし妥協しない。私がちゃんと一人でできるようになるまで、しっかり指導してくれた。
私はわりと素直で「こうしなさい」と言われると、それに従って期待に応えたいと思うタイプである。
そしてはっきりと強く言う人に対して弱いところがある。
この性質が歯のケアに関しては、いい方向に現れた。
私はその日から、口腔ケアに目覚めてしまった。
最初はせっかく教えてもらったんだし、家でもやらないと申し訳ないよな、というくらいの気持ちであった。
ただ、続けていくうちに歯間ブラシやデンタルフロスをすることが快感になってきた。むしろやらないと気が済まない。
口腔ケア意識低い系だった私が、突然、口腔ケアに目覚めてしまった。
毎日せっせと歯の間をきれいにする日々が始まったのだ。
そして3ヶ月後、定期検診の予約を入れていたので、もう一度歯科に出かけた。
これだけ毎日やってきたので、今回こそは「きれいになっていますね。毎日頑張っていますね」と言葉をかけられる未来を予想していた。今度こそは先生に、あっと言わせてやろう、という気持ちで意気揚々と歯科に向かった。
しかしまたしても、その薔薇色の未来への期待は儚くも破れた。
「だいぶ3ヶ月で歯石が溜まりましたね。デンタルフロスとかやってますか?あなたは虫歯にはなりにくい体質みたいですが、歯石が溜まりやすいみたいですね」と先生は言う。
私はこれでも足りなかったか、と一瞬目の前が暗くなった。
しかしここで負けるわけにはいかない。
私はわりとしつこいタイプである。何事も始めるまでに時間はかかるが、いざやり始めるとそれを追求したくなる。
これはもはや歯科医院の先生との闘いである。ここで諦める訳にはいかない。私は諦めの悪い男である。努力によって勝利を目指したい。
私は週刊少年誌の登場人物のような気持ちをもちつつ、口腔ケアの質を高めていくと決めた。
歯ブラシで磨く時間を長くすること、歯間ブラシやデンタルフロスをさらに丁寧に行うことにまず取り組んだ。
さらに、いろいろな口腔ケアグッズを段階的に買い揃えて、セルフケアをしていった。
歯についた黄ばみを取るステインイレイサー、歯科医院で使うような金属製の歯石を取る道具、水圧で歯間をきれいにするジェットウォッシャーなど、いろいろ試してみた。
それでも定期検診に行くと先生は「今回はまあまあ歯石がついてますね」とか「奥歯のところ、磨くの苦手ですね」とか「歯茎に歯ブラシを当てすぎて傷ついてます」とか、私の口腔ケアが不十分であると指摘する。
先生はまだ負けを認めないのだ。こいつはなかなか強敵だ、オラワクワクすっぞというような気持ちになり、さらに口腔ケア道に邁進していくことになっていった。
ただ、この辺りで私と先生の闘いは一時的に休戦を迎える。
それは私の仕事が忙しくなったこと、子どもが産まれて育児をするようになったことで、私の自由にできる時間が飛躍的に減少して歯科に行ける時間が取れなくなったからだ。
定期検診を勧めるハガキは何度も来ていたが、生活のリズムの変化からくる多忙さで、歯科医院からだいぶ足が遠のいていた。
そろそろ行かなきゃということは常に頭にはあったものの、なかなかそれが叶わなかったのである。
ただそんな日々が続く中で、最近、仕事や育児もだいぶ落ち着いてきた。
歯科医院に行くくらいの時間がようやく取れるようになったのである。
これはあの先生との闘いを再開するしかない。
だいぶ歯科医院に行っていなかったので不安はあった。歯石が着きすぎだと怒られる可能性もある。なんでもっと早く来なかったのかと咎められるかもしれない。
日々のセルフケアだけはしっかりやっているつもりではあったが、私の口の中はどうなっているのだろうか。
恐れと心配としばらく行けていなかった後ろめたさを胸に、歯科医院に向かった。
久しぶり先生に会うと緊張はさらに高まった。ドキドキしながら、仰向けになり口を大きく開く。
しかしここで意外な言葉が聞けたのだ。「きれいですね。歯石もあんまりないです。どこか別の歯医者に通ってましたか?」と言うではないか。
もちろん、忙しかったので別のところに行っていたことはなく、これは日々のセルフケアが功を奏した結果だと言っていいだろう。
私が他の歯科医院には行っていないこと告げると、先生はちょっと驚いた様子だった。
そして、私は喜びを隠しきれない表情をしていたようで、それを見て先生も微笑んでくれたことでさらに嬉しくなった。
こうして先生との闘いは終わった。私も先生も笑顔で闘いを終えられた。
こんないい結末を迎えられようとは、久しぶりの歯科医院に来る前は考えもしなかった。
口腔ケア意識低い系だった私が、ここまで辿り着くことができた。
心の中で先生とがっしり握手をして足取り軽く帰宅した。
人生において報われない努力はたくさんある。
しかし、報われる努力もある。
報われる努力がある以上、これからも努力することを諦めないでいようと、また少年誌の登場人物のような前向きな気持ちを抱くことができた。
しかし先生との闘いはまだ始まったばかりである。
これからも定期検診はある。
口腔ケアという名前の冒険はこれからもずっと続いていくのである。
俺たちの闘いはまだまだこれからだ。
口腔ケア、これからも素直にしつこく頑張ります。