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山岡鉄次物語 父母編4-5

《若き日の母5》空襲

☆珠恵の住む街も空襲の危険に晒さらされようとしていた。

東京では昭和19年11月から終戦までに106回もの空襲があった。
なかでも昭和20年3月10日の東京大空襲の被害が大きかった。

東京大空襲とは、太平洋戦争中に行われた空襲の中でも、とりわけ大規模な無差別爆撃で、民間人が大きな被害を受けた空襲だった。

米軍の爆撃機は日本の貧弱な防空能力を見越して、機銃や弾薬の代わりに多量の焼夷弾を積んでいた。
325機のB29爆撃機は低空飛行で、38万発以上の焼夷弾を投下していった。

米軍は日本列島への空襲に、日本の木造家屋を研究したM69焼夷弾を使った。

M69焼夷弾とは、親爆弾(クラスター弾)の最小単位の子爆弾のことで、爆撃時は多数の子爆弾をまとめて親爆弾に収納した上でB29爆撃機に搭載され、投下される。

照準可能な安定フィンを持ったクラスター弾(焼夷弾38個を収納)は投下後、高度約610mで裂けて焼夷弾が散らばる。M69焼夷弾は散らばった後、信管の着いた頭部を下に向けて落下するために、尾部から長さ約1mの綿製のリボンが出て来る。
焼夷弾が散らばる時に使用される火薬によって、リボンにも火がつくので、地上からは火の雨が降ってくるように見えると言われた。

M69焼夷弾が、建物や地面または屋根を貫通して床などに衝突すると、時限信管が数秒間燃焼し、焼夷弾が横倒しになった後で、トリニトロトルエン火薬が起爆し、その中に含まれるマグネシウム粒子によって焼夷剤に着火する。
焼夷剤は信管の反対側の端から、最大で30mの高さまで、燃焼する多数の火の玉として噴出し、これらが周辺の物を強力に炎上させる。

まさに、火災を起こす為の焼夷弾は木造家屋の多い東京を焼き尽くすのだ。


空襲の跡は一面の焼け野原と焼け焦げた遺体の山で、酷い惨状となった。

この空襲による被災者は100万人を超え、26万戸以上の家屋が焼失した。
死者行方不明者は10万人とも云われている。

珠恵の一番上の姉、東京下町の和菓子屋の嫁となっていたいえ子は、夫の親戚を頼って北関東の田舎に疎開していたので難を逃れた。しかし下町の店は焼失してしまった。

東京の八王子にいた次兄の春芳は、この後終戦間際の八王子空襲を体験するが、無事であった。

戦争の空爆には民間人を巻き込む無差別爆撃は避けて、軍事施設に限るというルールがあった。
米軍では空爆の命中率の低さが問題となり、B29爆撃機は空爆を無差別に切り替えたのだ。

日本軍も中国において無差別爆撃を行った事があるが、米軍の日本本土の爆撃の数には及ばない。

米軍による空襲は日本全国を標的とし、約2千回の無差別爆撃が行われた。
約2千40万発の焼夷弾が投下され、約850万発の銃弾が撃ち込まれたのだ。
45万人を超える日本国民が銃弾と焼夷弾、これによる火災で、犠牲になった。

この頃には日本各地の主要都市が空襲の被害を受けていた。

珠恵の住んでいた甲陽市も例外ではなかったのだ。

それは七夕の日を迎える7月6日の深夜に始まった。

午後11時23分に最初の空襲警報が発令された。
今まで甲陽市では空襲警報が発令されても、米軍機が通過するだけで、実際の空爆を受けた事がなかったためか、避難する人は少なかった。

この後、街の全域で米軍の絨毯爆撃が行われ市街地の80%近くが灰塵と化すことになる。

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