
究極の私信
2010年に結婚した。
妻とは職場の同期として出会い、お互いに仕事の悩みを相談し合う中で、仲が深まり自然な流れとして結婚することになった。
世の中にはこんな出会いはたくさんあり、ありふれているだろう。
ただ、私たちに二人にとっては唯一の出会いであり、運命であり、その先にある幸せな未来しかその時は見えていなかった。
結婚する人の大多数は、はじめは幸せな未来を信じて疑わないと思う。
私たちも、もれなくそうであり、私たちの乏しい想像力では結婚後に楽しい未来だけでなく、いろんな種類の未来が訪れることなど考えもできなかった。
結婚して15年が経とうとしている。
いろんなことがあった。
想像していた未来とは違った。大変なこと、つらいこと、苦しいことがあった。
ただそれを乗り越えて、15年前の私たちの未来はどんなふうになっているか、15年前の私に向けて書きたい。
未来の自分が過去の自分に向けて書く、これは究極の私信である。私信という言葉の使い方が間違っているかもしれないが、これから書こうとする文章について、そう表現することしか思い浮かばない。
未来は幸せなだけではない。ただ試練を乗り越えるとまた新しい未来が見えてくる。
そんな話を15年前の私に送りたい。
ただ究極の私信とは表現したものの、私たちと同じような経験をしている人、そして私たちとは全く違う人生を送っている人にも読んでもらいたいなと思っている。
この文章を読んでくれるいろいろな立場の人が、これをどう受けってくれるのか分からないし不安もある。
ただ、この夏、始めての入院をして、人生を振り返るということに気持ちが向いてきた。
そして、それを表現して文章という形にすることで、ほんのごくごくわずかでも、他者に私という存在を残しておきたくなった。
あなたの人生の少しだけの時間を私に分けてもらって、この文章を読んでもらえると嬉しい。
◇
結婚してしばらくは私と妻は、結婚前に付き合っていた頃のように、毎日それなりに面白おかしく過ごしていた。
もともと、私と妻は話や趣味が合っていて、一緒に飲みに行ったり、ライブや夏フェスや旅行に出かけたりすることが多かった。
結婚してからも、そんな感じで二人で仲良くやっていた。二人で出かけるだけでなく、友達を我が家に呼んだり、私と妻の共通の仲間たちとレジャーをしたりとそれなりに日々を充実させていた。
お互いに仕事もしていたので、平日は思いっきり働き、休日はとにかく遊ぶか疲れて昼過ぎまで寝るかという感じであった。
結婚当初はそれで全く問題はなかったし、お互いに不満を感じることなく過ごしていた。
そんな毎日が結婚してから、3年、4年と続いていった。
楽しく感じられていた日々に、この頃から少しずつ綻びが見え始めてきた。
仕事も遊びも自分たちの好きなペースでできていて、それに不満がないことには変わりはない。
ただ、一つだけ私たちには大きな問題点が浮かび上がりつつあった。
それは子どもができないということである。
私たちは子どもが欲しいと思って結婚した。
世の中の人たちは、いろんな考えがあり、結婚や子どもをもつことについていろんな意見があると思う。
ただ私たちの共通認識としては、結婚してしばらくしたら子どもが欲しいということがあった。
子どもがなかなかできなかったので、妻は基礎体温を記録し始めて、排卵日のタイミングを見計らって、ということを続けた。
それもうまくいかずに、毎月、生理がくるたびに妻の顔は暗くなった。
今月もダメだったということが続いて、妻は落ち込み、私も悩み、二人の間に微妙な空気が流れるようになってきた。
それまでは楽しかった、ライブや夏フェスや旅行も、子どもができないという悩みがあると、以前のようにはお互いに楽しめなくなっていた。
そこで、結婚して5年目を迎えようとしたくらいに、不妊治療専門のクリニックに行ってみたのである。
そこでも最初はタイミング法(基礎体温をつけて排卵日に合わせて妊娠ができるようにする)を勧められた。
それはさんざんクリニックに行く前からやってきたことではあったが、先生の言う通りに、再度やってみた。
やはり結果は思わしくなかった。
そこで人工授精をクリニックから提案された。精子を取り出して、子宮内に人工的に入れて、授精を試みるというものである。
私たちはタイミング法では無理だったが、さすがに人工授精をすれば子どもができるだろうと、喜んでクリニックからの提案を受け入れた。
しかし、これもうまくいかなかった。
精子を子宮内に入れても、うまく授精せずに妊娠まで辿り着かないのである。何度か人工授精をしてみたが、いっこうに成功しない。
私たちはかなりショックを受けた。
不妊専門のクリニックの治療は、時間が取られるし、特に女性への身体の負担もある。
人工授精はそれほど、身体への負担はないとはされているものの、妻はつらそうであった。
そして何よりも不妊専門クリニックの治療中は、精神的なダメージが大きい。
タイミング法をしていた時も、人工授精を試みた時も、毎回結果は「妊娠していません」と言われてがっかりする。
通院を繰り返しても期待は裏切られ続ける、という結果にはかなり心が削られる。
毎回通院後は、帰り道はもちろん、帰宅してからもしばらくは私も妻も無言だった。
そして私たちはついにクリニックから足を遠ざける。
あまりに上手くいかないことが続き、クリニックへの負の感情が高まり、そこに行こうとするだけでつらくなってきてしまったのだ。
妻はある日、涙ぐみながら「もう(クリニックには)行かない」と宣言した。私も同じ気持ちだったので「分かった」とだけ答えた。
その後は、夫婦で楽しめることをたくさん見つけよう、ということで二人でマラソンを始めたり、自転車で遠出したりするというような、私たちにとって新しい遊びを開拓した。
それによってだいぶ気が紛れたこともある。
二人で体を動かせば、充実感があるし気分もいい。
旅行がてら各地のマラソン大会に出てみたり、都内の主要な公園に自転車で行ってみたりするなど、ある意味健康的な日々をしばらく送った。
ただやはり、不妊治療から離れたことでモヤモヤしている部分はどうしても心の中に残っている。
まだできることはあるんじゃないだろうか。
やっぱり諦めきれずに、これで無理だったら最後と、ある種の悲壮感を抱きつつ、不妊治療を再開することにした。
再開するにあたって、新しいクリニックに行くことを決めた。新しいクリニックに行けば、うまくいくのではないかという、藁をも掴むような期待があったからだ。
そこは自宅とはちょっと遠いところにはなるが、評判の良いクリニックである。
ただ、また新しいところになると、タイミング法から始めるというような、一からのスタートになるのではないかという危惧もあった。
不妊治療とはだいたい、タイミング法、人工授精、体外受精とステップを踏んで進めることが多いからだ。
しかし、新しいクリニックはこれまでの治療経過や私と妻の検査の結果から考えて、ステップを飛び越えて顕微授精という、不妊治療における最後の砦というところを最初からやってくれるということになった。
顕微授精とは精子と卵子を取り出して、それを体外で受精させた上で、子宮内に戻すというやり方である。
私の精子と妻の卵子は、どうやら子宮内で授精することは難しいということが検査から分かったので、顕微授精という方法を取ることになったようだ。
これでできなかったら、もう本当に諦めるしかないという方法ではあったが、最後の手段としてダメでもしょうがない、やるだけのことはやろうということで、顕微授精を試みることにした。
ただ、前のクリニックでやっていた人工授精に比べて、顕微授精は女性への負担がかなり大きい。度重なる通院のため、妻は何度も職場を休まなければいけない。そして、卵子を育てるために自宅で自分で注射をする必要もあった。
また、卵子を体外に取り出すことも、非常に身体に負担がある。
この時の妻の苦労については今でも頭が下がるばかりだ。
そして、精子と卵子を取り出した後、しばらくしてクリニックに行くと、受精卵が5個できたということである。
精子と卵子を取り出してもうまく受精卵にならない場合もあるので、私たちは心底ほっとした。
これまで散々うまくいかなかった不妊治療に、ようやく一筋の光が見えてきたような気がした。
不妊専門クリニックに行って、うまくいかないことに慣れきっていた私たちにとって、これは信じられない驚くような良い知らせだったのだ。
5個あるうちの受精卵から、最も状態の良いものを子宮内に戻した。もちろんここでも油断はできなくて、子宮内で受精卵が育たないこともある。
どうか無事に育って欲しいと、毎日祈るような気持ちであった。
ここまでくると、うまくいかなかった時の落胆はどんなだろうと悪い想像ばかりが頭に浮かんできたが、順調にお腹の受精卵は育ってくれた。
しばらくすると妻に悪阻がきた。
それはひどく辛そうであったが、子どもがお腹の中で育っている証拠だと、密かに安堵もしていた。
ただ、妊娠しているとはいえ何が起こるか分からないと、かなり私は臆病になっていて、少しでも妻の様子に変化があると私はかなり不安になり、気が気ではなかった。
外でよその家庭の赤ちゃんを見るたびに、うちも無事に産まれてくるといいなと思っていた。
妻は産休に入る直前まで、かなり忙しく仕事もしていたので心配も大きかった。
しかし、私の不安は今回はいい意味で裏切られて、予定日を3週間も遅れたものの2017年の4月に無事に長女が産まれた。
この日から、私たちの人生は全く変わった。
あれほど夢見てきた子どもがいる生活は、薔薇色のことばかりではなかった。
育児や家事を私と妻でどのように分担していくかということで、何度も衝突した。
子どもが可愛いことは間違いないが、結婚して7年間、二人だけで呑気に暮らしていた生活が一変するのである。
たくさん喧嘩をして、お互いにとってよいペースで家事や育児ができるようになるまで、1年くらいはかかった。
自分の時間はなくなり、ほぼ仕事か家事と育児という生活になったのである。
最初はかなり戸惑った。
しかし、もちろんたくさんいいこともある。
子どもの成長は、普段の苦労を吹き飛ばすエネルギーに満ち溢れている。
子どもからもらえるエネルギーは何よりも生きる力になる。
そして、毎日お父さんでいさせてもらえることにも感謝している。子どもが自分を頼ってきて、抱っこして欲しいとか、遊んで欲しいとか要求する姿は何よりも喜びを感じる。私がそれを受け止めて、子どもが嬉しそうな姿を見せてくれるのはさらに嬉しい。
長女が産まれてからしばらくして、凍結してあった別の受精卵を妻の体内に戻して、二人目の子ども(長男)も生まれた。
こうして、今は長女が小1、長男が年中組になっている。子どもたちがいる生活にすっかり慣れて、それが当たり前になっている。
毎日、子どもたちと共にワイワイ言いながら忙しく過ごしている。
だから子どもがいなかった日々のことや、不妊治療をしていた時のことを忘れそうになる。
しかし、あの過去があったからこそ、今の未来がある。子どもたちと一緒にいること、毎日、子どもたちによって力をもらえる今という未来がある。
今は子どもたちがいて良かったと心から思う。
ただここで立ち止まって考えた。
過去のちょっとした選択や巡り合わせの違いで子どもがいない未来があったかもしれないことを。
二つ目のクリニックに行ってなければ、二人だけの生活に満足しきっていたら、顕微授精が成功していなかったら子どもはできていなかった。それはほんの少しの選択や巡り合わせの差である。
でも子どもがいない未来があったとして、その未来はただ単純に不幸で、毎日悲嘆にくれて過ごしているのだろうか。
そうではないはすだ。
もし子どもができなかった未来でも、今の未来と同様に、私たちはいいことも悪いことも経験しながら、豊かに生きているということである。
どんな未来だったとしても私たちはそこで生き続けているし、そこには確かな喜びがはずである。
たまたま私は子どもたちがいる未来を生きているが、そうでなかった未来も存在する。
ただ一つだけ共通しているのは、どんな未来であってもそれは苦楽がともなうということだ。
いろんな経験をした過去、想像していたように綺麗ではない未来、そして悩みながら生きている今。
そのどれもがかけがえのないものであり、私という存在を作り上げている。
あの頃の未来にいる私は過去の経験を拠り所にしながら、さらなる未来に向けて今日も何とか生きているのである。
◇
究極の私信は一旦これで終わりにしたい。
さらなる未来である10年後、20年後の自分はどうなっているのだろうか。
今の私には、10年後や20年後の自分の姿は想像もできない。
ただ、もし10年後や20年後の私も過去の自分に究極の私信を送っているとするなら、未来っていいことだけでも、悪いことだけでもないけど、人生って価値があるものだよと書いてあったら嬉しい。