ウィー ラヴ マラソン
先日、久しぶりにハーフマラソンの大会に出てきた。
10年くらい前は、月に一回くらいのペースでハーフマラソン大会に参加していたが、子どもが産まれてからは、育児などの忙しさを言い訳にして、ほとんど走らなくなっていた。
10キロ程度の大会には、最近も出ていたが20キロを超える距離のレースは久しぶりで、ちゃんと走れるか心配だった。
おまけに、今夏は体調を崩して入院もしていたので、体力低下していて、さらなる不安感も募っていた。
ただ今回は友達も一緒に走るということで、心強くもあった。友達は前の職場の同僚であり、ほぼ同じ年齢である。キックボクシングなど格闘技のジムには通っていて日常的に運動はしているものの、ハーフマラソンを走るのは初めてであるとのことだった。
友達も初体験のハーフマラソン大会には不安があったようで、レース前に二人で「最後まで一緒に走ろうね」と約束していた。
マラソン大会で「一緒に走ろうね」と友達と誓い合ったという経験は、わりと多くの人が、学生時代に経験してきたことではないだろうか?
私も小学校のころ、マラソン大会前にクラスメートに、「一緒に走ろうね」と言われたことが何度かある。その時は私が遅すぎたため、だいたいクラスメートにおいていかれた記憶がある。
マラソン大会における「一緒に走ろうね」は遂行されない場合が多い約束として、私には認識されていた。
余談になるが、中間テストや期末テストの前に「全然勉強してない、やばい」と言っていたクラスメートほど、いい点数をとるのと同じ現象であると私は考えている。
とにかく、私と友達は「一緒に走ろうね」という、儚いと思われる約束をしてスタートをきった。
いつもマラソン大会に出て走っていると「なんで参加費を払ってまで、休日にこんな辛いことをしなきゃいけないんだろう」という思いに至る。
今回ももれなくそうであり、マラソン大会に申し込んだ日の自分を罵りたい気持ちになっていた。
走っているうちに膝関節、腿の裏の筋肉、ふくらはぎ、足の裏と次から次へと痛いところが出てくる。
こんな思いをしても、誰も褒めてくれないし、いいことがあるわけではない。
なんでこんなことしてるんだろう、という気持ちになりながらひたすら走っていた。
ただ今回は、友達が一緒に走っている。私は自称義理堅い男である。一度した約束を破ることはできない。
どんなに辛くても友達に遅れをとることなどできはしないのだ。
幸いにも、私と友達は現在の走力はほぼ同じだったようで、お互いに無理のないペースを守れば一緒に走れた。
私は「なんで好きこのんでこんな辛い思いをしているのだろう」という気持ちを、頭の隅に押しやり、友達と一緒に走ることだけに集中した。
そして学生時代とは違い、大人の分別がそうさせたのだろうか、私たちは「一緒に走ろうね」の誓いをゴールまで守ることができたのだ。
私にとって、マラソン大会における「一緒に走ろうね」が果たされた初体験であり、感無量の思いだった。
走りきった後は「できた」という達成感を友達と共に分かち合った。疲れはあるものの、身体中から「やりきった」という喜びが湧き上がり、友達とお互いを称え合ったのである。
タイムは良くなかったが、そんなことは気にならないくらい「走りきることができた」という満足感が得られた。
ここで、なぜ私がマラソン大会に出続けるのかやっと思い出したのだが、それはこの達成感である。
道中は「やめたい、走りたくない、リタイアしたい、足がいたい、もう二度とマラソンなんかしない」というネガティブな気持ちしか湧いてこないが、走り終わった後の達成感はそれらを全て吹き飛ばすだけのパワーがある。
この達成感を得られるのだったら、多少の苦労なんて大したことはないと思える。
もうマラソンなんてしないなんて言わないよ絶対、という槇原的ポジティブ思考になれるのだ。
友達とはその後、近所のスーパー銭湯に行き、しばらくはさらに喜びを分かち合い、テンションが上がりきっていたためヒップホップ流の握手をしつつ別れを告げて、それぞれ帰宅した。
この21.0975キロは全人類にとっては短い距離である。
ただ私たちにとっては、苦難を共にしてそれを乗り切り、喜びを分かち合った距離だと永遠に記憶されるだろう。
リスペクトマラソン。
ウィーラヴヒップホップ。
おしまい。