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山岡鉄次物語 父母編2-1

〈 若き日の父1〉統制経済

☆頼正は熱心に仕事に取組んでいた。

日中戦争の影響を受け、国民の生活も貧窮しており、横畑木材も他人事ではなく売上が減少していた。
頼正が出来るのは仕事に精を出す事しかない。

店の売上を少しでも伸ばす為に、いろいろ工夫を凝らした事があった。
頼正は簡単な木材の加工ぐらいなら、器用にこなせるようになっていた。

ある時、両端を広ろげた、安定感のある梯子を作って販売してみた。現在で言えば、木製の広げた脚立のようなものだ。
安定性が評判となり、梯子は飛ぶように売れた。
しかし、問屋商売としては一時しのぎでしかなかった。


戦争は頼正の生活にも影響を及ぼし始める。

国家総動員法が昭和13年に成立して、金属関係から統制が始まった。
昭和15年になると戦時の統制経済強化の為、木材の自由取引が禁止されるようになった。
木材業の私的営業が禁止となり、長い歴史がある東京材木問屋同業組合は解散をする。

昭和16年には木材統制法が施行されてしまった。

木材統制法施行の経緯は、支那事変が始まって、米材や南洋材の輸入がストップしたことに始まる。

大量の軍用材や一般材は国内の木材で自給しなければならなくなる。

戦争が長期化すると、製材工場の職人や山林労務者が召集され、人手不足になり製材も伐採も困難になった。
用材配給統制規則発令、木材公定価格発令などが公布されると、問屋同業組合は木材価格監察委員会を設立し木材価格の自主取締を行ったこともある。

この様な事情から昭和16年木材統制法を施行し、木材業は1年限りの許可制とした。
政府は木材の生産と配給は国策会社によるべきとして、日本木材統制株式会社を設立し、この会社を日本木材株式会社に発展させ、木材統制がより強化された。

翌年になると東京にも統制機関として大東京木材株式会社が設立され、材木店は営業出来なくなった。

材木問屋での、頼正の仕事は無くなった。
横畑木材は休業状態になり、勤めていた人、奉公人たちは一人二人と離れて行った。

金の切れ目が縁の切れ目、女事務員も姿が見えなくなった。経済的には苦しくなった横畑の家だが、奥方のヒステリックに感じた険しい顔つきが、少し柔和に見えた。
頼正は人の幸せはお金ではないんだなと思った。

賄い係りの芙美は、少し前に年季奉公が終わって郷里の福島に帰って行った。二十歳になる芙美は、頼正には浪江に帰ったらお嫁に行くと言っていた。
芙美の郷里は東日本大震災による原発事故の影響を受けた現在の浪江町だ。

頼正はいい人に限って、別れがついて来ると思った。憧れのような想いを抱いていた頼正は、芙美との別れに独り涙した。

頼正は約束の後半3年が経過してなかったので、どうしたらいいのかと、途方にくれる毎日を送っていた。


国家総動員法による統制経済とは、どのようなものだったのだろうか?

国家総動員法は戦争の長期化による総力戦の遂行のため、国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる旨を規定したもので、昭和13年近衛内閣の下で公布施行された。

この法は、戦時において国力を最も有効に発揮できる様に、国家総動員の推進の為に必要と認められる事柄について、政府が広範な統制を行えるよう定めたものである。
統制経済とは、戦時などの緊急時に経済の混乱を防いだり、経済力を最大限に動員する目的で、物価・金融・賃金・労働力の配分、財の配分などを国家が統制した経済のことだ。


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